戦勝に酔えない三十八年の庶民娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 136
戦勝に酔えない三十八年の庶民娯楽
一月旅順のロシア軍降伏/五月日本海海戦/九月日露講和条約締結
・戦争に勝ったけど・・・
 正月二日、旅順陥落の朗報が入る。三日の新聞には、戦勝の余響で初出も景気がよさそうと、書かれている。しかし、二日後には、好天に恵まれたにもかかわらず初卯の参詣人はチラホラ、全般に不景気と論調を変えてしまった。その後、初水天宮や初巳には、大勢の人々が参詣し守り札を買い求めているが、店の売り上げをあげるまでにはならなかった。日本橋区深川区の板ガラス組合や小間物化粧品組合、塩問屋、米穀取引組合、乾物問屋組合などが日比谷公園に、約4千人を集めて旅順陥落の戦勝会を開いた。神田でも提灯行列が催され、戦勝ムードは次第に高まっていった。その後、旅順陥落を祝した祝捷会は全国各地で行われた。吾妻橋サッポロビールでは軍用模範大軽気球があげられた。
 日露戦争活動写真は、一等70銭から五等20銭と少々高めの料金設定ではあったが、明治座で元旦から上映され喝采を博した。この映画は一月の半ばより浅草の国華座で、その後、赤坂溜池の演技座でも上映された。また、浅草公園江川座で別の戦争活動写真が、本郷座でも従軍実写ものが、二月には歌舞伎座でも日露戦争の活動写真が上映された。前年の暮れまでは、女義太夫、落語、講談ともいずれも不入りであったが、旅順陥落後は、目立って景気付き、ことに女義太夫が大入りになったように、大衆レジャーに回復の兆しが見えてきた。
 ただし、花見の人出を見るかぎり、大衆の遊びへの気運は冷えきったままである。読売新聞の「もしほ草」には、この年の花見について、ただ人がどやどやと出るばかりで、例年のような賑わいがない。それは、時局に考慮して控えめにしているからであろう。楊枝で重箱の隅を掘じくるような警察の干渉が影響して、皆ビクビクして、警察が大目に見くらいの道化さえ見ることができないのは甚だ淋しい、とある。
・祝勝会に動員される市民
 それに対し、神武天皇祭に日比谷公園で、10万人も動員する大規模な祝捷会が開催された。公園の前では警官が参加者を手振りだけで誘導し、押し寄せる見物人をコントロールした。行進は軍隊式で、兵隊の経験のな-者ばかりであったができばえは見事であった。それはどこの小学校でも行進の教練が行われているためで、会場内の整列にしても、各団体ごとに場所が指定されており、警察の力を借りなくても順調に運んだ。宮城前の広場は大きいもので、10万人の人間が全員整列し、天皇に対して「万歳」が三唱された。10万人の小旗が翻った光景は、壮観であった。その後、行列は上野公園に向い、不忍池の周りに整列し、本式の祝賀が行われた。また、演説や仕掛け花火、池の中に造られた要塞を爆破する鉄嶺焼討も行われ、大音響とともに催しは終了した。
 三月の奉天会戦五月末の日本海海戦によってロシアには大きな損害を与えた。といっても日本側もさらに戦争をする余力はなかった。戦争に勝ったというよりは、双方ともそれ以上はもう戦えないから終わらせた、というのが実情。ともかく戦争に一区切りがつき新たな戦いはない、ということから、六月の戦捷祝賀会は、多くの人々に安堵感を与えた。劇場観客は、春頃から増加し、六月、七月には前年の五割以上に増えている。七月、両国・銚子間に避暑回遊列車が運行されたところを見ると、金持ち連中は遊びに出かけはじめた。しかし、日枝神社赤坂氷川神社の祭礼を見るとまだ質素で、軒提灯を掲げるだけというありさまだった。大衆は、再三の祝捷会に費用を使い果たし、地域の祭を盛り上げる余裕をなくしていたようだ。
・疲弊の著しい庶民たち
 この当時、戦場に行かずに済んだ人までが疲弊しきっていた。戦争遂行する費用は、国民の負担となり、非常特別税が三十七年三月、三十八年一月に実施された。増税額は戦前の租税収入とほぼ同じくらいの約1億4千万円、つまり二倍の税金を取られたといっていい。さらに国債も五回にわたって募集。募集とはいっても、一軒一軒戸別訪問して勧誘するという半ば強制に近い方法もとられた。集められた総額は、約4億3千万円であった。それだけでなく、各区役所を窓口とした「恤兵金」の献納、毛布や靴下などの献納も学校を通じて行われた。
・日比谷焼打事件と征露凱旋大歓迎会
 戦争に勝ったと思っていた国民にとつて、締結されたポーツマス条約はあまりにも期待外れであった。講和条約反対集会が大阪や名古屋などで開かれ、東京では九月五日に日比谷公園で開催されることになっていた。しかし、混乱を恐れた警視庁は、大会の禁止を通達、発起人らを検束、公園の各門を閉鎖した。それでも参集した人々は、数万人にものぼり、公園に入ろうと実力突破をはかって国民大会を開催した。大会終了後、二重橋に向かった群衆はそれを阻止しようとする警官と衝突、その後は市内の派出所を焼き払い、内務大臣官邸、新聞社などを襲うという大暴動に発展した。
 日比谷焼打事件の暴動は、組織的ではなく、個々に不満を持った大衆が起こしたものであった。日比谷公園に集まった人々は、戦争に勝てば生活が少しは良くなると期待して頑張ってきたのに、何も変わらないのでひどく失望していた。政府の高官たちは戦時中のストレスを解消できたが、低所得者層になるほど戦時中の抑圧は解消されにくかった。花見や祭は自粛させられ、毎日、長時間働いてただ寝るだけという変化の乏しい生活が二年近くも続いていた。為政者は、一年以上の長期にわたる戦争を遂行させるには、国民の緊張をゆるめるような遊びを意図的に与えなければならないはずであった。それなのに、日露戦争は国民の士気を高めることだけに力が注がれ、貧しい人たちほど圧力をかけられた。彼らの我慢の糸も切れる寸前だったに違いない。
 十月、バルチック艦隊を撃破した東郷平八郎らの連合艦隊が凱旋し、上野公園で征露凱旋海軍大歓迎会が催された。凱旋門は京橋、日本橋、四谷、上野、神田、浅草、赤坂、青山、新宿などの町々におもいおもいの趣向を凝らしてつくられていた。イルミネーションで飾られた品川駅の凱旋門は、ひときわ光彩を放ち、帰還を祝う雰囲気を最大限に盛り上げた。東京は連日、凱旋兵を迎える熱気につつまれ、交通機関がマヒするような人出と賑わいが続いた。以後、日比谷公園を会場にして、芸妓の仮装ホーカイ節や太神楽の曲芸、模擬店が出され、凱旋歓迎会が続々と催される。十二月にも陸軍大歓迎会が開催された。もつとも、大衆の多くは、沿道で出迎えるために動員されても会場に入ることは許されず、会場を取りまく野次馬として扱われるにすぎなかった。 

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明治三十八年(1905年)の主なレジャー関連の事象
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1月 明治座大本営許可写真・日露戦争活動写真を挙行
1月Y亀戸の妙儀社などの初卯は好天にもかかわらず、不景気にて参詣人少なし/読売
1月Y初水天宮、旅順陥落の快報で前年に勝る人出、御守り札売り切れ
1月Y浅草の珍世界で七本足の奇馬、金銀目の白猫、十五貫余の大南瓜などが陳列された読売新聞5月17日

1月Y日比谷公園で旅順陥落の祝勝会
1月 吾妻橋サッポロビールで軍用模範大軽気球を催し、会費15銭、軍人無料
2月M伊藤侯、ドウスル連になる/都
2月M歌舞伎座の活動写真、セントルイス博覧会を加え大入り
2月M紀元節、上野・浅草・日比谷公園など中々の人出、飲食店も相応の潤い
3月M奉天占領の祝捷会、各地で式や提灯行列・旗行列などが催され、動員10万人
3月M落語の人気回復のため落語研究会を結成し、日本橋常磐津倶楽部で第一回を催す
4月M神武天皇祭に合わせた祝捷大会、二日伸びる、日比谷公園に5万人、上野不忍池で鉄嶺焼討を催す

4月Y花見の人出は多いが盛り上がりを欠く、向島で迷子21、喧嘩3、酩酊56
4月M京橋区月島で明治大学校運動会、2500名参加
4月M靖国神社遊就館付属パノラマ館開館
5月M靖国神社大祭、7日間天候に恵まれ最高の人出、パノラマ館だけで1万人を超える
5月 歌舞伎座で若葉会第一回の文士劇を興行する
5月 平民社が初のメーデー集会「五月一日茶話会」歌舞伎座で若葉会第一回の文士劇を興行する
5月 慶応義塾学生が日比谷公園でフートボール挙行
6月M日比谷公園東京市戦勝祝賀会を催す、また各所にても祝捷
6月 明治座日露戦争従軍の特派員撮影の活動写真興行
6月M日枝神社赤坂氷川神社、両祭礼質素に執行
7月M豊竹呂昇一座が新富座で六年ぶりに上京して興行、午後五時開場、50銭~20銭
7月M両国・銚子間に避暑回遊列車が運行
7月M浅草四万六千日、早朝より参詣者多く出商人も多く景気づく
7月M賽日、浅草公園はいうまでもなく各所閻魔堂・遊び場は前日の倍の賑わい
8月F日比谷公園内の音楽堂で開堂式が行われる/国民
8月Y両国の川開き、例年にない人出、迷子20・喧嘩36・酩酊69、乗合船大人15銭・小人10銭
8月Y新宿まで電車が開通して、十二社の滝の人出増す
8月Y芝浦海岸で水神祭を兼ねて花火打ち揚げ
9月 日比谷でポーツマス講和反対国民大会、焼き打ちに発展、市内各所に検問所を設置
9月 松旭斎天一歌舞伎座で欧米帰国後初の奇術興行、1円~30銭、市内不安のため不入
9月M戒厳令中の月見、愛宕山・品川・高輪・御殿山・上野見晴らし・神田明神など中々の賑わい
9月M各神社、大祭を延期
10月Y団子坂の菊人形、日露戦争ものなどで賑わう、大人5銭、小人3銭
10月Y上野公園で征露凱旋海軍大歓迎会が開催される
11月M酉の市、浅草、四谷、品川などで催され繁盛する
11月M靖国神社大祭、午前中から立錐の余地なき賑わい
11月M凱旋歓迎会が始まる、日比谷公園に芸妓の仮装ホーカイ節や太神楽の曲芸、模擬店等催す
12月Y歳の市、市内各地で催され賑わう
12月M上野で征露凱旋陸軍大歓迎会が開催される

娯楽も戦時色の三十七年

江戸・東京庶民の楽しみ 135
娯楽も戦時色の三十七年
二月日露戦争勃発、日韓議定書締結/三月旅順で広瀬中佐戦死
日露戦争下のレジャー事情
 前年より新聞は政府の意を受けて、強硬外交論を唱え、開戦へと世論を誘導した。大衆の対悪露感情を悪化させることによって、非戦論は完全に押さえ込まれ戦争へと突き進んでいった。二月、ついに日露戦争が始まる。大衆のレジャー活動にブレーキがかけられる一方で、戦捷祝賀会がたびたび催された。仁川・旅順での戦況についても、まだ戦いは始まったばかりなのにまるで勝ったかのように伝えられた。祝捷会の目的は、初戦勝利を祝うというより、大衆の戦争への士気を高めることであった。銀座通りには炬火行列などが繰りだされ、大衆の愛国心は戦争遂行へと導かれていった。大人たちが戦争熱にうかされる中、子供たちの間でも、あそびはもっぱら「戦争ごっこ」であった。この頃から一組15銭の日露戦争絵はがきも売り出された。
 三月早々に、向島百花園が軍人優待の準備。花見時になれば、上野公園に軍人無料の軍国花見茶屋が設けられ、余興に新橋芸者の江戸節や三田八橘蔵の手踊りなどが催された。この年の花見はいたって大人しく、悪ふざけをした道化や揃いの衣装で飾った団体客の姿もなく、景気づけに現れる流しの芸人もあまり見られなかったようだ。九段靖国神社遊就館では、仁川の戦利品や露国軍艦旗を目立つ場所に陳列し、多くの人々を招いた。四月下旬からは大久保の躑躅園でも、ツツジやボタンの花には似つかわしくない日露戦争活人形、旅順港閉塞決死隊、鴨緑江激戦などが催された。また、日清戦争で一山あてた川上音二郎が、好機到来とばかりに「戦況報告演劇」を企画。ただし、検閲を受けていたにもかかわらず、誤解されそうな場面があるという理由で開場前日に興行差し止めが入るなどのトラブルがあり、五月になってようやく上演された。
 五月、日比谷公園で対露戦市民大祝捷会が十万人を動員して開かれ、盛大な提灯行列が行われた。この提灯行列は、九連城占領を記念した祝捷会で、行進中に順序を無視して進み、馬場先門、桜田門で行列が混乱して、市民が20名も死亡、25名が負傷するという大惨事をひきおこした。以後、祝捷会は、会場内の参加者と場外の見物人とに区別され、式場とその周辺は警察によって厳重な警備がなされるようになった。それでも、祝捷会は、大衆にとっては現実の苦しい生活を一時でも忘れられる、お祭気分の娯楽であり、レジャーの一つとして受け入れざるを得なかった。
・相撲の不入りをよそに戦況パノラマ大人気
 肝心要のロシアとの戦いは、国内の報道とは異なり、苦戦の連続であった。旅順港閉塞作戦は、二月、三月、五月と三回にわたって決死の戦いが行われたが、ロシアの主力艦隊を壊滅させることはできなかった。しかし、上野パノラマ館では、鴨緑江畔大激戦や旅順港外露国旗船沈没大海戦の作品を完成させ、人々の来訪を待った。神田錦輝館では、日露戦争の従軍実況映画の第一報が公開、士気高揚が画策され、連日の大入りで公演を延長している。以後、続々と日露戦争の実写フィルムが上映されるなど、大衆生活の細部にまで戦争が入り込んでいった。一方、回向院の大相撲は、お客が来ない。最も観客数の多かった日でわずか721人と閑散としたもの。十日間合わせてもなんと、3,328人という不入りである。
 七月の入谷の朝顔市にまで、朝顔の大緑門が造られたり、日露戦争にちなんだ朝顔人形を並べて戦争ムードを盛り上げた。戦争とあまり縁のない上野動物園は、日露戦争で見物人が少ないとの記事がある。事実、入園者数は、二年前の半数程度、50万人を割ってしまった。そのうえ、地域の活動まで制約され、品川の天王大祭は、神輿の渡御が見合わせ。氷川神社の祭礼や町内会の行事は、旅順陥落まで待つように延期させられるという状況だった。前年賑わった各地の八幡の祭礼も、延期され、万歳を記した軒提灯を掲げることとなった。
・戦捷に便乗する大衆レジャー
 だから大衆の方でも、八月の両国の川開きには、戦捷をかねるというようにして楽しむというような智恵もついてきた。船には陸海軍の徽章を描いた提灯を下げ、料理屋も各国の国旗を飾るなどして盛り上げた。九月に、東京市街鉄道が祝捷のイルミネーション電車を運転したが、これも戦争で気分が暗くなりそうな大衆に、明るいムードを提供してくれることから人気を集めた。十月からの団子坂の菊人形も、日露戦争ものをテーマとして作られた。パノラマは、もともと戦争などスケールの大きい題材が適しており、浅草パノラマ館では南山激戦の大パノラマを興行した。暮れも近づくと、神田では「旅順要塞占領スゴロク」が売り出された。
 なお、浅草でも日露戦争ものが幅をきかせていたが、その一方で十二月には浅草公園ならではの興行も行われている。公園六区では、大盛館が江川の玉乗り、清遊館が浪花踊り、供盛館は青木の玉乗りと岩てこの太神楽(曲芸を挟む道化芝居)、娘手踊り美園一座、日本館で志紅松一座、清明館で加藤一座の剣舞、明治館では丸一仙太郎・竹沢藤治合併一座の独楽など。そしてなかで最も人気があったのは、岩てこの太神楽であった。ただ、浅草の歳の市の人出は、時局の影響で例年の三分の二にとどまり、商人たちは不景気を託っていた。また、納の水天宮も、正午頃から群集したが近郊・近在からの人出が思うように伸びなかった。
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明治三十七年(1904年)の主なレジャー関連の事象
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1月M初日の出、洲崎二号地、高輪海岸、芝公園丸山、愛宕神社、招魂社、神田明神湯島天神、凌雲閣等/都
1月Y初卯、亀戸の妙儀社、守り札人気、参詣者で雑踏/読売
1月Y深川八幡の初縁日が大賑わい
1月Y虎ノ門琴平神社縁日に開運守札5万枚
2月Q初戦勝利に銀座通りは、炬火行列などが繰りだす/毎日
2月M臥龍梅、木戸銭5銭となり、実利主義との声
2月 子供のあそびに「戦争ごっこ」流行
2月 東京かるた会の第一回競技会開催
3月E東京座で坪内逍遥の「桐一葉」が興行され好評/日本演劇史年表/国民
3月M演技座や国華座など日露戦争もの上演し大入り
3月M浅草公園に瀬戸物細工美術人形開設、日露戦争満州の兵火・道成寺・紅葉狩等
4月Yサッポロビール吾妻橋にビヤガーデン開設
4月M上野公園に軍国花見茶屋が設けられ、軍人無料、余興に江戸節や手踊りなどが催される
4月Y花見時、天候に恵まれ人出多し、鉄道乗降客休日30万人、向島迷子27、酩酊46等
4月 靖国神社境内の遊就館は戦利品などを陳列し、盛況
4月M大久保の躑躅園、日露戦争活人形などを催して開園する
5月Y靖国神社大祭、参拝の雑踏にスリ、迷子、喧嘩が多発
5月G本郷座での川上一座の戦況報告演劇が再度の検閲を受けて上演される/時事
5月G神田錦輝館で日露戦争の従軍実況映画の第一報公開、大入りで公演を延長する
5月A日比谷公園で対露戦市民大祝賀会に10万人が参加、混乱で提灯行列の市民20名死亡/朝日
5月Y上野パノラマ館、鴨緑江畔大激戦・旅順港外露国旗船沈没大海戦作品完成
5月M各地各会社等で提灯行列を催す
6月Y日本橋で提灯行列、帝国ホテルでも提灯行列
6月M品川天王大祭、神輿り渡御を見合わす
6月M回向院の大相撲、最大で日721人、合計3328人の不入り
7月Y入谷に朝顔の大緑門、戦争朝顔人形出る
7月Y神田錦輝館で日露戦争の実写フィルムを上映
8月Y両国の川開き、水陸とも黒山の人出
8月M吉原で祝捷旗行列、浅草公園で祝捷行列
9月Q東京市街鉄道、祝捷のイルミネーション電車を運転、市民の人気を集める
9月M各八幡の祭礼延期、万歳と記せる提灯を掲げる/都
10月Y団子坂の菊人形、時節がらいずれも日露戦争ものを催す、入場料五~十銭
10月Y浅草花屋敷の戦争人形、西洋操り人形もあって子供連れを誘う
10月 浅草パノラマ館で日露戦争の南山激戦の大パノラマを興行
10月Y真砂座で日露戦争実地活動写真を上映し、以後各劇場で日露戦争の活動写真を上映する
10月Q早稲田大学慶応義塾野球試合が早稲田の校庭で挙行、観覧者無慮2万と11/①
11月M一の酉は不景気ながら、比較的人出あり
11月M天長節を祝い、町は飾られ各公園は中なの賑わい
11月A日比谷公園に和風喫茶開店、洋食や玉突き場など併設、茶菓子五銭
11月 日比谷公園で国民後援会大会開催
12月Y浅草歳の市、人出は例年の三分の二、時局の影響と商人のグチ
12月M納の水天宮、正午頃に群集したが近郊近在の人出少なし
    この年、早稲田野球部が連戦連勝する

 

三十六年の娯楽に感じる忍び寄る戦争

江戸・東京庶民の楽しみ 134
三十六年の娯楽に感じる忍び寄る戦争
四月政府対露方針決定/十月小村外相とローゼン露公使の交渉開始
・人気役者が消え、客離れの進む歌舞伎
 この年、二月に五代目尾上菊五郎が死去、後を追うように九月には九代目市川団十郎が世を去った。それでなくても劇場への観客の足が遠くなっている時期である。歌舞伎の二本柱を失ったことは、演劇界に大きな衝撃を与えた。劇場観客数は、前年より51万人減少して285万人となった。演劇、特に歌舞伎を大衆が気軽に見に行くようになったのは、明治になって、それも二十年代に入ってからである。二十二年に歌舞伎座が開場したのを皮切りに、二十五年に中小の劇場がいくつも開場し、翌年に真砂座、明治座と続き、観客席が著しく増えたことから料金もかなり安くなった。それまで大衆にとっては高嶺の花であった歌舞伎等の芝居が身近になり、一挙に劇場観客数を増加させ431万人に達した。ただし、大衆が芝居に熱をあげたのは三十三年頃までで、それ以降は活動写真に関心が移っていく。これに加えて、相次いでスターが消え、以後さらに観客が離れていったとも考えられる。
 なお、歌舞伎座は六月に「歴史活人畫(レキシカツジンガ)」を興行。活人畫は、明治二十年頃、虎ノ門工部大学校において、ドイツ人が行った後絶えていたが、この四月に下田歌子女史が水交社の癸卯倶楽部で園遊会余興に催したところ、喝采を受けた。七月にも活人畫は、活動写真とともに興行され、都新聞に「一昨夜は美術家連の見物あり。なお、八百蔵、女寅、吉右衛門菊五郎、栄三郎、高麗蔵等俳優びいきの連中見物もある筈なりと」ある。これがどんなものかというと、歴史上の人物に扮した演者が美術家の作成した背景の前に並んで、十分程度立ったまま講談をするというもの、とある。
 十月に活動写真の初の常設館・浅草電気館がオープンした。電気館での映画見物は、土間に下駄履きで入り、前の人の肩ごしに立ち見するものであった。枡席や椅子の座って観賞する芝居見物とは明らかに違うもので、劇場の大入り場以下との評価されていた。しかし、活動写真は、浴衣掛けや下駄履きで見れる気安さ、寄席と同じような感覚が大衆の心をしっかりつかんだ。
・潮干狩りよりもまだ開帳
 三月、東京湾は、まだ埋め立ていなかったので汐干狩りで賑わっていた。東京付近の汐干狩りは、芝浦、高輪、浜離宮下、深川越中島、州崎沖、品川の台場などの場所で行われた。当時の汐干狩りは、干潟に残された魚や蟹などを拾い、それを船頭等に料理させて味わうというもの。江戸時代から続いた行楽で、現代のように海岸沿いの干潟で貝を拾うというだけのレジャーではなかった。干潟まで陸続きに歩いて行くのではなく、遠浅の東京湾にできる島状の干潟へは船に乗って渡るものだった。貸し船の相場は、伝馬船で1円50銭、荷足船で80銭、乗合船が15銭。新聞には船相場が格安とある。が、まだ大衆の遊びとはいっても誰もが容易に楽しめるというわけではなく、一日の乗船客は5千人を超えなかった。
 四月、浅草観音の開帳、上野や墨田川の花見には大勢の人々が出ているが、特別賑わったという記事は出ていない。逆に、大久保の躑躅見物に臨時列車が運行、樹齢三百年もの古木をはじめ、いくつもの園が開園して客を待つとある。もっとも、不景気で飲食店の売り上げが伸びず、人出ももう一つであった。五月、浅草の水族館にジャワ産の一間半(2.7m)のワニが展示され、話題を呼ぶ。六月、日本チャリネ大曲馬の公演が回向院で、特等1円、一等50銭~四等10銭、昼夜二回興行。日々数千人もの参詣がある信州善光寺の開帳と重なり七月には延長され、その後神田和泉町平河町天神境内と場所をかえて、八月になっても興行が続けられた。
・庶民にはあての外れた日比谷公園
 この年、市民が最も関心をよせた日比谷公園がついに六月開園。開園式後、一般人の入園が許されるようになると、定刻前から待ち構えていた人々が四方から乱入して思うように歩くこともできなかったと、新聞に書かれていた。当時の公園は、浅草公園や上野公園などのように大衆のレジャーセンターというイメージが強かったので、人々の期待も予想以上に大きかったと思われる。
 もっとも大衆の期待とは裏腹に、日比谷公園は、実は従来型の遊園地ではなく、首都東京にふさわしく、西欧スタイルの近代的な都市公園を目指して作られた。そのため、日比谷公園が画期的な公園であるという新聞の評価はあるものの、歌人・小説家の伊藤左千夫は、できた当初から痛烈な批判を向けた。すなわち「公園は只都民の遊戯場のみ、國家と何等のかんけいかあらむと」と、西欧の文明国に公園があるからといって、我が国にもつくろうなどという考えは浅はかである、というのが彼の論旨であった。写実的かつ、重厚な万葉調の歌風が特色である伊藤左千夫が、国家と公園の関係を論じ、さらに、公園のデザインにも言いがかりに近い非難までしているのも興味深い。
 ところで設置者が、日比谷公園の利用をどのように想定していたかとというと、家族連れで盛装して洋食を食べにくるとか、音楽を聞き香り高いコーヒーを飲むとかという、いわゆる西欧の公園で見られる上品なイメージであった。ところが、開園後二ケ月で、「市民の公徳心欠如を理由に深夜開放中止」との記事が出ている。その理由は「園内の花卉、樹木を窃盗するもの等随分多かるべき故」。東京市は警視庁に取締りを交渉中で、「やむなく一時その開放を見合わせ、現時の十時限りを十二時限りと改め、真に納涼のため同園に遊ぶものに対し便宜を与うべし」と、市民の利用を制限しようとする傾向が見られる。このように公園利用を管理しようとする姿勢は、掲示板に示され、荷車の出入り禁止、空車の馬車や人力車の入園禁止、広告看板及び諸芸人や行商などの立ち入り禁止、他の入園者に妨害したり不体裁な容装で入園することなどが禁じられていた。望ましい公園利用を市民の手に委ねようとはせず、あくまで上から指導しようとしていた。
 十一月、「天長節靖国神社大祭に挟まれた一の酉、」と書かれているから、酉の市は人出を取られたらしい。この年は三の酉まであるため、熊手の売行きも今一つとある。五月の靖国神社大祭も皇室関係者、陸軍大臣以下軍関係者が参拝し、一般参拝も許され立錐の余地もないほどの混雑ぶり。日露戦争を予感した空気が徐々に漂いはじめていたようだ。  
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明治三十六年(1903年)の主なレジャー関連の事象
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1月M上野パノラマ館、彰義隊苦戦状況、元旦より興行/都新聞
1月Y神田錦輝館、輸入映写機で元日より5日まで昼夜2回興行/読売新聞
1月Y亀井戸妙儀詣、人出多いが繭玉など売れ行き不振
1月M京橋祇園亭で源氏節が淫猥と科料1円
2月M川上音二郎明治座シェイクスピアのオセロを上演
3月 ジャクラー操一一座が神田錦輝館で奇術を興行する、一等30銭~三等10銭
3月Y潮干狩り船相場が格安、荷足り船80銭、伝馬船1円50銭、乗合15銭
3月Yサッポロビール吾妻橋にビヤガーデン開設
3月  芝浦・高輪・品川台場等へ汐干狩り客多く出る
4月M浅草寺開帳、21日間で違警罪3133人
4月 上野公園竹の台で労働者観桜会を開く
4月M江戸川の桜、花灯籠30余ヶ所、数十艘の船、代金20銭
4月M大久保のツツジに臨時列車を運転
5月 竹沢藤治一座が末広座で曲独楽を興行、午後五時開園、大人七銭、小人五銭
5月M靖国神社、皇族・陸軍大臣以下兵等の参拝、一般参賀許され立錐の地なき群集
5月M三社祭、開帳もあって盛大に
5月M烏森神社例祭、群集する
5月Y神田錦輝館でステレオ・シネマトグラフ公開
6月J日比谷公園の開園式が行われる/日本(日本新聞)
6月 二代目梅ヶ谷藤太郎・常陸山谷右衛門が横綱を免許される、相撲の明治期黄金時代到来
6月M浅草鳥越神社大祭、神酒所で争い
6月M歌舞伎座で歴史活人画興行、七月も活人画と活動写真
6月Y日本チャリネ、回向院で公演延長、7月神田和泉町、8月平河町等で興行
7月M回向院で信州善光寺の開帳、日々数千人の参詣
7月 東洋活動は、昼に真砂座、夜に市村座にて着色発声浮出し写真、評判良く興行する
7月M藪入り、上野・入谷等賑わい、鉄道や一銭蒸気いづれも満員
8月J日比谷公園、夏の夜間開放を十二時までとする
8月M千住の天王祭、炬火送りに神輿や囃子屋台出る
8月M川開き、花火船の血塗れ騒ぎ、船同士が器物を投げ合う、船中の乱痴気騒ぎ、喧嘩75件
8月M酷暑で角筈十二社や目黒等の滝の名所は大繁盛
8月M浅草公園常盤の温滝、男女混合にて始末書  
9月 恵比寿ビール、玉突台やローンテニス等の遊技場を設ける
9月M歌舞伎座で竹沢藤治の曲芸
9月M市ヶ谷亀岡八幡、高田穴八幡、若宮八幡等、祭礼多し
9月M二十六夜愛宕山と公園丸山は立錐の余地なき雑踏、品川の貸し座敷も一杯
9月M真砂座で自動人形開場、一等25銭・二等20銭・三等15銭・四等10銭・五等7銭
9月M深川不動、正五九の不動、参詣人多く、巡査を派して警戒
10月Y池上本門寺お会式、露店1015軒、多彩な興行物、臨時列車を増発
10月 浅草に初の常設映画館「電気館」が開場する
10月 東京座にてフランス製天然色活動写真を興行する
10月 日本橋白木屋が改築開店に際し、木馬・シーソーなどの新式玩具付き遊戯室を設置
10月M麻布高砂亭、毎夜大入り、清元や義太夫等にて、大切りに福引き
10月G川上一座が本郷座で子供対象のお伽芝居を興行、小児10銭、付添い30銭/時事新報
11月 米国人の女優カマンセラが歌舞伎座で舞踊と奇術を興行
11月Y帝国ホテルで天長節夜会、宮家・外交官等2000人余
11月M一の酉、天長節靖国神社大祭に挟まれ、人出はあったが熊手は小物のみ
11月G第1回早慶対抗野球試合が網町蜂須賀侯爵邸内運動場にて行われ慶応の勝ち
12月M深川八幡の歳の市、出店をめぐり血塗れ
12月M愛宕の歳の市、出店者1342人

明治三十五年に忍び寄る不景気の娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 133
明治三十五年に忍び寄る不景気の娯楽
一月八甲田山で青森歩兵第五連隊遭難/日英同盟調印
上野動物園は賑わうが停滞気味の市民の行楽
 一月、上野動物園にドイツのハーゲンベック動物園からライオンとホッキョクグマなどが新たに入園した。ライオンやホッキョクグマなどの人気は高く、この年から入園料が大人四銭、小人二銭と二倍に値上げされたにもかかわらず、入園者は前年より30万人以上増加して史上最高の約95万人の人々が訪れた。二月、日英同盟協約締結を受けて祝賀会がいくつか開催された。もつとも大衆を巻き込むような盛大な催しはなく、慶応義塾の学生たちが行った炬火(タイマツ)行列程度のものしかなかった。三月、春に予定されていた第二回日本労働者大懇親会は、前年大成功をおさめたことから人々も大いに期待していたと思われるが、労働運動の活発化を恐れた神田警察署長によって禁止されてしまった。
 この年のサクラは開花が早く、三月の末から咲きはじめた。墨田堤のサクラは上野より二三日遅れて咲きだし、前年と同様に多くの人出が期待されていた。墨田堤周辺には、掛茶屋に渡し船、長明寺の前には恵比寿ビールや東京ビールなどの小屋、御前境内には植木市、言問団子に長明寺門前の桜餅、それに自動電話も開設された。四月に入り、サクラのシーズンになったが酔って茶番を演ずるものもなく、官吏や学生などの姿が多かった。また、墨田堤の近くには、自転車預かり所との張り紙をした家が数軒あったが、六分咲きということからか未だ一輌もあずけた者はいないとの記事がある。そして、「今年の花景気はパッと咲かず」とあるように、例年のような賑わいはなかったようだ。なお、灌仏会は、回向院、浅草観音、薬師堂などがなかなかの賑わいだった。
 五月になり、小石川牛天神大祭が踊屋台や山車が出て混雑した程度で、六月の新宿花園稲荷の祭典では、神輿が貸し座敷に押し込まれている。
義太夫に迫る源氏節の流行
 都新聞では義太夫案内が紙面を割いているが、娘義太夫も一時の人気を失い、落語もマンネリ化して、寄席の入りは非常に悪化していた。そのような寄席芸のなかで、源氏節が六月あたりから大流行した。「源氏節」は、「祭文江戸説教」を「説教源氏節」とあらため、それからまた源氏節となったもので、三味線歌曲の一種。源氏節芝居とも呼ばれた。女役者だけで演技じ、特有の淫猥な演技があるという理由から、警察の目が厳しくなり、夏頃には早くも凋落傾向がみられた。九月初めには、麻布亭で「大和田日記」興行中に中止させられ、1円の過料が課せられた。
 寄席芸が今一つ盛り上がりに欠ける中、あか抜けした奇術は好評だったと見えて、四月にジャクラー操一一座が市村座で、五月には神田錦輝館で興行する。また、ドイツ人ピーターグレン一座が歌舞伎座に続いて、六月に明治座で一等50銭、五等10銭で興行した。また、八月にも英国人ダビス一座が歌舞伎座で奇術を昼夜二回興行した。ピーターグレン一座の演し物は、奇術に加えて、怪力や曲芸、幻灯や活動写真なども見せるというショーであった。ダビス一座は、トランプやハンカチなどを使った手品で、中には暗室中の大魔術など大仕掛けのものもあって、バラエティーに富んでいた。
・じわじわと不景気がしのび寄る
 十一月、浅草花屋敷では、菊人形が開園。足柄山奥山姥、丸橋忠弥捕り物、八島壇の浦、龍宮城内宴会などの菊細工活人形が陳列された。園内では、大ゾウの曲芸にオラウータン、トラ、クマなどの動物、盆栽、日本一の大声発音器があった。浅草公園は、当時の大衆がどんなものに関心を示したかを知るうえで最もふさわしい場所と言える。特に花屋敷は、子供から年寄りまで幅広い層が楽しめるようにつくられており、当時の庶民が求めていた娯楽の縮図がそこにあった。また、浅草田圃の初酉は、非常な盛況。浅草署が取り扱った事故等は、喧嘩制止675件、説諭406件、酩酊者210人、迷子96人、老幼保護237人など。十二月の観音市でも、好天気で非常な人出の割にはと言われる中、喧嘩95件、酩酊58人、迷子18人、老幼保護238人、スリにあった人61人など。停滞気味の東京の遊び場の中で、浅草は一人勝ちともいうべき状況であった。
 この年は、元旦から人出は多かったものの、景気の盛り上がりは今一つ。まず、春の行楽が雨にたたられた。六月の長雨によって、相撲は開催できず、その上人気力士の休場もあって、相撲茶屋の不景気は深刻であると。七月、入谷の植木屋11軒が、舌切り雀や丸橋忠弥捕り物、八犬伝芳流閣などの人形細工を設けたが、客の賑わいを伝える記事はなかった。藪入りも雨。八月になっても十二日までは雨の連続、川開きは辛くもお天気がもって相応の人出。十一月の天長節も前日二日間が大雨であったことから外出者が少なく、観兵式もぬかるみで中止された。この年の大衆レジャーは、天気に恵まれなかったこともあるが、戦争を予感して遊ぶ気運にならなかったのではなかろうか。
 寄席の観客が前年より50万人も減少して387万人となった。東京の人口が増加する中、徐々にではあるが娯楽活動を差し控える傾向が見える。劇場については、前年に54万人もの著しい減少があった。そのためか、劇場観劇数は、12万人とさほどの減少ではなかったが、337万人となった。劇場は、芝居の入りが悪いために奇術など演劇以外の興行を増やしている。観客減少の傾向は二年ほど前から始まり、明治三十二年に比べて、寄席と劇場の観客は合わせて204万人も減少している。この年観客が増加した上野動物園も、翌年は41%減少というように、レジャー活動の収縮化は日露戦争終了まで続くことになる。    ─────────────────────────────────────────────╴    

明治三十五年(1902年)の主なレジャー関連の事象
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1月Y元旦の人出は多かったが景気はいま一つ/読売
1月M深川初不動、寒気にもかかわらず盛況/都
1月 浅草公園内の常磐園で犬相撲が興行される
1月Y藪入り、浅草・上野など大賑わい
1月U上野動物園にドイツからライオンとホッキョクグマなどが入る/上野動物園百年史
2月M初午と節分が重なり、各地とも賑わう
2月 芝公園日英同盟協約締結祝賀会開催
2月M西洋の力持ちラシファー一座、神田錦輝館をはじめとして興行
3月 天満宮1000年祭で亀戸天神拡張される
3月M演技座で西洋風の夜芝居を上演
3月Y潮干狩り船の相場、大伝馬船頭付4円50銭、乗合船15銭
4月Y人と桜、この年の花景気はパッと咲かず
4月M灌仏会、回向院・浅草観音堂・薬師堂等でなかなかの賑わい
4月 上野公園で日蓮開宗650年祭が挙行される
4月M市村座ジャグラー一座の奇術、五月には神田錦輝館で興行
5月Y漫遊外国人、例年になく多く、ホテルはいずれも満員
5月 ドイツ人ピーターグレン一座が明治座で奇術を興行する
5月M小石川牛天神大祭、踊り屋台や山車が出て混雑
6月H源氏節が大流行する、8月には凋落の様子を見せはじめる/郵便報知
6月M赤坂氷川神社大祭、新宿花園稲荷で神輿が貸し座敷に押し込む
6月G神田錦輝館で、米西戦争の映画が上映される/時事
6月M虫の相場、松虫7銭・鈴虫6銭・轡虫25銭・螽斯30銭・金雲雀25銭・鐘敲20銭
7月Y花火遊覧船、荷足2人船頭付き1円50銭
7月M入谷の朝顔11軒、舌切り雀・丸橋忠弥捕り物・八犬伝芳流閣等の人形細工出る
7月G神田錦輝館で美当一調の軍事講談と活動写真会
8月 英国人ダビス一座が歌舞伎座で奇術を昼夜二回興行、10月には神田錦輝館で興行
8月Y連日の雨晴れ、柴又帝釈天、貝殻町水天宮等大賑わい
8月Y両国の川開き、お天気もって相応の人出
9月M麻布亭で大和田日記との源氏節が淫猥にて中止、1円の科料
9月M平河天神の菅公祭
9月M芝神明の大祭、山車・手古舞・大蛸干物曳物に玉乗り・書生手踊り・剣舞・雪中行軍人形等が出る
9月Y秋季祭、上野・浅草公園等晴れ着で賑わう
10月G早稲田大学開校式後、学生・学友五千人が市内をデモンストレーション
10月F浅草公園内の水族館、三周年記念で福引をする
10月Y宮崎滔天が神田錦輝館で新体浪花節「桃中軒」を組織し興行する
11月Y明治座で清国人の曲芸が興行される
11月 浅草公園内の花屋敷で菊細工活人形が開園する
11月 神田錦輝館で、軍談と組んで教育活動写真会を催す
11月Y天長節悪天候で人出少なく、観兵式も中止
11月Y浅草田圃の初酉、非常な盛況
12月G本所三つ目のゴロ市、飾物商18、古物商30、植木300余、飲食その他3ー400出店届け
12月M浅草観音市、好天気で非常な人出、迷子18、喧嘩95、酩酊58、スリ被害61、幼老保護238
12月 演技座で愛知の獅子舞を昼夜二回興行
12月 新橋亀屋が洋酒、ケーキを売り出す

20世紀に入るも変わらぬ庶民の娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 132
20世紀に入るも変わらぬ庶民の娯楽
二月福沢諭吉死去/五月社会民主党結成も2日で禁止/六月星亭暗殺
・二十世紀を迎えるエリートの祭
 明治三十四年は、イコール西暦2001年と、ここからは二十世紀を迎える。慶応義塾では、「十九世紀・二十世紀送迎会」が催された。運動場では五つの大きなかがり火が焚かれ、カンテラが並べられ、「官尊民卑」「守銭奴」「階級制度の弊害」「妾の悪習」などの十九世紀の風刺画と、「独立自尊」「文明の光」「四海を照らす」「社会の灯(トモシビ)」など、二十世紀に期待する言葉を大写しした四角の灯明台が設けられた。〇時になるや否や、学生たちは風刺画に向けて一斉射撃し、十九世紀の諸悪を燃やし尽くそうかというかのように勢いよく点火した。続いて、仕掛け花火に火がつけられ、「二〇センチュリー」との大文字が空高く写しだされた。万歳三唱が続くなか、午後八時から始まった「19世紀・20世紀送迎会」は、〇時二十分頃閉会となった。
 これは、学生が主催した送迎会ではあったが、福沢諭吉をはじめ五百人もの人が参会するという、非常に充実したイベントであった。式典の口演は、若手教員によって十九世紀から二十世紀への展開が雄弁に語られ、慶応義塾らしい内容であったという。式典後の晩餐会では、食堂で立食形式という学生主催の会ならではの新しいスタイルが採られ、希望とすがすがしさが伝わってくる。新世紀の祝いは、二十一世紀では大衆をも巻き込んで盛大に行われたが、二十世紀を迎えた明治時代は慶応義塾の選ばれしエリートの手によって行われた。
・労働者大懇親会の盛況
 もつとも二十世紀に入ったといっても、庶民は二十世紀の展望を考えるような生活レベルにまで達していなかった。明日の生活に不安を抱きながら働いていた大衆にとって、当然ながら労働問題にこそ関心事があった。三月の「二六新報」が労働者に対して、四月三日(水曜)、向島白髭前の広場における労働者大懇親会への参加を呼びかけた。その主旨は「日本労働者大懇親会ほとんど無意味にして、長閑(ノド)けき春の日に諸君が一年中の鬱(ウサ)を晴らす遊びごとに過ぎない。けれどもこの未曽有の大懇親会は、一面より資本家、労働者の長夜の眠りを覚ます一大動機たるやも知れぬ」というものであった。会費は十銭。午前九時に煙火を合図に開会され。プログラムは、奏楽、祝声、演説、昼飯、遊戯、福引、酒讌、散会となっている。
 労働者大懇親会に対して警察は、電話にて発起人を呼び出し、治安警察法第八条に基づきいて、集会の人数を五千人と制限し、酒類を与えることの禁止などを命令した。懇親会への圧力は、小石川の砲兵工廠や印刷局からもあって、出席を禁止し、出席者の免職処分があることも示唆している。その一方で、懇親会への寄付も多数あって、日本鉄道、東京瓦斯、石川島造船所、松屋、松阪屋、渋沢栄一西村勝三等から続々と寄せられた。
 懇親会当日は、午前二時頃から参加者が集まりはじめ、午前五時頃には開場が埋まり、それ以後も会場に押し寄せた。参加者は一万五千人を超え、天気もよく花見頃であったので、閉会後には三万人にふくれあがった。警視庁は、混乱を気遣い深川や小松川などの各署から警官を一千余名配置し、憲兵も出張するという厳重な監視下で行われた。広い会場は大混雑であった、演説は、スピーカーがないので日本最初といわれた大きなメガホンが使用された。終了後も、相撲や芝居などの余興が催され、飲食店などもひき続き利用されるなど、盛況ではあったが大きな混乱なかった。
・春の行楽は花見に潮干狩り
 一方、庶民の花見は、花曇りの日曜日(八日)、十時頃から上野へむかう人が広小路あたりからどっと列をなした。満開のサクラを求めて大勢の人が出歩いたらしく、市内の鉄道馬車の売り上げもうなぎ登りだった。この年、花見時の天候は恵まれなかった。向島では、午後から雨となった日には、雨宿りのため飲食店が大繁盛で売れ切れが続出した。なお、上野の花見茶屋では、掛台料2銭、菓子3銭、ゆで卵2~3銭、ラムネ2銭5厘、酒小瓶8~10銭、麦酒小瓶10~12銭などの協定料金を申し合わせていた。春の行楽は、潮干狩りも盛んで、三味線や太鼓を持ち込み、馬鹿囃子や滑稽踊りを演じながら品川沖に押し出す者もあった。獲物が少なかった割には、幾百隻もの船が出て賑わった。
 五月からは祭が多く、靖国神社大祭をはじめ、浅草三社祭、小石川牛天神祭礼など。六月も日枝神社、浅草浅間神社、鳥越町鳥越明社、芝崎町感応稲荷、四谷須賀神社などの祭が続いた。七月の草市は、銀座、尾張町、南伝馬町、両国広小路、上野広小路人形町通、今川橋、明神下、小川町、茅町、雷門前、吉原、四谷大横町、牛込神楽坂、麹町五丁目横町、青山久保町、板倉四辻、本芝、小石川柳町、本郷追分、根津八重垣町などで催された。まだ、盆を迎えるという伝統行事がしっかりと続けられており、新聞にあげられた以外の場所でも盆用品が売られていた。相場は、灯籠30銭、牛馬25~30、笹5~6銭、蓮花12~3銭、同葉5~6銭、鎗ン棒5銭、酸漿12銭、瓢箪15銭、真菰25銭、間瀬垣23銭、苧売8銭、禊萩15銭位であった。
・自転車が流行
 六月末から明治座では、米国人ブァンが自転車曲乗りを昼夜二回興行していた。七月になっても大入が続き、興行を延長した。自転車人気は、明治座の俳優はもちろん、囃子や衣装方などの人たちにまで波及し、劇場への往復に自転車を使う人もでた。十月にも春木座で、ダブリュ・シボーン一座が自転車曲乗りを興行した。自転車曲乗りをまねて路上で行う人が出てきたためか、警視庁は自転車の手放し厳禁、二人乗り禁止などの、改正自転車取締規則を発布した。さらに、九段坂や神楽坂など東京の急坂十三ヶ所では、自転車の乗車が禁止された。
 新聞社のイベント企画は、労働者大懇親会だけにとどまらず、十一月には不忍池畔で「十二時間長距離競走」が時事新報社の手で開催された。競技は、午後四時にスタートし、十二時間で不忍池を何周するかが争われた。賞金は一位百円、二位が五十円という豪華なものだったが、一着は七十一周で、あらかじめ定められていた最低標準の七十六周を超えることができなかった。ちなみに、この長距離競走、新聞社が自紙の販売促進をかねて主催した初めてのスポーツイベントだと思われる。                       
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明治三十四年(1901年)の主なレジャー関連の事象

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1月M元日は晴れて、各地の初詣賑わう

1月G慶応義塾で「19世紀・20世紀送迎会」が開催される②/時事
1月M深川初不動、参詣者多い、乞食も多いため30余人を引致/都
1月Y歌舞伎座で豪州演劇の公演は初日より大人気、紅葉の翻案物も好評/読売
2月M成田山の節分会、2万人の賑わい
2月Y梅ほころぶ向島、令嬢の自転車隊現れる
3月Y深川で女剣舞者の剣先で見物の少年が軽傷
3月M上野花見茶屋、掛台料2銭、菓子3銭、ラムネ2.5銭、酒8-10銭、麦酒10-20銭
4月X向島白髭前広場にて、第一回労働者懇親会が参加者三万人余で開かれる④/二六
4月Y花曇りのなか、今を盛りの花見客どっと繰りだす
4月F大久保のツツジ園に加藤清正の花人形などがでる/国民
4月 歌舞伎座、大入でも団十郎の容体悪化延長なし
5月M市ヶ谷新坂下に釣堀開業、一日30銭
5月M靖国神社大祭、九段坂より富士見町に見世物や露店等ならびなかなかの賑わい
5月G浅草三社祭りは例年どおり行われる
5月 回向院の五月場所、八日間で二万二千人の観客
6月 米国人ブァンが明治座で自転車曲乗りを昼夜二回興行する
6月M日枝神社大祭、山車や踊り屋台等が出て盛況、花傘が人目を引く
7月M草市、銀座・尾張町・南伝馬町等21ヶ所、灯籠30銭、牛馬25銭、蓮葉5銭、間瀬垣23銭、苧売8銭等
7月M入谷の朝顔、一面火の海になる奇観等、見物一層の賑わい
7月F市が、路上での見世物を禁止する
7月Y明治座の自転車乗り、大入で興行延長
8月M両国川開き、午後3時半頃に航行中止、大屋根船8円、大伝馬船5円、乗合船10-25銭
8月 米国人ジョーダンス一座が歌舞伎座で曲芸を昼夜二回興行、市村座で好評であったため
8月M芝浦海岸の花火も盛況
8月Y鎌倉の避暑客2千人余、貸し別荘繁盛
9月Y魚河岸の水神祭、新趣向の飾りつけが圧巻、夜間まで人出
9月M芝三田春日大社、小石川小日向神社、牛込赤城神社の祭礼
9月 赤坂演技座で教育活動写真会、昼夜上映
10月 浅草公園内の花屋敷で六十種の菊人形を開催する
10月Mダブリュ・シュボーン一座が春木座で自転車曲乗りを昼夜二回興行する、8銭
10月Mベッタラ市、市の繁盛推し返されぬ人、70本詰め一樽2.5~3.5円
10月G春木座で教育活動写真会
10月Y改正自転車取締規則改正を発布
11月M靖国神社大祭、隣接する遊就館にも1万人を超える入場者
11月 不忍池畔で十二時間長距離競走を行う、賞金一位百円、二位五十円
12月 花房清十郎が真砂座で漫才芝居を行う
12月Y浅草公園で骨なし娘の見世物、春木座では土佐の犬相撲を興行
12月G慶応義塾ラグビーチームが横浜の外国人と初の国際試合を行う
12月M深川の歳の市等盛況、浅草では喧嘩81、迷子36、幼老保護28など   

三十三年頃から徐々に盛り上がる娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 131
三十三年頃から徐々に盛り上がる娯楽
五月皇太子成婚式/六月義和団事件で日本出兵/九月立憲政友会結成
・平和を反映し市民のレジャーは盛り上がる
 浅草は、元旦から大勢の人々が訪れている。当時、市民の間で、三箇日に観音さまを初詣して、浅草公園で遊ぶというスタイルが定着していた。特にこの年は、「近来人の耳目を引く観覧物」と新聞に書かれた珊瑚閣が開業、前年十月にオープンした水族館も相まって賑わいを増した。珊瑚閣には、高さが二三尺、目方が三四貫もある特大の桃色珊瑚が陳列。桃色珊瑚は、学術上も装飾品としてもまれな珍品で「日々二千人以上」の見物人を集めたらしい。正月の浅草公園には、凌雲閣をはじめ劇場や見世物小屋などが元旦から来客を待っており、有料施設だけでも一日一万人以上を超える利用者があった。
 二月、七年前に新声館や春風館に出演したダーク一座が英国から再来日。新富座で操人形を午後と夕方からの二回興行。料金は、高土間35銭、桟敷30銭、土間25銭、中等・大入場が10銭と、比較的安かったと思われる。しかし、操り人形のできばえが悪かったのか、それともホーカイ節や長唄勧進帳といった伴奏に合わなかったのか、拙劣と酷評されている。以前受けたのでもう一稼ぎしようと、今度は収容人員の多い劇場に変えて興行したが思惑は見事に外れた。
 四月、花見は前年にも増して盛り上がった、12日の浅草所管内では、悪天候にもかかわらず酩酊保護者が55人、喧嘩15件、迷子18人もあったという。14日の上野・浅草・向島は、近来まれな人出とされ、酔漢が292人、迷子61人も保護され、喧嘩で147人が捕まり、スリも4人逮捕された。15日の天気は晴れ、職工の休みと日曜日が重なったため、さらに多くの花見客があったと見えて、「掏摸もしきりに出没」との記事。その後も、「花見客が大立ち回り」、「天神下同朋町の芸妓150人が休業して9時より上野へ花見に」などなど。新聞には、花見に関する話題が続いている。                       五月の大相撲は、初日の観客が1853人、二日目が1279人、以後1381人、1810人、2701人、3812人、七日目が最も多く3990人、2951人、3747人、最終日が730人。十日間の入りは、合計22444人。新聞には連日取組が紹介され、以前より観客数は増えたが、満員御礼の連続とまではいかなかった。
・演芸に外人コンプレックスがなくなる
 六月、歌舞伎座では、回向院で喝采を受けた米国人シードフラックらが自転車曲乗りを興行。菊五郎はかなり気に入ったと見えて再三見物に出かけ、彼に付いて自転車乗りの練習をしたという。七月にはフランス人デルフ一座が奇術を披露。前述の新富座歌舞伎座などの劇場で、歌舞伎や演劇とは異なる演し物が行われることが一般化していた。明治二十八年、川上音二郎歌舞伎座で「威海衛陥落」を上演した時に、団十郎が「いやしむべき書生芝居を演じさせた舞台は、全部削りなおさなければ今後出演しない」と断言したことなど一昔も前の話のようである。三月時の料金は、桟敷6円30銭、高土間5円30銭、平土間4円30銭、敷物50銭、三階席30銭であった。
 歌舞伎座は、明治二十九年に株式会社となった。したがって、劇場経営は採算を重視され、収益の見込まれる演し物なら何でも興行させようとする方向に移っていた。デルフ一座の奇術は、開場前から評判が高く、初日には劇場前に黒山の人だかりができるほどであった。が、あまりにも下手くそなので、観客が舞台に上がって騒ぎだし、中止。たった一日で閉場した。当然のことながら入場料を返せと言って観客が騒ぎ混乱したが、劇場側は売上げのすべてを養育院へ寄付するということで観客を納得させた。この措置は、劇場にとって厳しい選択であったが、当時はこのようなリスクも当然考慮されていた。
 その数年前には、外国からやってきたというだけで、芸の出来に関係なく喝采をおくり、大金を出していた時期があった。日本人は、現代でも外国人、特に欧米人に対して甘いところがあるが、欧米を模範としていた明治には、その傾向がより顕著であった。しかし、日清戦争に勝ったことや日英通称航海条約ほか改正条約実施によって、治外法権が撤廃されるなどし、少しは欧米コンプレックスも緩和されたのであろう、演芸の出来不出来の評価をハッキリと下すようになった。また、日本人の芸が欧米人と肩を並べるまでになり、日本人の観客も目が肥えてきた、ということもあろう。十月の新富座では、外人との共演による自転車曲乗り競技大会を興行。料金は、一等50銭から四等10銭までと、人気のあった同月の神田錦輝館が上映した「北清事変の従軍映画」の金額と変わらなかった。
・年末、神田明神で大惨事
 十一月、東京府から劇場取締規則が公布された。それによると、劇場数がそれまでの22ヶ所から27ヶ所まで許可数が増え、興行時間も従来の八時間から九時間に延長された。近年、大衆の生活が安定し、レジャー活動も活発化して、劇場観客数が年間400万人以上へと急激に増加したことを反映しての判断であろう。
 十月の大伝馬町のベッタラ市は人出が多く。十一月の浅草大鷲神社の初酉の市も、寿司20銭、汁粉5銭、甘酒3銭、粟餅5銭と高かったがそれでもかなりの盛況で、260台の馬車が延べ1500余回の運転で6277円の売り上げ。二の酉、十二月の歳の市も、多くも人々が各地に出かけ賑わった。なお、神田明神の歳の市には、玉乗り、女相撲、火渡り、七面相、曲芸、剣舞、猿芝居などの興行があった。それを見に大勢の人がつめかけたところに、急に雨が降り出し、人皆、我先にと帰ろうとしたため大混乱、死者が10名も出る惨事となった。                                       
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明治三十三年(1900年)の主なレジャー関連の事象
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1月M元旦が初水天宮、早朝より参詣人多く、勧工場など大繁盛/都新聞
1月M上野・浅草公園、見世物や露店、劇場も大入り
1月M藪入り、上野・浅草公園、見世物・露店・劇場も大入り
1月T浅草珊瑚閣が開業し一日の参観者二千人/東京日日
1月 上野公園の日本美術協会主催の葛飾北斎展覧会、来館者多く日延べ/時事新報
2月Hダーク一座が新富座で操人形を昼夜二回興行する、高土間35銭、桟敷30銭、大入場10銭/郵便報知
3月Y彼岸の中日、どっとあふれた参詣者/読売
3月Y浅草水族館にオットセイが新呼び物に
3月H浅草花屋敷の火事でオランウータンが焼け死ぬ
4月Y深川の浄心寺身延山の開帳が賑わう
4月M花見の騒ぎがエスカレート、向島では喧嘩96件、酔漢205人、迷子14人、スリ2人逮捕
5月M皇太子御成婚祝、街中を飾り、山車が曳き出され、日比谷原頭の大凧に見物人が群集
5月 皇太子御成婚祝で米国在留邦人が自動車を献上
5月 一高と横浜外人の野球試合で一高がシャットアウト勝ち
6月Y米国人シードフラックらが回向院と歌舞伎座で自転車曲乗りを興行する
6月M南千住の汐入山王の祭礼、屋台囃子神楽等
6月 警視庁、道路取締規則制定
7月 フランス人デルフ一座が歌舞伎座で奇術を興行する
7月M浅草四万六千日で鉋で氷を刷き落としコップに入れて5厘で売り、大人気
7月M上野のパノラマ、会津
7月Y神田錦輝館で相撲映画を公開
8月Y両国の川開き、川施餓鬼と重なり遊船底払いし好景気
8月M両国の川開き、38艘の大伝馬船などで警戒、河岸桟敷特別席1円・二階席上等一間6円・下座敷3円・一銭蒸気船待合所15銭
8月 東京の水泳教習所、七流派十七カ所
8月Y明治座の活動写真、大入で興行を日延べ
8月 本郷春木座で中村雁次郎の「鳰の浮巣」の映画を興行する
9月M芝神明祭礼、山車・踊屋台、剣舞、手踊り出る
9月M神田明神、西久保八幡、千住氷川等で祭礼
9月 救世軍と二六社報社が吉原で廃娼運動を展開し流血
10月M浪花節の流行で落語が圧倒され、浪花節と席亭とが衝突
10月M琴平神社の大祭、剣舞、眼鏡猿芝居等の見世物あり
10月M鬼子母神・堀之内・本門寺で会式、新橋・大森間鉄道17601人・2487円、鉄道馬車品川支局542円
10月F不忍池畔で第二回自転車競争会を行う/国民
10月 新富座で内外人によって自転車曲乗り競技大会を興行、一等50銭~四等10銭
10月M神田錦輝館で北進事変の従軍映画を昼夜二回興行、一等50銭~四等10銭
11月 劇場取締規則の公布、劇場数が22から27ヶ所に、興行時間も九時間に増加する
11月 東京帝大運動会(ヤード制を廃しメートル制を採用)挙行
11月Y明治座、大入が続き場代を大安値奉仕
11月Y上野・新橋駅は、紅葉狩り客が殺到
11月M浅草大鷲神社の初酉の市盛況、寿司20銭、汁粉5銭、甘酒3銭、酒12銭等と高い
11月H新富座で娘芝居(十二歳以下)を公演
12月M愛宕の歳の市、羽子板22、七五三飾45、植木88、飲食等250、見世物8、昼より雑踏し夜には群集

多様化が進む娯楽に三十二年頃から取締

江戸・東京庶民の楽しみ 130
多様化が進む娯楽に三十二年頃から取締
三月義和団事件勃発/七月明治天皇東京帝国大学卒業式で銀時計授与
・盛んになる行楽活動にしのび寄る取締り
 東京の町は、日清戦争から五年たって、ようやく落ち着きを取りもどし、庶民も正月らしさを味わえるようになった。たとえば安政の大地震以降絶えて久しい、隅田川七福神めぐりが復活したという記事がある。七福神めぐりは、幕末の頃流行したが、明治になって徐々にすたれた。それが三十年以上経って再び流行のきざしを見せ、以後年々盛んになった。初詣に託つけて遊ぶという風潮は江戸時代から見られたが、明治二十年代中頃からは信心よりもむしろ遊びのウエートが高くなっていく。
 一月の浅草では、明治十六年に寄席での興行が禁止されたカッポレが盛んとみえて、住吉一座、天光の女、松坊主一座が興行。また、玉乗りも人気があったようで、青木の玉乗り、江川の玉乗りと二つも興行がかかっていた。他にも、八木一座の都踊り等を興行。当時の東京では、浅草だけでなく、神田雉子町日本新聞脇の空き地や、麹町平河天神境内で日本チャリネ一座が曲馬の興行を行った。続いて三月には、回向院境内でも日本チャリネ一座は、曲馬を興行。曲馬はたいそう人気があったと見えて、英国帰りの村松曲馬も神田三崎町の勧工場前で、興行していた。
 二月半ば、雪が続いたものの21日は晴れ、初庚申の柴又帝釈天や亀戸の臥龍梅を見ようとする人で賑わった。次の日曜日は穏やかな日和だったため、各地の梅園などにさらに人が出た。花見の人出が多くなるにつれて、警視庁の取締りも厳しくなり、三月、異様な仮装行列や大騒ぎなどが禁止された。しかし、いざ花見シーズンに入ると、警視庁の訓示もどこえやら、どの行楽地も大変な賑わいで盛り上がっていた。たとえば、東京魚商組合は、大旗を押し立て、股引き半天に打ち扮した若者数十名が楽隊を連ねて上野公園に乗り込んだ。なかには、英国の議員が選挙に用いる魚形の紙帽子を冠る者もいて、禁止令に反発するかのように盛大な花見を繰りひろげた。警察はなぜ黙っていたのか、それは大勢の市民が至る所で実に様々な方法で花見を楽しんでいるため、どの段階から取り締まればよいのか迷っていたというのが実情ではなかろうか。
 上野は、四月に不忍池の弁天様が開帳され、池畔では国際自転車競争会が開催された。五月にも、不忍池畔で一高生徒38名による13マイル(約21㎞)競争が行われた。大衆は競技に参加することはできなかったが、観戦を楽しんだことは間違いない。上野動物園には、一月にジャガーが、五月にカンガルーとフクロギツネ等、六月にアライグマ、十一月にハリモグラディンゴ等が来園。当時の入園料が大人2銭、小人1銭と安いこともあって、この年は85万人もの来園者で賑わった。
 五月、浅草神社の祭に「悪癖」という記事。何かと思えば以下のような話し。祭になると、手拭いを配り、揃いの衣服を新調すると称して氏子に金を出させることが慣習になっている、警察署の署長はこれを見合わせるように説諭した。氏子たちにとって迷惑なこの習慣、いったい、いつごろから始まったのだろうか。おそらく、明治初期にはなかったものと思われるが、この年は自粛したとしても、翌年からはまた元通りになったのではなかろうか。
・国産映画の登場
 六月、歌舞伎座で初の国産映画が興行された。人気芸者の舞踊や銀座、日本橋、浅草などの街の風景などで、好評を博した。また、神田錦輝館では「西南戦争活動大写真」が上映。当時の活動写真は、まだストーリーのあるドラマではなく、断片的な映像を見せるもので、見世物の一種として受け入れられていた。人々の活動写真への関心は高かったが、フイルムや映写機が少なかったから芝居や寄席観客の一割にも満たなかった。この年の劇場観客数は431万人、寄席観客数は491万人、合わせて922万人とそれまでの最高値を記録している。活動写真の観客数は、見世物163万人の中に含まれ、まだ50万人は超えないだろう。
 七月、大磯の海水浴場が海開き。開場にあたって、水泳競走、曲泳数種、花火、大神楽、芸者の手踊りなどが催され、なかなか盛大であったようだ。当時の東京付近の海水浴場としては、金沢、横須賀、三崎、逗子、鎌倉由比ヶ浜及び七里ヶ浜、片瀬、江ノ島鵠沼茅ヶ崎、大磯、国府津、小田原、熱海、戸田、稲毛、館山、保田、白浜、犬吠埼、大洗などがあげられている。各地にあったので、庶民も出かけたかと思うが、大磯までの汽車賃が往復1円20銭、宿泊料(休息?)は昼食付きで一人安くても35銭~50銭というから、家族揃って海水浴ができるのは、ほんの一握りの人にすぎなかった。
・新橋にビアホール初お目見え
 この夏の話題は、ビヤホールの開店。日本麦酒㈱が新橋の煉瓦立ての二階を借りて、ビールの一杯売りをはじめた。一杯500㏄が10銭、250㏄が5銭という値段の手頃さもあって、100㎡余の店には一日平均800人もの客がつめかけ、満員の日が続いた。つまみは、本場ドイツのビヤホールにまねて大根の薄切りを出したがこれは人気がなく、フキや海老の佃煮に変えたとか。一日の売り上げは、120~30円にもなったので、市内に似たような店が次々に開店。神田小川町、本郷元富士町と春木町、京橋北詰のほか、浅草や上野にも計画中だていう。また、話題と言えば、十月に浅草公園の水族館が開館、木戸銭は大人5銭、子供3銭であった。
 八月、後に日比谷公園となる日比谷原界隈には、飴菓子などを売る露店が12軒も軒をならべていたが次々に立ち退きを命じられた。夕涼みやくつろぎにくる庶民相手の小店は、公園となる場所には「いかにも不体裁」との理由からであった。その東側にある帝国ホテルでは、条約改正祝賀会が開かれた。総理大臣をはじめ各界重鎮、各国使臣など五百余名が参加、舞踏が行われ、散会になったのは夜中の二時頃。また、帝国ホテルでのパーティーは、十一月の天長節にも開かれ、各国公使らを招いて大夜会が催されている。
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明治三十二年(1899年)の主なレジャー関連の事象
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1月 日本チャリネ一座が神田雉子町の空き地、麹町平河天神境内で曲馬を興行する
1月M初卯と臥龍梅、混雑したが売れたのはくず餅、天神橋・両国間の早船、3銭で18艘が往復/都
1月G安政地震より途絶えていた、隅田川七福神めぐりが復活/時事
2月Y初庚申や江東梅園、柴又帝釈などに人出/読売新聞
2月 大相撲、不景気で食料と給金など半額に
3月 日本チャリネ一座が回向院境内で曲馬を興行する
3月M寿座の活動写真、新声館で大喝采を博したものを打ち揚げ次第
4月Y警視庁は異様な花見の扮装を取り締まると
4月Y不忍池畔で国際自転車競争会、弁天開帳と重なり大勢の見物客
4月M不忍弁天の開帳、4艘の船に乗る人多い
4月Y向島や上野の花見、警視庁の訓示もどこえやらの賑わい
4月M歌舞伎座勧進帳」大入り日延べ
5月 不忍池畔で、一高生徒が13マイル競争を行う
5月M亀戸の藤細工人形、団十郎の弁慶や福助義経など
5月M宮戸座「五寸釘」大当たり⑮
5月M三社祭、夜に入って一層の賑わい⑮
5月M烏森神社大祭、下谷神社祭典
6月 歌舞伎座、初の日本映画を興行、上等50銭、土間20~30銭
6月M新声館の源氏節手踊、大道具の使用禁止、ほとんど演劇だと
6月 神田錦輝館で「西南戦争活動大写真」を上映する
7月M回向院の嵯峨清涼寺の開帳、雨天と酷暑でさんざん
7月 大磯の海水浴場、水泳競走、曲泳数種、花火、大神楽、芸者の手踊りなどで開場する
7月M浅草の四万六千日、玉蜀黍7軒、酸漿53軒、麻殻灯心28軒
7月M上野のパノラマ、黄海大激戦
7月M藪入り、浅草公園午前11時には賑わい始め午後は非常な賑わい、楊弓場や飲食店等も客止めの景気
7月Y浅草公園に一丈を超えるワニが見世物に
7月G日比谷の露店、立ち退かされる
8月Y隅田川上流で、水府流太田派と横浜ローウィングクラブと競泳会
8月M深川八幡の大祭、山車38台など出る
8月H新橋に恵比寿ビールのビヤホールが開店し、大繁盛する/郵便報知
8月Y両国川開き、人出の割に割烹など不入り
8月Y帝国ホテルで改正条約実施祝賀会が開かれる
9月M芝大神宮の大祭、説教源氏節、西洋手品曲芸、剣舞等あり
9月M向島牛島神社の大祭、山車17台に番外8台、仁和賀や手踊りなどが出る
10月F浅草公園の水族館が開館、大人五銭、小人三銭/国民
10月E市川左団次明治座で「悪源太」上演する/日本演劇史年表
10月M池上本門寺の会式、降雨で前年の半分の景気
10月M団子坂の菊人形、回り舞台迫り出し強盗返し舞台一面釣り上げ山別れ等の大仕掛け
11月J帝国ホテルで天長節に各国公使を招き大夜会を催す/日本
11月U上野動物園にカンガルー、ハリモグラディンゴが来園/上野動物園百年史
11月Y三の酉、参詣人繰り出し、各地とも大賑わい
12月Y歳の市、神田明神薬研堀・両国など人出盛ん
12月 浅草歳の市地代、一等3円・二等80銭・三等50銭・四等30銭・五等20銭