大衆レジャーが本格的になる四十五年

江戸・東京庶民の楽しみ 143
大衆レジャーが本格的になる四十五年
一月孫文臨時大総督就任/七月明治天皇崩御大正元年改元
・市電のストライキでも賑わう初詣
 元旦は、大晦日から続いている市電のストライキに、年始や初詣の足を奪われた。それでも混雑する山の手線などを使って出かける人が多く、浅草観音をはじめ市内の神社仏閣は賑わった。一月中は、亀戸天神の初卯、芝の琴平神社や川崎大師など人々の行楽活動は活発であった。また、演劇や活動写真なども盛況で、有楽座の清国人の曲芸や本郷座の桃中軒雲右衛門の浪花節は、特等が1円や1円20銭という高額で興行されていた。
東京湾の行楽が盛んに
 二月、大森海岸は春日和に恵まれて、海苔拾いに訪れる人が多く、まるで潮干狩りのような混雑が見られた。初午や観梅など、三月も引き続き大衆のレジャーは盛んで、陸軍記念日の余興に九段偕行社で行われた相撲には約3万人の見物があった。彼岸時には、一足早いヒガンザクラの上野や浅草観音などの盛り場に行く人々で、大賑わいだった。四月は、上野や飛鳥山などが花見で、何時もにましてに賑わい、水ゆるむ東京湾に大勢の潮干狩り客、ツツジ、ボタン、フジと花の便りに誘われて、人々はあちこちと出歩いた。
 東京湾の潮干狩りは、非常に賑わい、市民レジャーに定着した。船を使うと少々高いが、大伝馬船を借り切れば4円50銭、荷足り船だと2円70銭、乗合船で20銭となる。大衆向きには、品川や芝浦沖へ、浜から歩いて行くこともできた。ただ、着物を預けるのに5銭、通行税が1銭かかり、さらに帰りに足を洗うと2銭取られる。貝のあまり採れなかった人のために、一袋5銭で土産用の貝も売られていた。かなりの人出だったようで、波にさらわれ行方不明になった少年の記事もでている。
 夏祭は、太神宮の大祭、浅草や京橋の祭礼などが盛んに催された。六月、文芸活動写真協会が催した活動写真は、大入満員。有楽座でも翌月から西洋活動写真会を開いた。前年からのジゴマは、まだ人気が衰えず引き続き上映。活動写真は爆発的な勢いで観客を集めている。市内の隅田川沿岸は、水泳場の出願者少なしと、水質が悪化して泳ぐ人が減少したため。それに対し七月に入ると、新子安の海水浴場が大々的な海開き。人寄せに、水神祭や模範水泳、明治座盆興行出勤の俳優による仮装行列まで催している。
天皇の容体悪化でレジャーは自粛
 東京市民のレジャーは、銀座尾張町をはじめ14以上の町々に草市が立ち、藪入りの閻魔参り、大師の縁日など例年通り続いた。また、浪花節流行を反映してか、歌舞伎座では、桃中軒雲右衛門が初の浪花節公演を開いた。そして、二十日の朝刊には「本日の川開き」とあったが、午後2時、警視庁から中止の通知。天皇の容体悪化が伝えられると、寄席や小劇場などは営業を続けたが、帝国劇場などの大劇場は休業体制に入った。それまでのレジャームードが一変、すべてに自粛という重苦しい空気に包まれた。

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明治四十五年(1912年)の主なレジャー状況 
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1月Y大晦日から市電スト、電車無き東京②/読売
1月Y水天宮、人出で混雑、電車や汽船も満員⑥
1月Y亀戸天神の初卯、午前四時開門、参詣人押しかける
1月M大相撲春場所十日間雨なしの大入り/都
1月M桃中軒雲右衛門、本郷座で口演、特等1円20銭・四等25銭
2月M節分会、例年よりどこも人出少ない⑤
2月M穴守初午、寒風強く早々に帰る⑬
2月M西新井大師、参詣人多く雑踏
2月Y大森海岸に海苔拾い賑わう
3月Y九段偕行社での陸軍記念日の余興相撲、約3万人の見物⑪
3月M浅草第二国技館の活人形(大人10銭)⑫
3月M武俠世界及日本運動倶楽部、羽田運動場で20余校の連合運動会
3月Y彼岸の浅草、大賑わい
4月M池上本門寺の開堂式、花と海を見る人、2万余の人波③
4月M上野や飛鳥山など「花よりも人」と花見で大賑わい⑧
4月M築地本願寺、大遠忌の初日、参詣人1万人⑩
4月Y東京湾の潮干狩り賑わう
4月M川崎飛行大会、風強く観客少なし
5月M靖国神社例大祭、見世物いずれも大入、露店も買われる⑧
5月M浅草国技館奈良丸満員好況⑩
5月M金竜館「ジゴマ」日延べ⑬
5月M大相撲夏場所千秋楽で大入り満員
5月 文芸協会、有楽座で松井須磨子主演の「マグダ」を公演
6月M浅草榊原神社、鳥越神社等各所で夏祭④
6月M新富座楽天会の「瓢箪池」連日大入り⑰
6月M隅田川沿岸の水泳場、出願者少なし
6月Y浅草国技館で南極実況活動写真、連日満員好
6月M神田明神、日比谷神社、高輪稲荷の大祭執行
6月M四谷須賀神社大祭
7月M大川端の水泳開き⑧
7月M草市、銀座尾張町・竹川町・日本橋人形町・京橋南伝馬町・両国広小路・下谷上野広小路・浅草雷門前・本郷四丁目・神田今川橋・神田万世橋・芝本芝・芝大門・麻布飯倉・赤坂表町・四谷横町等
7月M新子安の海水浴場開く⑮
7月Y歌舞伎座で桃中軒雲右衛門の浪花節初公演⑰
7月M新大橋開橋式、江戸風の余興、夜に入っても花火で賑わう⑳
7月I川開き、当日(20日)中止の通知⑳

四十四年頃から徐々に変わる遊び

江戸・東京庶民の楽しみ 142
四十四年頃から徐々に変わる遊び
一月大逆事件被告24人に死刑判決/九月平塚らいてう青鞜社結成
・飛行船見物に四万人殺到
 国技館が完成し、相撲人気も盛り上がってはいるものの、あいかわらず相撲協会内ではごたごたが続いている。要は、力士の待遇が良くないということ。読売新聞の社説では「劇場と俳優」に似た報酬を与えぬ限り解決しないと論じている。一月には力士が脱走し、協会がこれに譲歩して、国技館で手打ちとなったが、二月、太刀山がペテンの立ち会い、さらに、八百長相撲もあったらしく、問題が絶えない。とはいえ、大衆は、力士に同情するむきも多く、話しの種として楽しんでいた。実際には、相撲を観戦できない人の方が多かったと思われるが、新聞があたかも見たような感じを与え相撲を身近なものにした。相撲は、新聞によって読むスポーツとして定着し、野球より幅広い層の人々から楽しまれていた。
 二月、青山練兵場で飛行船が揚げられ、2万人もの市民が一目見ようと集まった。四月には、目黒競馬場でマースが飛行会を催した。当日は朝から風速18mという強風であったが、二回の飛行、高度18mを1200m、2分程度飛ぶというものであった。見物料は一等2円、二等1円、3等50銭で、売れたのは三等がほとんどであった。場内では、ペスト菌が潜みそうな座布団が5銭、ゆで卵が一個5銭、ミカン三つで10銭、サンドウィッチが30銭、ハムサラダが1円と、競馬と同じように目黒村の女たちによって売られていた。観客は、飛行の始まる午後三時には満員になったが、飛行機を見るのに一等や三等の差はなく、競馬場の外側は無料であるから村民たちが黒山となって天を仰いでいた。この日の見物人は4万人とある。
・すべて椅子席の帝国劇場オープン
 三月、帝国劇場が開場。帝国劇場は、建物が鉄骨造りの洋風劇場であるばかりでなく、茶屋が廃止され、切符制度、すべて椅子席(定員1700人)、食堂が設置されるなどこれまでのスタイルとはまったく異なった。初日は、開場前から観客が押し寄せ、開場とともに満員。それでも入場できなかった人が長蛇の列をなす盛況であった。演し物は「頼朝」などであったが、芝居はつまらぬと不評。おまけに幕間が長すぎ、舞台運びの手際は悪く、新聞には「初興行の大混乱 大味噌を付ける」とさんざんに書かれている。特に食堂は、幕間の都度、芋を洗うような混乱。その様は、餓虎が食を争う浅ましい状況であった。
 五月の帝国劇場で、文芸協会が第一回公演として『ハムレット』(シェイクスピア作・坪内逍遥訳)を上演する。また、初めての女優劇が興行された。十一月には、『人形の家』(イプセン作・島村抱月訳)などが文芸協会の第二回公演として、『寂しき人々』(ハウプトマン作・森鴎外訳)が自由劇場第五回公演として上演された。また、七月には三浦環が独唱会を開催し、『リゴレット』(ヴェルディー作)などを歌っている。十月の「胡蝶の舞」をはじめとする歌劇は、女優や子役らが打ち揃っての賑やかに披露、めでたく打ち出したるは十一時半とある。時代の先端をいく人々のための劇場としてスタートした帝国劇場は、様々な話題を提供し、10カ月間で、約31万人の観客を迎えた。当時の観客は、新しい演劇を歓迎し積極的に受け入れているように思えるが、観客数(年間342万人)から見れば、まだ一部の人々しか新しい演劇に接してはいない。観客層の大半は、芝居茶屋から劇場に案内され、芝居を見ながら食べたりおしゃべりをしたり、幕間には贔屓の役者の楽屋へ出入りすることが大きな楽しみ、夢だった。何時間も椅子にキチンと座って、飲み食いもせずただ真剣に芝居だけを楽しむというのは、当時の大衆には無理だった。演劇を見る層は、もともと上中流層であったし、帝国劇場の演劇を本当に理解できたのは、一部のインテリ層にすぎなかった。
 五月、新しい日本橋が完成し開橋式が行われた。前夜から山車や提灯行列など盛大に祝れた、、当日は数万人もの人が押しかけた。セレモニーが終わり初渡りが許されると人々がどっと押し寄せ、橋の上は大混乱、将棋倒しで重軽傷者が多数でた。六月には上野動物園のカバが公開された。その年の入園者数は、園地が約3割拡張したこともあって26万人増の約85万人になった。富士開きのお祭が、深川公園、浅草象潟、本郷千駄木等の浅間神社で催された。南千住の浅間神社では大祭が催され、雷除麦藁細工蛇を売る店が12軒も並び、その他の露店も50余軒もでる盛況だった。
・新旧レジャー、何れも盛況になる
 七月、銀座の草市は、麻穀、杉葉、真菰など火影に映え、灯籠、提灯床しく、人波も賑やかであった。不忍池畔の東京勧業博覧会跡地では、納涼博覧会が開催、寿三番捜や三社祭の出し物が演じられ、花火も打ち揚げられた。都新聞は、子安に無料の海水浴場を開場した。150間ものバラック(葦簾張りの浜茶屋か)と200間の桟橋を整備、自社の新聞に連日宣伝を出し、電車の往復割引まで企画した。ところが、八月に台風で壊され、一時閉鎖した。この年の夏は雨が多く、川開きの花火は順延を重ね、結局お盆過ぎの17日に催された。芝浦の花火も九月に打ち揚げられ、花火とともに南極探検の講演もあって賑わった。
 秋の行楽はなかな盛んで、お彼岸には電車が終日満員であった。また、10月に始まった国技館の菊人形は、非常にできが良く連日2万人もの見物があり、ピーク時には3万5千人の入場があったという。ベッタラ市なども盛況。十一月の初酉では、迷子が21人も出る混雑でスリ1件、21人の賽銭泥棒がつかまり、遺失物2、拾得物4。二の酉は新嘗祭と重なり盛り場が賑わうなど、この年の大衆レジャーはどれも盛んに行われていた。
 八月、新渡戸稲造は「野球は巾着切の遊戯」と言って物議を起こした。当時の野球は、もっぱら学生が中心で、一般の人はあまり行ってなかった。野球人口は、一万人を超えず、一試合の観客数も一万人を超えることはなかった。それまで野球を楽しむといっても、実際にプレーをするどころか観戦することも少ない、新聞のスポーツ蘭を見る程度の少数派であった。しかし、十二月は、読売新聞記者と大久保文士の野球試合が行われ、記者団が勝つという記事がでているように社会人の野球チームが活躍しはじめた。
 十一月、浅草の金竜館で、フランスの活動写真「ジゴマ」を上映し大当たりをとる。定めし儲かっただろうと思いきや、観客が出て帰らないので「かえって損がいきます」との記事がある。この年、活動写真は、興行回数などは前年とあまり変わらなかったが、観客数は三百万人も大幅に減少し、四百万人となった。原因は、新しいフィルムが上演されなかったからだと考えられる。観客の目が肥えてきたことが大きな理由であろう。
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明治四十四年(1911年)の主なレジャー状況        
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1月M初卯詣、亀戸、七福神詣を兼ねかなりの人出/都
1月M賑やかな藪入り、浅草方面大景気
1月Y世田谷のボロ市雪まみれ、汁粉2銭/読売
1月 天一一座、明治座で奇術興行、懸賞奇術あり、二月には宮戸座、演技座などで興行
2月M各地の豆まき、人出多く賑わう、浜町清正公で仮装行列がでて沿道がお祭り騒ぎ
2月Y相撲協会の紛擾で初場所の初日が二月四日となる
2月M青山練兵場で飛行船、2万人集まる
3月Y帝国劇場開場、「頼朝」等を上演し客止め、定員1700人
3月M曽我廼家、新富座の喜劇大入四月まで続く
4月M日本橋の開橋に前夜から山車や提灯行列
4月Yマース、目黒競馬場で飛行会、観衆4万人
4月M回向院の灌仏会、四斗樽で100杯の甘酒
4月Y飛鳥山の花見に臨時列車、平日でも多数が詰めかける
4月 英国アツパロ一座が有楽座で滑稽演劇を興行、特等3円75銭~三等1円
5月 仏国カランジョー一座が有楽座で曲芸、西行、特等3円銭~三等1円
5月M下谷神社大祭、御神楽・山車・囃子台出る
5月M靖国人神社で帝国軍人後援会、軍人遺族記念会に1万人余
5月M羽田の原で逓信省の大運動会、雨の中4千人
5月M浅草三社祭、前月の吉原大火で質素に執行
5月U上野動物園にカバが初めて飼育展示され、人気/上野動物園百年史
5月M目黒競馬、馬券禁止以来の大盛況、観客2000人
6月 浅草公園十二階で、かっぽれ、西洋奇術などの昼夜興行
6月M品川の天王祭、見世物小屋が軒をならべ賑やか
6月M深川公園、浅草象潟町、本郷千駄木町の浅間神社で富士開きのお祭
6月M南千住浅間神社大祭、雷除麦藁細工蛇店12、露店50余でる
6月7月M都新聞、子安に無料海水浴場、初日7000人
7月M浅草四万六千日、正午までに3万枚余の雷除け
7月M本郷座「闇の都」大入り続き
7月Y藪入、江ノ島方面に3万人、市内は暑く夜遅くまで賑わう/読売/都
7月 明治座で、千里眼、空中皿飛びなどの奇術興行、大人30銭  
7月 不忍池畔の納涼博覧会開会式盛況
8月 女優劇は満員の盛況、帝劇開場第六回の興行
8月 神田青年館会館の野球問題大演説会盛況
8月Y川開き順延続き17日に、大伝馬船8円、乗合船20~50銭
9月M芝浦の花火300本打ち揚げ、南極探検の講演あり賑わう
9月M小石川、赤坂の氷川神社大祭
10月M新富座で桃中軒雲右衛門、連日満員、一等1円20銭~五等25銭
10月M池上の御会式、好天に恵まれ盛況
10月M東京座で柔道と拳闘の力競べ満員の盛況
10月Yベッタリ市が大賑わい、前年より安く飛ぶように売れた
11月Y歌舞伎座、純日本風に改築開場、連日満員
11月M国技館の名古屋菊、非常の上出来で連日2万人の見物、最大3.5万人、団子坂の菊人形も盛況
11月T浅草金竜館の映画「ジコマ」大当たり/東京日日
11月M回向院で生花大競技と菊花大共進会、1万5千人もの盛況
11月Y目黒競馬場で第一回連合競走開催
11月Y大塚廃兵院の紅葉、午前中に2000人を超す見物
11月Y新嘗祭と二の酉で、盛り場が賑わう
12月Y読売新聞記者と大久保文士の野球試合は、記者団の勝ち
12月M浅草国技館完成、8千人収容
12月 浪花節大会が新富座で開演(大人15銭)
12月M水天宮の納め縁日、10万人でお賽銭1万円

盛んに遊ぶ四十三年

江戸・東京庶民の楽しみ 141
盛んに遊ぶ四十三年
五月大逆事件検挙開始/八月日韓併合/十一月白瀬中尉南極探検に出発
・金のかからぬレジャーが盛ん
 市内の人口は、全人口の一割以上にあたる18万人が増加し180万人になった。しかし、劇場や寄席などの観客数は増加せず、むしろやや減少した。増えた人は、前年東京を脱出した人々と同じように、地方からの出稼ぎにやってきた人たちである。景気はやや持ち直したが、大衆の懐具合はほとんど改善された様子はないようだ。それでも、お金のあまりかからない行楽には、非常に多くの人々が出かけている。
  二月の節分会は、十余箇所で催された。浅草田圃の鷲神社では、午後五時、拝殿の太鼓とともに始まり、神前にて祝詞を奏し、神楽師が赤青鬼となり、上下の年男が現れ豆を撒くと鬼は退散し、午後六時をもって式は終了した。浅草観音堂では、式が終わった後も、商人たちが「観音の豆」と称して豆を売り出すなどして、公園内はごった返した。市内のほかにも、成田山、川崎大師などでも盛大な節分会が催された。
 花見は、お金のかからないレジャーの代表である。花見に関する新聞記事は、一月の末から亀戸天神、江東梅園、吉兵衛梅園、次郎梅園などのウメの便りを皮切りに、三月には墨田堤が7百余本の八重桜に2千基のガス灯が設置されるなど、続いた。四月になると、「気の早いサクラを求めて」と「さくらだより」が紹介され、「向島では六分~八分咲き」と大衆の行楽気分を盛り上げている。十日の向島隅田川方面は、赤白の幔幕を張った花見船が四五十艘、言問団子屋下に繫がれた船では「手拍子揃えて花やかに・・」と、団子の売れ行きは一日5万個を超えるとか、賑わいを伝えはじめた。
 また十日は、上野行きの市電が数十輌増発されどれも満員、「花を妬み春雨にも 花見の人の大群集」とある。精養軒では、芸者の余興つきという観桜会が会費二円で催されていた。大衆には、縁台の使用が茶菓子付きで一人10銭、三人以上は5銭、子供が半額、ラムネ小玉壜3銭、氷水コップ3銭、ビール大壜30銭、酒小壜12銭、鮨15銭、弁当20銭などの茶屋が待ち受けていた。しかし、万事倹約のとの時世に、割高な弁当などはあまり受け入れられなかったと見えて、実際には芝生の上でお弁当を食べる人が多かった。したがって「茶屋は不景気」との見出しのように、人出の割には、茶屋の売り上げはのびなかった。
 十七日の飛鳥山は、神田の「のん気連」を始め、浅草西鳥越の中村登鯉治社中が娘美園一座の女優以下弟子を数十名引き連れて踊り歩いていた。また、仮装の武者行列には、干瓢で蓑を作って児島高徳に扮した人、干鱈で甲冑を作った男は、鯣を三枚で兜と鍬形、小魚鎧の袖は餅網、槍の穂先にはサンマの干物というような奇想天外な出で立ちだった。花を見る人、またその見物人を見る人でごった返し、喧嘩は一件もなかったが迷子は63人もでた。不景気とはいうものの、江戸時代からの花見の名所が大衆の行楽地として賑わっていたのは確かで、この時期に東京市民の半数以上が出かけている。
ツツジやボタンの花見も行楽として定着
 人出は花見だけではなく、潮干狩りも佃島や月島付近から300艘余も出て賑わった。サクラが散っても、ツツジの日比谷黄花園や大久保、ボタンの本所四つ目や蒲田の菖蒲園、フジの芝公園の苔香園や亀戸など、行楽地の賑わいが報じられた。なかでも、最も混雑したのは、四つ目の牡丹園らしく、4千人も訪れた日もあり、この牡丹園のシーズン中の入園者数は4万人以上(最大集中率を10%以下と想定)あったと推測できる。また、九月の水天宮も、信者にとって一代に二度と逢い難き戌年戌の日ということで、開門の十二時には黒山をなす人だかりであった。あまりにも多くの人々が押し寄せたため、大混乱となり重傷者9名もでるほどであった。
・浅草にルナパーク開園
 九月、浅草公園にルナパークが開園した。二十年近く続いた日本パノラマ館は、活動写真が始まると、見渡すだけで動きのないパノラマの人気は落ちた。市内には常設の活動写真館が続々と開業、スペクタクルの映画の魅力には勝てず、前年に取り壊された。その跡地に、帝国館(オペラ館)と遊園地風な娯楽場ルナパークができた。ルナパークは、米国コニーアイランドにある遊園地ルナパークを参考にして造られた遊園地で、自動機械館(当時珍しかった電機諸機械等)、海底旅行館、天文館木馬館(メリーゴーランド)、汽車活動館などのほか、中央庭園の築山から滝を落とした約16.5mの大瀑布や温室、それに海外諸外国の物産販売店や東京及び地方名産販売店が一体となっていた。
 ルナパークのなかで目を引くのは、汽車活動館と木馬館であろう。汽車活動館は、客車の形をした部屋、その前方にスクリーンがあって、機関車の前にカメラを据えつけて撮影した風景写真を見るのだが、映写が始まるとガタガタと客車が揺れ、臨場感があった。景色は、御殿場線で撮られたらしく、畑のなかに二本のレールが続くだけの単調な風景が大半で、たまに鉄橋やトンネルがあった程度らしかった。それでも、当時の人々にとっては非常にめずらしいものだったのだろう、休日には座席が満員だった。木馬館は、翌年、洋行帰りの寺田寅彦夏目漱石らとルナパークを訪れ、子供たちで満員の回転木馬に割り込んだという話もあり、アメリカ式の遊園地をイメージさせるものだった。ルナパークは、アメリカ直輸入とのふれ込みだが、人々の気を引きそうなものを寄せ集める浅草ならではの雰囲気を呈していた。目新しさで多くの人々が遊んだと思われるが、翌年五月の火災に遭って一時の夢のように消えてしまった。
 十一月、専売局第二製造所の職工、1750余名が穴守の大運動場で慰安会を催した。このような官系の慰安会は、一月にも陸軍被服廠で、職工家族など1万数千人が集め盛大に行われてた。

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明治四十三年(1910年)の主なレジャー状況 
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1月M初水天宮、雨中でも午前中に御守札、7万枚出す/都
1月M観兵式、青山付近の小料理屋など賑わう
1月M陸軍被服廠職工慰安会、家族など1万数千人の賑わい
1月M都新聞、国技館で1万三千人の大娯楽会、使用料1500円
1月M深川不動、雑踏にて粟餅屋・金鍔屋など大繁盛
1月M天一一座、新富座で大成功、大入り
1月 京山小円新富座で佐倉義民伝等口演、一等1円~五等20銭 
2月Oやまと新聞、国技館で学生相撲を催す/やまと
2月M節分会、浅草や深川など十余ヶ所、人出で賑わう
2月M真砂座「女四人」連日満員⑮
2月M宮戸座「寛政曾我」大入り⑳
3月Y国技館の花相撲、吉原連の総見で大景気⑭/読売
3月M彼岸、上野、浅草、西本願寺等に人出
4月Y米国から婦人多数の第二観光団750名到着し、市は歓迎会
4月Y桜田烈士50年祭、靖国神社で甲冑行列
4月M灌仏会、回向院で甘酒60樽24石飲み干す
4月Y品川沖の潮干狩り、佃島や月島付近から300艘余の賑わい
4月Y飛鳥山の花見、仮装や踊りの一団等が出て盛況、喧嘩なく迷子63人
4月 東京フィルハーモニー会が第一回演奏会
5月Y本所四つ目の牡丹園、日曜日に四千人の入場者
5月Y堀切の菖蒲園、四ツ木の吉野園などそろそろ見頃
5月M神田神社の大祭、神輿の下敷きで気絶1人
6月M日比谷公園赤十字総会、2万5千人集まる
6月Y玉川の螢狩り3万匹放つ、運賃は3割引き
6月 浅草公園の鈴本亭新築し、昼は柳連、夜は三遊連の昼夜二回興行を始める
6月 米国のニコラ一座が有楽座で、鉄錠抜けやカバン抜けなどの奇術を興行する
7月Y入谷の朝顔、各園入場料5銭、各所の草市賑わい1組8~12銭、夜に入り4~5銭に
7月 牛込高等演芸館で、清国人の奇術曲芸とセルビア人ルボーフ嬢の舞踏を興行
7月M藪入、活動写真は大人気、安物飲食店は下駄の山
7月 米国女優ケンボール一座が明治座で最新式電気応用雲間の大演技を昼夜二回興行
7月 有楽座で電気水道蒸気応用大仕掛けの十二景世界楽園を興行、特等一円~二等35銭
7月 風俗取締令公布
8月M両国の川開き盛観、乗合船大人10銭、小人5銭
8月 寄席の切符制度、浪花節派より起き実施
8月M日韓併合祝賀提灯行列、日比谷公園周辺賑わう
8月M大雨で隅田川等決壊、新富座等水害義援公演
8月 貸し自動車の広告、一日30円運転手付
9月 シカゴ野球チーム来日し、早稲田・慶応と対戦する
9月Y玉川の花火大会、正午から観客詰めかけ大盛況
9月Y浅草公園にルナパーク開業する
9月F御船千鶴子千里眼(透視)/国民
10月Y雨の池上本門寺の会式、希有の不景気
10月M団子坂周辺の飲食店を菊人形開園を待って、暴利と淫売婦の取締り
10月M堀之内の妙法寺祖師のお会式賑わう
11月Y両国国技館で大菊花、電気応用の菊人形が興行される
11月M珍しき好天で初酉、賑わい景気立つ
11月M靖国神社祭典、押し返されぬばかりの人出
11月 水天宮縁日で戌年戌月戌日の御利益に群集し、重傷者9名
11月M専売局の職工、1750余名、穴守の大運動場にて慰安会を催す
11月 白瀬中尉壮行会が日比谷公園で挙行
12月M納の金刀比羅、午後より人出、夜に入って一層の賑わい/都
12月Y納の深川不動、富岡門前町付近は縁日で雑踏
12月M柴又の帝釈天、臨時列車が出て賑わう
12月 有楽座でゴーリキーの「どん底」初演
12月M浅草観音等の歳の市、夜も人が出て賑わうが不景気

大恐慌四十二年の娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 140
大恐慌四十二年の娯楽
四月種痘法公布/十月伊藤博文ハルビンで暗殺
大恐慌下の市民レジャーはさほど変わらず
 東京は大恐慌である。市内の人口は寄留人口を整理して53万人と、約25%も減少し163万人になった。これは、帳簿上の整理で人口が減少しただけではなく、実際にもかなり減っている可能性がある。演劇や寄席の観客数はそれぞれ408万人から347万人へ、456万人から396万人へと、5%、13%減少した。また、見世物は逆に521万人から732万人へと40%も増加している。演劇、寄席、見世物の三者の総観客数は、90万人増加している。それまで演劇を見ていた人が料金の安い活動写真を複数回見る、また、寄席の客もほぼ同額の活動写真へと、大まかに見れば、演劇や寄席の観客が活動写真に移行したと考えられる。
 東京から出ていった人々は、地方の農村から入ってきた下層の労働者であった。彼らの主な居住地であった京橋区浅草区などでは、人口が実に40%以上も減少している。彼らは、人口の密集した土地に住み、中小・零細企業で、休む時間を惜しんで連日長時間働いていた。冬場に出稼ぎに来る農民と同じように、稼げるだけ稼いら故郷に帰りたいと考えていて、都心に住んではいても永住する気持ちはなかった。演劇や寄席に出かける時間もなかった、それよりも遊びに金を使うことなど考えもしなかっただろう。失業して食べられなくなったら、故郷の農村に戻る。そして、再び上京しようとする人々がいた。つまり、東京市民の何割かは、芝居や寄席などの娯楽にまったく関心を示さず、ただ黙々と働く日々を送ってた。
・祭の主役は、山車から神輿に交代
 この年、注目すべき娯楽関連のできごとに、祭の変化がある。江戸の祭といえば天下祭に代表されるように、美しく飾られた山車などの行列をゆっくりと味わいながら見るものであった。伝統と歴史に育まれた江戸時代からの祭を見てきた人は、八月に催された深川八幡の大祭にさぞや驚いたであろう。それは、「ワッショイ、ワッショイ」のかけ声とともに、大神輿42、小神輿12、計54の神輿が町々を練り歩くというものであった。祭の主役は、完全に山車から神輿に変わり、それと同時に祭自体もスピーディで、エネルギッシュなものになった。以後、東京の祭は、このスタイルが中心となる。
両国国技館のオープンで高まる相撲人気
 もう一つは、六月に警視庁の厳達によって開館前夜に大混乱をきたした両国の国技館である。それまで、雨が降ると相撲をとることができず、興行期間が伸びるという江戸時代そのままの状況が続いていた。取組も今のような個人間の争いではなく、東西に分かれた団体戦で、十日間の通算の勝ち星の数で争われ、勝った方に優勝旗が授与された。また、それまでは最終日には、幕内の主要力士は勝負がないことが多かったのが、この年から全幕内力士が十日間続けて出場することになった。立会いまでの間に、何度でも「待った」ができるために、延々と続くこともあり、そのため打ち出し時間は決まっていなかった。どうやら当時の相撲愛好者たちは、日延べになっても見に行くというかなり気の長い人種だったようだ。また、茶屋を通して桟敷で見るという点では芝居と同じように、金のかかるシステムであったから、貧乏暇なしの下層者は容易に観戦できなかった。
 国技館ができたことによって、収容人員が1万6千人と大幅に増加、国内はもちろん東洋一の収容力を誇った。これまでの相撲観客数は、会場が狭かったこともあって一日の最大でも1万人を超えることがなかったが、これで大衆にも相撲を見る機会が増えるものと期待された。この場所、最大入場人員は九日目の1万2571人、十日間で9万人余であった。七月、浅草公園仲見世福寿館跡で素人相撲が催され、毎夜非常に賑わったように、大衆の間で相撲人気は一層高まった。
国技館の菊人形に市民が殺到
 国技館は、今でいう東京ドーム球場のようなものであった。相撲興行が終わった後は、劇場では収容しきれないくらいの人数の人々を収容できるイベントが可能であった。八月には、英国人ヒッポドロムが国技館で曲馬を興行している。十月の国技館は、名古屋黄花園(コウカエン)が40日間にわたって、電気応用仕掛けの菊人形(経費4万円)を興行した。開園は朝8時から夜の11時までと長く、入場料は大人20銭、小人10銭と安くはなかった。当時菊人形は、名古屋からわざわざ興行に乗り込んでくるくらい人気のある見世物であった。それも、一業者だけでなく、浅草の東京菊花園でも、名古屋花屋敷の園主が国技館と同様の菊人形の興行を手がけていた。もちろん、東京では団子坂をはじめ各地の植木屋が江戸時代から培ってきた様々の技術を駆使して、菊人形ブームを巻き起こしていた。
 団子坂では、最も人気の植木屋、種半(タネハン)が、舞台がせり出し、七段八段もと場面を替え、義太夫の出語りまでつくという大仕掛けの菊人形をだした。それに対し名古屋から来た黄花園は、国技館に「天の岩戸」「三国志」「雪月花五段返し」「雪の吉野山」の菊造り、舞台がせり上がると毛剃九右衛門の船になり、これを廻してその背面には、船の中央が割れて「近江八景」があらわれ、大津絵巻の人形たちがせり上がる。さらに、フジの造り物が見物人の頭上近くまで落下する趣向、館内は数千もの電灯が菊人形を照らし出すというスケールの大きなものであった。当時の菊人形ブームは、花の善し悪しなどわからないような子どもにとっても、五段返しや八段返しでドンヂャン、ドンヂャンと鐘の音に連れて舞台が変わる面白さがあり、文字どおり、老若男女、幅広い層に支えられた。この年、東京で菊人形を見た人は20万人を優に超えるだろう。 

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明治四十二年(1909年)の主なレジャー状況
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1月M初水天宮、人出20万人、御札15万枚売切れ/都
1月Y亀戸の初卯、境内に420余軒の繭玉屋や見世物7-8軒出店、江東、木の下梅園、臥龍梅探梅へも人出/読売
1月 米国人エルジット夫妻が明治座で自転車曲乗りを昼夜二回興行、大入に付景品一等自転車
1月 岡本小美根一座が宮戸座で源氏節芝居を興行、余興に梯子乗り、活動写真もあって満員
2月M亀戸、深川、浅草等で様々な追儺式催す
2月M憲法発布二十年祝賀会、日比谷公園に10万人余、山車や仮装行列、住吉踊りや娘手踊り等が出る
2月M開盛座や演技座などで都新聞連載の天狗太郎を興行
3月M都新聞の女義太夫投票で竹本綾乃助が19万票を獲得
3月M三越子供博覧会
3月Y仁左衛門義太夫明治座で大入り祝い演芸会   
3月 曽我の家一座が新富座で喜劇を興行、初日25銭均一
4月M上野・向島からの花見客で浅草公園は身動きもならず
4月Y隅田川汽船が花見の臨時航路を運行
5月M靖国神社大祭に武者行列等で盛観、参拝兵等3.5万人余
5月M日比谷公園ツツジやフジ見物などお祭のような賑わい
5月M根岸競馬入場者3万人
5月Tピンポン大会、帝大などの学生により開催③/東京日日
6月G両国に、相撲常設館「国技館」が開館、16,000人収容③/時事
6月M警察署許可の水泳場15ヶ所、月謝1.5円、束修50銭、日謝10銭
6月M山王祭日枝神社、鉾だし神輿でる
6月 目黒の競馬二日目、晴天で入場者倍増、電話賭博を取締る                   
7月Y暑い藪入り、大森海岸賑わい、浅草公園も賑わう
7月M浅草公園仲見世福寿館跡で、素人相撲を催す、毎夜非常に賑わう
7月Y横浜の開港記念祭、初日の電車4万人以上の乗客で新記録
7月I活動写真の常設館が70以上の流行ぶり/万朝報
7月M英国人ヒッポドロムが国技館で曲馬を興行
7月 歌舞伎座で活動写真大競争会を昼夜開催
8月M川開、屋形船15円、両国橋下は交通禁止、昼間から賑わう、迷子8、喧嘩632、酔漢保護370
8月Y深川八幡の大祭に大神輿42、小神輿12、計54の神輿がでて盛況、大神輿に200人の縮緬揃いにて付添い練り歩く
8月M活動写真、仮設観覧場の制裁で打撃
8月 浅草公園パノラマ跡で、三国合同大曲馬の興行、大人50~10銭小人軍人学生半額
9月M芝春日神社、芝神明大神宮で大祭
9月Y彼岸中日、雨でも人出、六阿弥陀西新井大師など賑わう
10月Y名古屋黄花園が両国国技館(大人20銭小人10銭)、名古屋花屋敷園主が浅草東京菊花園で菊人形興行
10月M対米野球入場料収入、早稲田大学戦1166円(2日)、慶応義塾戦815円(4日)
11月 二六新聞「社告」として国技館の割引券を演をする
11月 左団次が有楽座で「自由劇場」の旗揚げ公演をする
11月 伊藤博文国葬に数十万人が官邸より日比谷会場まで見送る                   
11月M酉の市、四谷では熊手70軒・縁喜店50余軒、都踊・剣舞・活動写真等、その他各地でも賑わう1
12月 山手線開通、十五分間隔で発車⑰/東京日日
12月Y愛宕の市に人出はどっと出たが、手堅い買物ばかり
12月M浅草市、人出は多いが飲食店など閑散、楽隊も空景気
12月 神田錦輝館で京都芸妓の踊りを興行、一等一円~四等25銭

不況でも四十一年の娯楽は盛況

江戸・東京庶民の楽しみ 139
不況でも四十一年の娯楽は盛況
六月赤旗事件/十月戌申詔書/十一月高平ルート協定成立
・不景気でも劇場はどこも大入り
 銀行の支払い停止が前年から続いているような状態で、景気はさらに悪化していた。しかし、大衆のレジャーは前年を上回る勢いで伸びている。正月から市村座をはじめ各劇場は、大入、好人気などと新聞広告を出すほどの盛況。麹町有楽町の旧五二館跡で興行したチャリネ曲馬団も、特等70銭~三等15銭と入場料は決して安くなかったが好評。呼び物は、半哩(マイル)競争や障害物競争などの子供の競馬、動物の曲芸であった。人気が高かったと見えて、二月も上野広小路元勧工場後で興行している。
 初午、紀元節は好天に恵まれ、繁華街や、郊外のウメの名所に人々がくり出している。寄席や活動写真も盛況。それに対し演劇は、入場券制や切符の前売りなど欧米のやり方をまねた明治座の改革に、左団次が失敗し、興行数も減少した。明治座は、一月の途中からついに芝居がかからなくなり、二月には、急遽、英国人パアレー一座の奇術興行で埋めることに。彼らは田舎廻りの一座であったため、入場料も15銭均一と安くし、蒲団や火鉢、下足まで無料というような興行だった。演劇界は、東京座で新派大合同の「東風物語」が興行、話題になるなど、様々な革新の動きはあったものの観客層を広げるまでに至らなかった。
・行楽の自然に恵まれていた東京
 四月八日と九日、東京に何と大雪が降って、電線が切断され電話の三分の二が不通、街路樹などに被害が出た。当然のことながら咲いているサクラも雪を被り、花見どころではなくなった。満開時には盛り上がりを欠いたが、散りぎわに、下谷の料理屋や待合関係者が900名もの大仮装行列を催した。午前八時に上野公園不忍池をスタートした人々は、地走り屋台が賑やかに囃子立てながら鬼の念仏や藤娘などに扮して、続いて芸者連たちの女巡礼や御殿女中の練り歩き、住吉踊念仏踊、一本足鉞を担ぐ金時などが吾妻橋の札幌ビールめざして歩いた。沿道はいたるところで人の山をつくり、電車を止めるようなこともあったが、昼頃には舞台や模擬店の用意された会場に到着し、打ち上げ花火が揚がった。宴会は、いよいよ佳境に入り、仮装の踊りや手品なども披露され午後四時頃散会となった。また、常磐津連も上野公園で、揃いの日傘や手拭いをあつらえ、2000人を超える花見。他にも茶番や行列が出て訪れた花見客を楽しませた。
 当時の東京は、市内でも農業や漁業が営まれていたくらいだから、自然がまだあちこちに残っていた。そのため行楽は、現代のように緑を求めて出かけるというより、もっと積極的なふれあい、たとえば花見、汐干狩、摘み草、螢狩り、秋草、紅葉狩りなどが行われていた。小石川区江戸川のホタルが特に有名だが、七月には皇居丸の内濠端にもホタルが繁殖(日露戦役中祝賀に数万匹放たれた)、この時期は螢狩りで賑わった。都心にもホタルが生息できる自然環境が十分残っていたと言える。七月の朝顔市は、入谷に開花園をはじめ七ヶ所、本所には四目ほか十数ヶ所、その他、芝公園の苔香園や麻布仙台坂仙華園など市内各地で催された。九月、向島百花園で放虫会が催され、園内には数百の雪洞が飾られ、芝錦子の歌沢が演奏された。
・夏も東京の街中で遊べた
 藪入りの浅草は、大衆レジャーのメッカ的とも言える存在であった。大盛館は、昼間に江川の玉乗りを興行、夜は源氏節芝居を上演。清遊館は浪花踊り、第一共盛館は美園一座の子供芝居、第二共盛館は活動写真、三友館は活動写真と電気舞、朝日館と電気館も活動写真、明治館は丸一太神楽、清明館は加藤一座の剣舞、日本館は都踊、小松館は清国人の手品、江川館は上野戦争活人形、と様々なだしものをかけていた。その他にも、浅草公園内には、常盤座、パノラマ館、水族館、木馬館、昆虫館、花屋敷、さらには浅草の象徴、十二階建ての凌雲閣が訪れる人々を待ち受けていた。周辺では中元福引き大売出しが開催。浅草は、娯楽施設として訪れるだけではなく、観音さまへ参詣が目的の信心深い人が大勢いたことも忘れてはならない。
 川開き、船客が多かったとみえて「水上は船の林」という見出しがある。霊雲寺廿一日講という幟を立てた大伝馬船二艘には、八十八ヶ所の大師参りのお婆さん連が御詠歌を唱え、鐘の代わりに茶碗を叩き大浮かれ。この船の隣には、山の手の商店と思える一団がカッポレを雇って、三味線を掻き立て騒いでいた。船の間を、「氷、氷、枝豆や」と叫びながら漕ぎまわる男もいたが、その値段は目の玉が飛び出るくらい高かった。半玉が二三人カッポレを踊る中に後ろ鉢巻きをした二十四五の男が「可愛い男を乗せかけて」と唄いながら変な腰つきをしていたところへ、横手から船が衝突、ひっくり返る。また、鳴り物入りの古風な写絵船が佃節の囃子で、川開きらしさを盛り上げていた。当日の人出は、「無量十万」と書かれ、10万人にも迫るほどの混雑ぶりだった。
・大衆映画にアイドル誕生
 浅草には、江戸時代の見世物から最新の活動写真まで、一通りの娯楽が揃っていて、流行を敏感に察知できるところであった。大衆の関心が活動写真に向かっていることは、我が国最初の活動写真専門館の電気館や三友館などの5~6館が建ち並んでいたことでもわかる。ちなみに市内には、神田の錦輝館、新生館、立花亭、芝の小金井亭、牛込の高等演芸館などが活動写真館として知られており、なかでも錦輝館が設備も良く評判が高かった。つまり、市内の活動写真興行の大半が浅草に集中していた。そのため、浅草の活動写真館どうしの集客競争も激しく、電気館などは夏の暑さを少しでも緩和しようと、きれいな花を中に入れた大氷柱を館内に二ヶ所設置した。
 九月、神田錦輝館で尾上松之助が主演する「本能寺合戦」が公開。尾上松之助は、「目玉の松ちゃん」と呼ばれて、大衆映画のアイドルとして大活躍、四十二年からの約三年間に168本もの映画に出演している。大衆の関心は、演劇から活動写真の方に移りつつあった。この年劇場観客数が364万人と前年に比べて43万人も減少したのに対し、活動写真を含む見世物は、174万人も客数が増加して521万人になっている。
 十月、米艦隊が横須賀を訪れ、東京で盛大な歓迎会がいくつも催された。特に、日比谷公園での大園遊会は、武者行列などが演じられ、そのほか各地で多数の行事が行われた。このお祭騒ぎがあったためか、酉の市は人出も売行きも今一つであった。また、競馬も目黒、板橋、川崎いずれも振わず、観客は100人前後、板橋競馬の二日目は奥様族が20人たらずという淋しいありさまであった。
 
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明治四十一年(1908年)の主なレジャー状況 
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1月 チャリネ曲馬団が麹町有楽町の旧五二館跡で新帰朝の藤川一行も加わえて昼夜二回興行
1月M左団次、入場券制や切符前売りなど明治座改革に興行妨害等で失敗、二月の明治座は15銭でパアレー一座の奇術興行/都
1月M水天宮の賽銭、8500+5500(札)
1月 目黒行人坂に初の撮影所ができる
2月M成田山の豆まき4万人の賑わい
2月M初午と日曜日が重なり各地の稲荷詣で賑わう
2月M女義太夫界分裂、初代綾乃助が調停する。四月に女義大会
2月 日比谷公園の普選国民大会を禁止、警官数百人を配置する             
3月Y彼岸中日、浅草観音の賽銭1日40円、参詣人2万人/読売
3月M東風物語、好評につき真砂座で再公演    
3月M荷足り35~40銭・大伝馬4.4~5円・乗合20~30銭
3月 浪花節の名手、桃中軒雲右衛門が本郷座で口演興行
4月 曽我の家一座が新富座で喜劇を興行、一等80銭~五等20銭

4月Y吾妻橋の札幌ビール庭園へ700余名の花見の仮装行列
4月M荒川堤で全国自転車大競争、一銭蒸気で押しかける
4月M常磐津連も揃いの日傘等で茶番等の花見
5月M靖国神社大祭、小児の曲芸は虐待、大鯱は悪臭で興行禁止、人出多く警備の警官が非難される
5月Y神田明神の大祭、五日間
5月 池上競馬に臨時列車運転
6月G丸の内濠端に蛍が繁殖し、螢狩りで賑わう/時事
6月W京山若丸が本郷座で新派浪花節を興行、空中飛行機との演し物が耳新しく評判に/中外商業新報
7月M藪入、この年写真館の割引特に多し、浅草公園界隈で中元福引き大売出し
7月Y日本体育会の大角力、特別80銭、普通50銭
7月 本郷座で昼夜活動写真「右団次親子の鈴ヶ森」等上映、一等50銭~五等10銭
7月T入谷の朝顔市、吉野園を始め十数箇所で朝顔・盆栽等が売られ、アサガオ大20銭中15銭/東京日日
8月H報知新聞社主催の全国水泳競争大会が隅田川で開催される/郵便報知
8月M川開、無量十万、陸上は人の波、水上は船の林
8月 日比谷公園、夜は男女密会が多く巡査取締る
8月 宮岡天外一座が明治座で催眠大魔術奇芸を興行、初日25銭
9月Y向島百花園で、放虫会を催す、会費50銭
9月M尾上松之助の活動写真「本能寺合戦」が神田錦輝館で公開
10月M池上の御会式、近年稀なる人出と賑わい
10月M湯島天神大祭、神輿・山車・地囃子
10月M米艦隊歓迎、日比谷公園園遊会等、各地で多数の行事
11月M初酉、浅草田圃・四谷須賀神社・深川八幡、賑わうが売行き少なし
11月 井上角五郎が小石川後楽園で、3500余人を招待する大園遊会を開催
11月 団子坂、浅草公園花屋敷等で菊人形を催す 
12月M競馬、目黒、板橋、川崎いずれも振わず
12月Y浅草観音の歳の市、夕方に強風止んで羽子板店が大繁盛

四十年戦後不況でも庶民娯楽は盛況

江戸・東京庶民の楽しみ 138
四十年戦後不況でも庶民娯楽は盛況
二月足尾鉱山で暴動/七月第三次日韓協約調印
・戦争恐慌下の東京勧業博覧会
 一月、東京株式市場の相場が暴落し、日露戦争後の恐慌がはじまった。不況は労働争議を激化させ、この年は、全国で165件と明治年間で最も多く、過激なストライキが発生した。全国的に低所得層の生活が厳しくなり、東京も例外ではなかった。仕事を失い、東京に住めなくなる人が多数でてきた。そのため、それまで増加の一途であった東京市内の人口が減少するという現象が起きた。しかし、なぜか東京の大衆は、景気とは関係なくレジャーを楽しみ、すこぶる活発に動き回っていた。
 正月二日には雪が降って、道路がぬかるみ歩けないため初詣は少なかったが、日比谷公園で消防出初式が盛大に催され、初卯や初金比羅と人出が多くなった。藪入りには浅草や上野をはじめ、繁華街は大賑わいであった。二月、浅草観音堂を初めとする各地の節分絵が賑わった。劇場も、大入や満員、日延べ等の広告を出すなど、盛況の様子が感じられる。三月、上野公園で第六回東京勧業博覧会が開催された。この博覧会は、東京府日露戦争終了を受けて計画したもので、殖産興業を目的としたものだった。しかし、戦後の平和を待ち焦がれていた当時の社会状況から、大衆にはお祭色の強いイベントとして受け入れられた。
 博覧会最大の呼び物は、ウォーターシュートである。精養軒の脇の崖から不忍池に向かって設置されたこのボートは、8人の乗客を乗せ、頂上から滑り落ちるように水面に飛び込むというもの。船内の客は衣服を濡らさずに着水できるはずであったが、時にはかなり水を浴びることもあったらしい。ちなみに乗船料は20銭。博覧会の入場料を大人が10銭、小児5銭(休日大人15銭小児10銭)も取っている割には、高い料金だ。さらに観覧席を設けて、夜間もイルミネーションをつけて営業。ウォーターシュートを見物するだけで5銭も取ったというから、いかに人気があったかがわかる。
 また、もう一つの呼び物は、第一開場の中央、今の国立博物館の正面の広場にある六角形の噴水塔で、裾野から噴水する水が六段の石階にあたり、落下する流れを数十のカラフルなライトで照らすという凝ったものだった。他にも、室内温水プールやシャワーバスを備えたアスレチック施設、電気応用の奇術を演じる不思議館、機械館、教育水族館、外国館などが設置されていた。開催期間は七月の末日までの130日間で、680万人の人々を迎えた。この博覧会は、ウォーターシュートを電気で昇降させ、夜間には3万5千個というイルミネーションを点灯、一晩の電気料が1300円にも昇ったという、電気文明の到来を示す大イベントであった。
 四月の新聞には、上野周辺が賑やかなのに対し銀座付近は寂寥と書かれている。花見時の博覧会には、約13万人も訪れている。これだけの人間が上野を訪れていることから、隣接する上野動物園などにも人々は立ち寄っている。動物園は、キリンが展示されたこともあって、四月だけで28万人もの入園者数を数え、年間で33万人も増え112万人になった。博覧会の人出を当て込んでか、浅草観世音をはじめ、芝山仁王尊・黒本尊、泉岳寺の摩利支天・釈迦八相、最教寺の日の曼陀羅西新井大師、麟祥院の春日の局、護国寺の如意輪観世音、誓願寺善光寺如来、伝通院で大光院の呑龍上人と、開帳も多かった。博覧会のお祭気分に、財布の紐もゆるんだのか、劇場や寄席などにたくさんの人が足を運んでいる。
・市民の遊び心は復活
 大衆の生活は決して楽になっていないと思われるのに、劇場観客数が前年よりも33万人、見世物が63万人、寄席が42万人増加し、合わせると132万人もの観客が増え、1,208万人になった。増えたのは見世物や寄席だけではなく、行楽や飲食などにもおよんだ。日露戦争以前の観客数と比べればまだその数を上回ってはいないが、戦争で抑圧されていた遊び心がまた元に戻りつつあった。このようなレジャー活動の活発化は、博覧会の開催が大きく影響し、春先から行楽への出足を煽り、大衆はそれらに踊らされるように出歩いていた。また、全国的な不況下で労働争議が多発しているが、東京の大衆はレジャーに関心が向いていたのか、大きな騒動には至らなかった。
 さて、観客数の増加をさらに詳しく見ると、一月の芝翫歌舞伎座で「みだれ焼」を上演し、好評で入りが良かったように、劇場観客数は一興行あたりの観客数が増加し407万人。見世物の観客数の増加は、活動写真興行が急激に多くなったことによる。当時、活動写真は、見世物の一種として分類され見世物観客数として集計されていた。そのため346万人を記録している。寄席は、興行数自体が増加しているとともに、六月に桃中軒雲右衛門が本郷座で一ケ月にわたって満員の記録を作ったように、浪花節の人気も観客数の増加に大きく寄与している。寄席観客数は、450万人であった。
 前年都新聞が募集した「演芸三傑」には、160万票以上の投票があり、当時の寄席人気を証明して見せた。最も人気のある芸人は、浪花節が鼈甲齋虎丸(16万9千票)、義太夫が竹本羽太夫(16万8千票)、落語が柳亭燕枝(14万4千票)、講談が昇龍齋貞丈(8万4千票)であった。各部門の投票数は、浪花節が61万票、義太夫が42万票、落語が33万票、講談が27万票(但し、千票以上の投票があった芸人の合計票数)。この比率には、義太夫人気が陰り、浪花節が流行していた当時の寄席状況を反映したものと思われる。なお、明治四十年の寄席観客数は、450万人であった。

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明治四十年(1907年)の主なレジャー状況         
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1月M正月は雪で人出が少なかったが、初卯・初金比羅や藪入りは賑わう/都
1月M日比谷公園で消防出初式、盛大に催される
1月Y藪入り、浅草・上野など大賑わい/読売
1月Y義太夫と五厘の衝突、五厘の手を離れ神田新声館で興行
1月 ジャクラー操一一座が東京座で、動物大魔術、空中美人の夢などの奇術を興行する
2月M浅草観音堂をはじめとする各地の節分会、いずれも賑わう
2月 浅草公園の美観のため繁華地を取り払う
2月M新富座の活動写真、足尾銅山大騒擾の実況、アラビアンナイト、ロビンソン漂流一代記、70-15銭
3月M上野動物園にキリン展示/上野動物園百年史
3月Y上野公園で東京勧業博覧会が開催、平日大人10銭、小児5銭(休日大人15銭小児10銭)
4月U上野動物園、大人5銭小人3銭に値上げ/上野動物園百年史
4月M博覧会を当て込んで、浅草観音、芝山仁王尊、泉岳寺摩利支天、西新井薬師など開帳多し
4月Y東京勧業博覧会でウオーターシュート人気、乗船料20銭、見物料5銭、夜も営業
4月 芝公園で婦人博覧会開かれる
5月G牛込神楽坂上高等演芸館の第二回歌劇大会でファウストを上演/時事
5月M靖国神社例祭、博覧会に人を取られる
5月M博覧会夜間開場5万人を超える
5月Y池上競馬に臨時列車運転
5月M浅草三社祭・上根岸三島神社・南品川寄木神社など各地で祭礼
6月 東京勧業博覧会の演芸館で猿若狂言が演じられ、好評
6月M桃中軒雲右衛門、本郷座で一ヵ月満員の記録をつくり、浪花節の人気が急上昇
6月M錦輝館で神刀流剣武術大会、講談や薩摩琵琶等を興行
6月M博覧会、不忍池で仕掛け花火、人出多く架出しの飲食店が陥落
7月Y博覧会、福引き人気で最高の人出
7月 東京勧業博覧会の演芸館で六斎念仏踊りが演じられる
7月 開盛座で「貞女の鏡」「星旅行」などの活動写真を福引き付で興行する
8月M隅田川灯籠流し、両国橋と両河岸は一杯の人出
8月 神奈川県下の避暑客8248人、鎌倉2228人
9月M寿座が水害義援活動写真、明治座も25銭均一水害救助興行
9月M芝虎ノ門金比羅、おびただしい参詣
9月T女子学生の徒歩旅行が流行/東京日日
10月M本門寺の会式、十年来の人出、迷子37、酔漢178、喧嘩69
10月 錦輝館で「史劇魔国」「天上界の釣道楽」などを興行する
10月M一位局葬儀、沿道に各町の団体等が堵列する
10月M浅草珍世界に人魚の見世物
10月J浅草公園内の怪しげな飲み屋が新聞縦覧所の看板を揚げる/日本
11月G日比谷公園で全国連合自転車大会が催される
11月G本郷座で「ハムレット」が原作に忠実に上演される
11月Aハワイのセントルイスが来日し、慶応や早稲田と野球試合⑧/朝日
11月M初酉、浅草田圃、四谷須賀神社など参詣者多く、相応の収入
12月M浅草の歳の市、出店商人数1250

戦争の後を引く三十九年の庶民娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 137
戦争の後を引く三十九年の庶民娯楽
三月鉄道国有法公布/十一月南満州鉄道株式会社設立
・戦後の落ち着きを示す行楽の人出
 元旦の読売新聞には、お楽しみとして、劇場や寄席のプログラムが掲載されている。16劇場のうち14座が芝居、2座が奇術と浄瑠璃、寄席はあまりにも数が多くてすべてを紹介することができないくらいである。元旦は曇りであったが、初日や初詣に多くの人出があり、日露戦争によって抑えられていた大衆のレジャーが、復活しはじめたことがわかる。一月の回向院の大相撲は、晴天が続いていることもあって盛況で九日目は客どめになるほど。これは十日間連続して興行された。十日も続いたのは明治になって初めてのことらしかった、効率よく興行され、勧進元の利益は最高になるだろうと、書かれている。当時の相撲は屋外で行われてたため、雨が降れば中止になった。そのため、雨で中止になる時は、触れ太鼓を廻して知らせた。
 二月、明治天皇ガーター勲章を奉呈するため来日した、英国コンノート殿下の歓迎会が日比谷公園で催された。午餐のあと、大名行列が余興として行われた。大名行列のためには、城の古い戸棚や遠い田舎の蔵まで探して道具類を集めた。もっも、行列に参加した163人の中で、実祭の行列を見た人は数えるほどしかいなかった。殿下の随行者、ミットフォードは、幕末期に来日したことがあるので本物を何回も見ていた。そこで、付きの日本人が、彼に大名行列のことを訪ねた。彼は、そのことにちょっとびっくりしたが、大名行列を見世物にしていることや、それに日本人が何も疑問を持たないことをいぶかしく思った。
・レジャーの様相を見せる祝勝会
 前年から続いた戦場からの凱旋は、一月に入ってからも連日のように続き、二月の乃木大将らの凱旋でクライマックスを迎えた。凱旋軍は、閑院宮中将を総指揮官に砲18門を曳き日比谷公園へ入場、会場では手品や相撲などの余興、模擬店では芸者連が華やかに対応した。なお、式の終了後、群衆が食堂に乱入し模擬店の食物や装飾品などが奪い取られた。混乱で負傷者も数十人でたという、これは式に参加できない野次馬たちの騒ぎであろう。
  凱旋は三月も続き、凱旋祝捷会は様々な形で催され、凱旋将兵を迎える歓迎の宴は五月に入っても行われた。大衆が各地の凱旋祝捷会に何度となく参加したのは、戦争中に行われた祝捷会には違和感があったのに対し、凱旋祝捷会は心から納得できたからであろう。身内や知人が無事帰還した時の喜びは、戦争が激しかっただけにひとしおで、それを地域で祝う祝捷会は大衆の心を癒すレジャーであった。
・大衆レジャーとエリートレジャー
 二月、坪内逍遥島村抱月らが紅葉館で文芸協会設立の発会式を行う。演劇の改良や刷新をはかる動きは、三十七年頃からあったが、戦争も終了し本格的に始動しはじめた。この時期、一月の「酒道楽」、三月の「沓手鳥孤城落日」、四月の「寿永の秋」など意欲的な作品が上演されている。劇場観客数は、前年後半から回復傾向を示し、戦前を凌ぐ勢いで増加している。もっとも、革新的な内容を理解できた人は少なく、単に目新しさだけでもって劇場に出かけていた。西欧の文化を自分のものにできたのは、文芸協会の関係者を除けばごく一部の人であったにもかかわらず、大衆レベルまで広がったと勘違いしていた。
 同じことは、労働運動についても言える。人々は、戦争で身内を亡くしたり、経済的に苦しい生活を強いられたりしたのに、凱旋祝捷会をありがたがるという非常に矛盾した気持ちを持っていた。大衆は、西欧流の理性ではなくむしろ古い情緒的なものに動かされていた。ところが、社会党などの自由主義者には、西欧の労働運動がやがて日本でも同じように展開すると信じていた人が多かった。三月、日比谷公園で電車賃値上げ反対市民大会の際にも、計画されていた余興が却下されたことに何のためらいもなく大会を開催している。運動を先鋭化することで大衆がついてくるものと思い込んでいたのだろう。時には、九月の電車賃値上げ反対市民大会のように電車を襲撃し、投石や放火で大混乱を生じさせる大衆行動を誘発する。しかし、自由主義者たちは、過激な行動をくり返せば逆に、大衆の支持を失っていくことに気づかなかった。
 人々は、灌仏会に花見をかねて上野や回向院などに出かけ、両国から船で亀戸のフジを見物し、名物のくず餅を頬張ることに喜びを感じていた。五月に不忍池で開催された関八州連合の競馬にしても、堅縞小倉の武士袴に小袖を着け、白鉢巻きに襷十字の浅草芸妓が出場する初日は話題を集めた。が、余興がなくなると翌日からは観客が減少し、最終日は不入りとなったように、本場英国の競馬をめざしても大衆には受け入れられない。そこで、本邦初の賭博競馬が秋の池上競馬場で開催されると、都新聞は「公開賭博」「目覚しき札場の光景」と書き立てた。師走の競馬には、入場券が3円、賭札1枚5円でも人々が殺到し、最終日には8レースの賭札売り上げが35万円を超えた。
・スポーツはエリートレジャー
 この年の夏は暑かったと見えて、大森の八幡浜海水浴場が賑わった。海水浴場は、海中に紅白の旗を立てて、区分されており、海岸に座敷を設け、海水浴や温浴をさせた。海岸亭や掛け茶屋の料金は、一人5銭、弁当を持っていけば10数銭で浴塵を洗うことができた。茶屋では、浮き袋を貸すところもあって、海水浴が大衆のレジャーとして浸透しはじめた。八月の日比谷公園では、音楽会が催され、両国の川開きと重なったが大勢の人が集まった。一部の市民ではあるが、西欧の文化を理解しレジャーに取り入れる知識階級が台頭しはじめた。
 特にスポーツは関心が高く、十月の東京大学運動会では、棒高跳びで当時の世界新記録が出るようなレベルに達していた。野球も、前年渡米した早稲田大学は、対戦成績7勝19負ではあったが互角に戦うことができた。十一月の早稲田と慶応との野球試合は、あまりにも応援が過熱し以後無期延期になってしまうほどの盛り上がりを見せた。また、小学校でも校長が率先して野球を教える例もあって浸透しはじめた。この年、アテネでオリンピックが開催され、前年に招待状が届いていたが、日本は参加しなかった。                                                 ────────────────────────────────────────────────
明治三十九年(1906年)の主なレジャー状況
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1月M芝虎ノ門の初金比羅、前年より多し/都
1月Y亀戸天神の初卯、朝方晴天になり俄に景気づく/読売
1月M藪入り、各地で賑わい相応の潤いあり
1月H回向院の大相撲、晴天が続いて初の十日間連日興行する/郵便報知
2月M第二回凱旋軍歓迎会、盛大に催される
2月M靖国神社境内のトタン屋根の茶屋、寿司屋、汁粉屋、手品等の50余店撤去される
2月M英国コンノート殿下歓迎の大名行列が催された
2月M成田山節分会、5万人の参詣者
2月 芝の紅葉館で坪内逍遥らが文芸協会を設立19/国民
3月A日比谷公園で電車賃値上げ反対市民大会を開催、散会後騒擾⑯/東京朝日
上野公園に帝国図書館新築落成
3月E東京座で坪内逍遥の「沓手鳥孤城落日」が上演される/日本演劇史年表
4月Y神武天皇祭と花見客で上野駅大混雑
4月Y潮干狩りに400艘4000人も繰りだす
4月M上野公園不忍池畔で全国自転車大競争会催す
4月F一高と三高の野球試合に観衆一万五千人
4月M青山御所、大観兵式拝観客幾十万人にのぼるとの記事
5月F不忍池で、関八州連合の競馬会が15年ぶりに開催、浅草芸妓も出場⑱
5月M靖国神社例祭、4万5千人以上の参拝、迷子45人
5月M第三回凱旋軍歓迎会日比谷公園で催される、売店の給仕女946人
5月M各神社で祭礼、神田祭は歓迎会や凱旋等の物入りで別段の催し物なし
5月Y亀戸のフジ、両国から船で花見、一日3000枚の乗船券が売れる、大人5銭子供3銭
6月 松旭斎天一が東京座で奇術興行、一等90銭~四等20銭、英国人ルーらが加わる
6月M赤坂氷川、日枝神社、四谷須賀神社日本橋末広稲荷など祭礼
6月M品川天王祭6日より、新宿花園神社は7日より
7月M草市、一式揃いで15~25銭
7月M藪入り、浅草や各劇場など大入り、貸し自転車繁盛、飲食店も相応に潤う
7月 回向院で日米合同大曲馬一座が興行、特等1円、一等50銭~四等10銭、午後五時開園
7月M近郊の納涼場、十条の滝、十二社の滝、大森海岸、羽田、芝浦等、王子園は茶菓子付きで10銭
8月Y芝浦の花火、昼から大賑わい
8月Y日比谷公園の音楽会、両国の川開きと重なるが盛況
8月M大森八幡浜、海水浴で賑わう、浜茶屋5銭、風呂10銭、浮輪を貸すところもある
8月M入谷の朝顔、1万3千余鉢、9軒、安物5厘、売れ筋4~5銭で賑わう
8月M佃島住吉神社大祭
9月G日比谷公園で電車賃値上げ反対集会から電車襲撃、投石・放火で大混乱⑥/時事
9月Y神田川の乗合船、ハゼ釣り一人30銭餌付
9月Y新橋駅は学生や避暑客の帰郷で満員
9月M都新聞の演芸三傑で浪花節が一位となる
10月Y池上本門寺の会式、凱旋祝い、戦没者追悼も含み盛大
10月M浅草の十夜念仏と念仏踊り例年どおり執行
11月G早稲田慶応の野球試合は応援過熱で以後無期延期となる⑫
11月 東京大学で運動会開催、棒高跳びで当時の世界新記録
11月G文芸協会が歌舞伎座で「ヴェニスの商人」を上演する⑫
12月 神田東京座で天然色活動写真を興行する
12月Y池上競馬の賭札売り上げが35万円を超える