大正十年中期 不景気の中の庶民娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 168

大正十年中期 不景気の中の庶民娯楽
 ちょうど百年前、1921年の読売新聞五月二日の朝刊5面の紙面を見て、現代の新聞の論調と比べてみたい。その頃の新聞は、東京で繰り広げられている活動や事象を、記者が見たままを伝えることができていたみたい。この年辺りまでが、新聞に自由な論調で記事を書くことのできたのでは、4年後には治安維持法が制定されている。
 五月一日のメーデーに関する記事を、読売新聞の見出しから紹介する。『昨日の労働祭』。『場内擾乱』。『葉桜の上野に解放の獅子吼』。『斯しくて進む 革新の世界』。「『大詰上野の大立廻』堺眞柄久津見房子は検束 警官に襟髪とられて大童となる 乱暴狼藉の大日本帝国の巡査」。「『昨日検束された露盲詩人 エ氏憤慨して語る』見物に行った私を検挙するとは日本の巡査は実に乱暴です」。「『警官が民衆を打擲したり日本国は野蛮国てす』婦人があんなに侮辱されてゐる リーダーが貧弱だつたりして・・・とア紙のビリー女史は語る」。
 2021年、現代の新聞もこれと同じように、政府に忖度しない記事を書いているであろうか。テレビでは、恣意的な誘導がなされているような気がしてならない。娯楽に関する記事についてはどうだろうか。

・五月「寒い淋しい変な夏場所」十四日付東朝
 社会主義者への弾圧が続く中、メーデーの取締も厳しさを増していた。上野両大師前で開かれた立憲労働党の労働祭は、「二千許りの真に集合した労働者を包囲して見物半分野次馬はんぶんに集まる者約五千・・・平凡裡に会を閉じ・・・示威運動の行列を造って山を下ると何処から集まとなくぞろぞろと散歩してる人達や通り掛りの人達が集まり合って忽ちの中に無慮三万を超える群衆となり・・・須田町から鍛冶橋を経て三時半目出度く宮城前に着し陛下の万歳を三唱し」散会した。一方、芝浦埋立地に集合した十四労働団体は、集会の途中から警察と衝突し場内擾乱、示威行列でも「叫喚、乱闘、検束」と荒れた。どうやらメーデーは、「祭」とは言っても、一般市民にとってやすらぎや楽しさを感じるものではなかった。
 この頃、労働争議は頻繁に起き、不景気はかなり深刻な情況になってきている。その煽りか、大相撲も初日から入りが悪い。観客数は二日目以後も増えず、とうとう満員御礼が一度も出ないまま千秋楽を迎えてしまった。天候不順もあるが市民の行楽活動は停滞していた。
・六月「お転婆主義の実現、女学校に野球団」二十二日付讀賣
 六月になっても市民のレジャー動向は改善していないようで、レジャーに関する記事はあまり見られない。そのような中で、「女学校に野球団」と、女性の間でスポーツの普及に関する記事が出ている。ちょうど女性の社会進出が顕著になってきた頃だった、前記メーデーでも女性の検挙者が8名も出るなど、政治運動は少し前から活発であった。七月五日付でも「多くなった女のボート乗り」、さらに八月十六日付「月島から羽田まで競泳の少女選手」と、スポーツやレジャーにもハッキリと女性の存在が浮かび上がっている。
・七月「水泳場 石神井は 七月二十日から」十二日付讀賣
 七月一日からは両国国技館恒例の納涼園がオープン、開園時間は午前九時から午後十時まで。この催事の呼び物は、那智の瀧。高さ五丈(約9m)の瀧が400坪(約1320㎡)の池に注ぐという大規模なもの。池は水泳場、滝壺はガラス張りの隧道となっており通行ができる。そして、その先は舞台となり美人の紀州踊りが見られるといった趣向。二階三階にかけてはパノラマ式背景に、活人形70余番を組合せ、観る人を「あっ」と言わせる大仕掛け。同じく一日から、三越で児童博覧会が開催。こちらは子供の喜ぶ「涼味溢れる玩具の園」と評されている。
 東京府社会事業会が主催し、石神井(七月二十日から八月三十一日まで)と多摩川(八月一日から九月十日まで)に公衆遊泳場を開設するとある。また、荒川水泳場は、十日より開始され電車の往復割引切符もあると。大森・羽田・新子安の海水浴場は広告として、納涼大遊園やツルミ花月園とともに掲載。水泳は、夏の市民レジャーとして浸透し、家族のうちで誰かが行うくらい一般的になった。郊外の井の頭公園(大正六年開園)に天然水を利用したプールが完成し、八月二日にオープンするが、絶対数がまだ足りない。東京市内の河川では水泳ができなくなっていたので、都心から離れた河川へと多くの人々が出かけたのだろう。そうしたニーズを受けて、京成電鉄は海にも進出し、千葉の稲毛海岸に海水浴場を開設した。
 この年、お盆に暑い日があったあと、二十一日以後八月の初めまで天候がハッキリしなかった。永井荷風は「天気再び梅雨の如し。」と日記(八月三日)に書いている。そのため、二十三日の両国川開きは中止。三十日午後には小雨であったが暑くないためか、「先帝祭 明治神宮賑う」と、浅草公園・両国・上野・新橋等も賑わい、近郊の海水浴場も月島海岸も水泳客で賑わった。降雨と出水で再々度の延期があった花火は、「今日の川開き お座敷ガラガラ」(三十一日付夕刊東朝)と書かれたくらいで、「川開きの鼻息 少し位の雨なら今夜決行」であったが、翌日の紙面(東朝)には川開きの賑わいや人出に関する記事を見つけることはできなかった。が、他紙(讀賣)では「川開きにも不景気の風邪」(八月一日付)ということ。それでも花火だけは、日英祝賀会・大連発咲匂百花爛漫・英国ネルソン塔などが打ち上げられ喝采を受けた。
・八月「避暑客激増し 客車大満腹 最近炎熱の来す結果」十日付東朝
 湘南方面へ向かう東京駅、房総方面へ向かう両国駅の乗降客は前年の二倍に増えた。房総の勝浦町では人口数と同じ約2600人が避暑で宿泊したという。また、猛暑を逃れて避暑地に出かけることのできない市民が水泳場に殺到。「都下近郊を背景する五十の遊泳場何れも数万の大童小童が群がり」とある。東京市では、14台の散水自動車と千台の馬車や手車で道路に水撒きをしている。しかし、炎天下ではほとんど利き目がない。人夫の日当も普段の1円80銭に20銭手当てを付けているとのこと。「八月に入り溺死激増」と、暑さを逃れようと市内で水泳していた人が多数亡くなっている。十五日間で月島が20名、千住と深川が10名づつ合わせて40名と、前年は一カ月で25名だから確かにこの数字は多い。
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大正十年(1921年)中期のレジャー関連事象 
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5月2読 メーデー芝浦埋立地から上野へ長蛇      
  6読 オペラ館「金色夜叉」連日満員で日延べ    
  8永 荷風、銀座通の夜景盛夏の如し         
  10朝 歌舞伎座「菅原伝授手習鑑」他大入り       
  13朝 新富座「鎌倉心中」他満員御礼          
  14朝 寒い淋しい変な夏場所              
  21読 明日の日曜は菖蒲の見頃             
  21読 遊楽館、仇討物や豪傑物など松之助延一郎一座の傑作揃いで毎日満員 
6月4朝 新富座「醍醐の春」連日満員御礼      
  4永 荷風、夕食後、芝公園を歩く        
  8朝 明治座「かれーの市民」新国劇澤田一座大好評連日満員     
  9日 御渡英活動写真、日比谷公園空前の賑わい
  12朝 駒形劇場「不魔殿」満員御礼
  15日 山王さま、日枝神社本祭三日間
  19朝 東京朝日新聞社のポスター展三日目17,500人の盛況  
  25読 日比谷での野球禁止、芝浦に運動場できる
7月1読 国技館の納涼園、五丈の瀧を掛けオープン
  3読 涼味溢れる玩具の園、子供の喜ぶ三越の児 童博覧会、一日から開催
  3日 御渡英活動写真、明治神宮参道で公開映写、鎮座祭以来の大雑踏
  5読 植物園で七夕祭り              
  5読 多くなった女のボート乗り            
  12読 荒川水泳場開始               
  12読 東京府社会事業会、石神井多摩川に水泳場開設  
  14永 荷風、有楽座人形芝居二の替を見る    
  26日 歌舞伎座曽我廼家五郎劇大入日延べ      
  31読 先帝祭明治神宮を始め市内、近郊海水浴場・月島海岸も賑わう 
8月1読 川開きにも不景気の風
  7日 歌舞伎座「雷鳴」他満員
  11読 本所四つ目牡丹園で朝顔品評会
  11朝 水泳場大賑わい
  13永 西ノ久保八幡宮祭礼にて近巷賑かなり
  14森 鴎外、上総鷗荘に妻子と同宿
  16読 月島から羽田まで競泳の少女選手
  17読 大好評の国技館納涼園、大人40銭
  19読 溺死者激増、月島が一番多い
  23森 類、観象 25日再び観象

大正十年前期 好景気の余韻で遊ぶ庶民

江戸・東京庶民の楽しみ 167

大正十年前期 好景気の余韻で遊ぶ庶民
 大正十年、原内閣の政治は、党利党略的で汚職を産み、社会・経済問題に有効な施策を打たなかった。そのため、不況は進み、労働争議が多発、政府弾劾や普通選挙実現などの集会は過激になった。市民の生活は物価が下落しても楽にならず、生活苦からの自殺や心中が新聞に毎日のように出た。さらに、原首相が暗殺されるなど不安な世相になった。
 東京のレジャーは、まだ好景気の余韻が残る中、民衆のレジャーは、金のかかるものは減ったが安価な行楽は落ち込まなかった。中でも花見は、これまでの最高の人出となり、上野や飛鳥山では不況の憂さを晴らすような騒ぎであった。この年の流行歌は、「赤い靴」「青い目の人形」の童謡と「船頭小唄」などが流行った。氷、一貫目に付18銭。
・一月「江ノ島鎌倉は寂しい」四日付讀賣

   「江戸風が減る」六日付都
 年が明けて二日付の新聞(讀賣)は初日の様子を「初日の出壮観」「夜来の残雪を踏んで上野竹の台、九段坂上愛宕山、山王公園、湯島、州崎、芝浦、品川海岸に・・・老若男女で賑いを見せ・・・地平線の彼方 五彩の雲を破って日輪」と報じている。初詣は、天候に恵まれなかったため人出もいつもの年ほどではなかった。例年の三箇日は、江ノ島や鎌倉は遊覧客で賑わうものだが、この年はひっそりで、それも日帰り客が大半を占めていたらしい。劇場の入りも前年よりかなり減少した。また、万歳や猿回しも少なく、“江戸風”の姿も薄くなったようだ。
 八日の初金比羅では、非番の巡査を配して警戒とあるから、徐々に市民のレジャー気運が高まっている。十五日付「春場所第一日 雨で連中席が僅かに満員」と言う具合であったが、二日目は藪入りに加えて学生の入場者も多く満員、三日目は藪入りと晴の日曜日で大入り。六日目もまず満員、七日目の国技館は雨が上がって兎も角相当の入りと、大相撲の人気は上昇気運。二十五日は「初天神」に加えて鷽替えで、亀戸天神は朝から素晴らしい景気。二十八日の初不動も、深川不動の境内は午前八時に「身動きもならぬ程の雑踏を極め」て電車の増発や臨時派出所を設置する程であった。
・二月「政府弾劾の日に二万の聴衆殺到す」十四日付東日
 世の中全体としては不景気であっても、節分となると、どの寺社も例年と変わらぬ賑わいを見せたようだ。また、普通なら冬枯れの時期にもかかわらず、演劇や映画は前月より興行数が増えたくらいで、客足はさほど減っていない。特に世界的バイオリニスト・エルマンが帝国劇場で開いたコンサートは満員の入りであった。
 一方、十三日付の上野公園両大師前の広場は、日曜でその上好天ということもあって、政治集会に2万人もの人々が集まった。汚職をはじめとする政府批判は日ごとに高まり、これ以後集会の内容も過激となっていく。また、不景気のため労働者の解雇件数も急増、それに伴って労働争議が多発、労働運動も活発化。そういった世相は、当然市民のレジャーにも徐々に反映されていった。
・三月「柔拳試合二日目は 日本人側の優勝」「大正衛生博開会式」七日付讀賣
 三月に入ると、柔拳試合(柔道対レスリングの試合)の話題が紙上を賑わしている。曰く、「商売人試合は数々ござる」と、試合を否定する了見は狭いとの見方。しかし、柔拳試合に出場すれば「破門は仕方ない」。そのような「柔拳試合者は事実上除名」という厳しい意見に対し嘉納会長は「除名せず」と声明を発表。「柔拳試合二日目は日本人側の優勝」という見出し。折りから日曜日と好天に恵まれ、前日にも増して観衆多く万余を数えた、と盛況を伝えている。観客の関心は、他流試合の是非論より、柔道対レスリング言い換えれば日本対欧米の勝負ということにあったのはいうまでもない。また、伝統的な相撲よりもっと激しい格闘技を求める人が増加したのだろう、七月になっても「柔道拳闘 好武家は見遁し給う勿れ」と、御国座が宣伝を出している。
 六日に大正衛生博開会式。大正衛生博覧会は、両国国技館で二日から四月二十日まで開催された。入場者数は、初日1,335人、二日目5,300人、三日目6,218人、四日目55,480人。余興場で開会式が行われた五日目は、日曜日とあって9万人以上の記録。また、二十日から(五月二十一日まで)お茶の水教育博物館で鉱物文明博覧会が開催。展示は、鉱物利用の歴史ということで石器時代の石器に始まり、日常生活と鉱物との関係なども紹介。「各女学校が有益で面白い出品競べ」が婦人や子供たちの関心を引いたらしい。
 十九日付の新聞(東朝)に「春の呼び物 賑う遊覧」との見出しで、当時の人出について知る貴重な資料がある。明治神宮の参拝者は毎日平均5万人、九段遊就館入場者毎日平均2千5百~3千人、上野博物館入場者毎日平均2千人、上野動物園入場者毎日平均6千人、浅草観音堂の御賽銭毎日百二三十円。が、東京市統計表を見ると、遊就館で千5百人、博物館は千人にも満たない、動物園にいたっては3千人と、かなり過大である。従って、これは毎日の平均というより、休日にはこの程度の人出もあると思った方がよい。
・四月「花見客は例年の記録を破った」二十日付報知
 この年、人出を誘う記事は早く、お彼岸の頃から「花の便り」がでている。四月に入り、臨時列車のお知らせや「乱暴されねば寛大な取締方針」という忠告までも掲載。最初の賑わいは十日、「花魁姿の髪結が人気を集めて 上野の人出十万人 混乱の飛鳥山」「物凄い人出 市電省線丈で二百万 昨日の花見客未曾有の騒ぎ」(十一日付東朝)と続く。なお、花見の人出に関連して潮干狩りについても書かれている。上野で人気のあった髪結たちの花見については、十一日付(讀賣)で「花に酔える女の群」に詳細が記してある。それによれば下谷理髪組合の観桜団五百名、「六十のお婆さんの元禄娘の扮装や元禄島田に浅黄繻子の菖蒲模様尺八きりりと差した女伊達衆の装いもあり、俄紳士の附髭絹高帽のごてごても可笑しい」と。この記事の右蘭には「労働婦人の発会式は延期」があるように、女性の社会進出が政治だけでなくレジャーにおいても目立ちはじめている。
 花見の記事は、十六日付(東朝)で「電車増発 焼石に水」と混雑ぶりを紹介、そして、休日(十五日)に職人さんたちが「そろそろ名残の花見」をしている。飛鳥山には午前中に10万人の人出があったことを示し、その後は荒川や小金井のサクラが見頃になると加えている。二十日付(報知)に「花見客は例年の記録を破った」と、十七日の日曜に記録破りの人出があったことが報告されている。さらに、それまで花見は、東京市内周辺で行われていたが、湘南や逗子、鎌倉などの郊外にも出かけるようになったということも。これは、東京の人口が市内だけでなく、周辺部でも急激に増加しはじめ、行楽地を求めてより遠くへでかける人々が増えていることを反映したものである。
 花見が民衆の楽しみなら、新宿御苑で催される観桜御会は紳士淑女のための園遊会。この年は、前年より招待客の範囲が広がり服装も簡略化され8千人という空前の参列者となった。そのせいなのか「参列者の醜態」「苦々しい饗応の奪合い」と園遊会にふさわしくない見出し(二十二日付讀賣)が並んだ。「ハンケチや風呂敷を持ち出し菓子は素より菓子台まで包み込んで五千五百人分の賜餐が三千余の参列者で瞬く間に無くなり、さしも丈夫な食卓まで壊れて・・・是等の人々は役人とすると何れも高等官五等以上の人達である・・・陛下の御前とも心得べき事であるから不敬な事・・・外国貴賓に対しても実に不面目極まる・・・」と宮内省大宮がその情けない有様を語っている。もっとも、参列者は、日本婦人の習慣として、人前で食べる事をせずに、紙とかハンカチに包んで持ち帰っただけのこと、こんな騒ぎになるなら、あらかじめ注意して欲しかったと反論しているもよう。
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大正十年(1921年)のレジャー関連事象 
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1月4永 荷風、晴れて暖かなり、銀座を歩む                                  
  6読 初水天宮の賑わい             
  8読 初金比羅、非番の巡査を配して警戒
  16読 藪入りの大相撲、学生も多く二日目満員   
  16読 二の卯
  20読 大相撲、六日目もまず満員
  26読 初天神に加えて鷽替えで亀戸天神は朝から素晴らしい景気
  29読 常盤座「天眼通後編川徳」他日延べ
  29読 初不動の賑わい 
2月3読 三日の豆撒き、賑わう各所の寺社
  6朝 本郷座「堀川」他初日から満員続きの盛況
  13朝 雨の初午、羽田稲荷をはじめ笠森、三囲いずれも人出例年の半分にも足らず
  13朝 金春館「猛虎の如き女」他満員御礼
  15朝 明治座「絵姿」他昨日もまた満員
  22朝 葵館「恐怖週間」他連日満員
3月2朝 観音劇場「男心女心」他相変わらず昼夜一杯の入り
  7読 国技館の大正衛生博覧会開会式9万人以上、なお開会は二日
  7読 柔拳試合二日目観客1万余、日本人側の優勝
  10朝 明治座俊寛」他連日満員
  13中 芝浦野球場開き、三田対稲門戦入場料一等2円二等1円三等50銭
  21読 お茶の水教育博物館で鉱物文明博覧会開催  
  27朝 新宿大火、新遊廓は全滅す
  27永 荷風守田勘彌の文芸座を見る
  29森 杏奴・類往、植物園
4月3永 荷風明治座で「其姿団七縞」を見る 
  6読 戌の水天宮未明より参詣し人形町通り雑踏を極める
  3永 荷風明治座で「其姿団七縞」を見る
  6読 六日は義士祭、八日は木下川薬師開帳と向島三囲神社大祭
  7朝 白昼浅草の大火、公園一帯焦土と、消失1,300戸負傷120余名、宮戸座焼く
  10読 飛鳥山、昨日早くも仮装の一隊、王子電車は満員鈴成り
  11読 満山大浮かれ上野飛鳥山の賑わい、潮干狩りの品海船で埋まる
  14読 遊楽館の盛況 大入りで喝采溢れるばかり
  15読 上野東照宮大祭
  22読 新宿御苑、晴の観桜御会祭に8千人
  30読 今日から畜産博覧会 

大正九年後期、庶民の遊びは盛り上がる

江戸・東京庶民の楽しみ 166

大正九年後期、庶民の遊びは盛り上がる
 不思議である。庶民の懐は決して豊かになってはいない。それなのに、新聞は庶民が大勢遊んでいる様子を伝えている。中流以上の人々につられるように遊び、盛り上がっているように見える。最下層の人々の生活は、さらに悪化しているが表面化していない。東京全体としては、庶民の遊ぼうとするムードが浸透しており、イベントを仕掛ければすぐに踊らされていた。
・九月「避暑帰りに大賑いの上野東京」「珍しい秋空に 美術の上野から浅草にかけての大賑わい」十三日付万朝
 東京駅は八日に1万4千人、上野は九日十日頃からそれ以上のひとびとが日光や軽井沢などから帰京しはじめた。もっとも前年のように一両貸切りという豪勢な成金は姿を消し、皆混雑した車両で我慢しているという話。一方庶民はというと、浅草は仲見世通りから仁王門まで雑踏を極め、映画劇場に花屋敷は何処も大入り満員。上野も院展二科会に人出が多く、博物館や動物園も相応の入り。この頃、荷風は、“寄席また吉原など、到るところ安木節大に流行すると聞きしが”と浅草公園に安木節を聞きに出かけている(二十二日)。そして、安木節について「近在百姓の盆踊と浪花節とを混じたるようなものなり」と評している。
・十月「日曜日の小春日和、市内も郊外も非常な人出」二十五日付万朝
 十月一日は国政調査が行われた。東京市の人口が217万人、東京府は369万人。人口の増加は市内より郡部、それも市の周辺部が著しい。五日からは世界日曜学校大会が催される。開会式の演説「世界進歩の必須要件たる宗教教育」が示すとおり、宗教を通じての青少年の国際交流。音楽会や映画、仏教少年団が鶴見総持寺に外賓を迎えたり、十日には日比谷公園で33ヶ国の参加者を含む三万人が旗を持って会合した。
 十三日、十四付とお会式の話(万朝)が続いた。日暮れ頃から数万の万灯が火の海を作って池上本門寺に流れ込んだ。折から降りだした雨の中、南無妙法蓮華経のお題目の群れが続き、本山では祖師堂などは信者が鮨詰め、下寺は各講中の人々で身動きのできない有様であった。なお、お会式にあたり大森署では本門寺境内・太鼓堂の縁の下から45名の乞食を収容。その中には病人もいたが、病院へ収容する際、銘仙の重ね着に着替えるなど多額の金を所持している者がいて係官が驚いたという話もある。市民レジャーも、秋が深まるにしたがって活発になった。
・十一月、明治神宮鎮座祭「入場を待つ幾十万民衆渦を巻く」三日付讀賣
 新聞は十月の後半から明治神宮鎮座祭をめがけて記事を載せはじめた。「明治神宮の大祭を当込んで飲食店や宿屋が大騒」、「花電車も四日間運転」等々。当日の模様は、二日付の新聞(讀賣)に「絵巻物に似た盛儀の内に御霊代を神宮へ 内苑の緑に栄えた参列者二千の大礼服 古楽裡に御神霊は内陣へ安着さる 午前十時三十分御義を終る」とある。午後一時から参拝が許されると、群衆が神宮橋を渡って参道になだれ込んだ。一の鳥居から二の鳥居までは三十分、二の鳥居から南神門の間も三十分以上停滞して卒倒するものや踏み倒された人がかなりあった。やっと拝殿まで漕ぎつけると賽銭の雨。帰りは帰りで何千という参拝者に揉まれて西門から出口に向かう、西参道に出るまでに一時間四十五分もかかったという。一日の天気は午後からあいにくの小雨、市電乗降客は180万人で平日より60万人増、原宿・代々木・千駄ヶ谷・新宿・渋谷・信濃町で下車した人が12万7千人。神宮内苑救護署37ヶ所で取り扱った事故、死者1名、負傷者138名。なお、満員電車の衝突など、事故は市内各地で発生しており、参拝帰りの車にひき殺された気の毒な人もいた。
 鎮座祭第二日も初日に劣らぬ賑わい、晴天に恵まれ、奉祝余興が催された青山練兵場では大相撲を皮切りに流鏑馬・母衣曳き・騎射などが次々に披露。相撲に早朝より人が押しかけ、2万人余の席もあっという間に満員、競馬場にも5万人は入ったかとの賑わい。日比谷公園でも東京市の奉祝大会があり、式後に余興。音楽堂で海軍軍楽隊、菊花大会場で初代ぼんたの娘手踊、剣舞・太神楽・奇術・住吉踊・茶番・素人相撲など、園内はギッシリと身動きもできないほど。夜に入ると露天活動写真が上映されて、日比谷公園は終日賑わった。明治神宮への参拝者は前日に続き、老女が1名神宮橋で肋骨を折り危篤になるなど、負傷者が200名も出して大混乱であった。
 結局、七日までの参拝者は6百万人と発表、明治神宮参拝は東京だけでなく全国から隊をなして訪れた。ただ、この6百万人という数値は、早朝六時から午後五時まで、神宮橋を毎分600人が通過することを前提として算出しているが、高齢者や幼児もたくさんいること、人々が殺到した時にはかなり渋滞することなどを考える合わせると毎分600人というのはどう見ても過大。六日間で御神符が30万枚売れたことから、おそらく参拝者の二割程度が購入したと考えれば、参拝客全体数は150万人となろう。
 十一月になっての人出は、鎮座祭に触発されたのか中旬以後も続く。人気の出しもの、国技館の菊人形は国技館改築後初めての催しで、開場以来日々数万の観客を呼び、非常な人気となった。館内には、二十余の場面が設けられ、二百余の人形に、本水の滝を懸け、雨を降らし・・・と様々な斬新なるアイディアに、“大仕掛けな電気応用”を取り入れた『那須与市扇の的』や『京都清水寺の紅葉』『吉野山の桜』等、菊見をしながら芝居見物、名所めぐり、花見、紅葉狩りもでき、太神楽・手踊り・曲芸などの余興が楽しめる上、お好みの飲食物と土産物まで揃っている。入場料は大人50銭小人30銭で、朝九時より夜の十時半までと、天候に関係なく見物ができるという点が受けた。
 十四日は「開会以来の入場者」と児童衛生展覧会に1万人以上が訪れた。開会以来の入場者の総数は15万人という。明治神宮の参拝者もまだ続いており、御札が3万枚、絵はがきが1500部売り尽くす。日比谷公園の菊花大会、羽田で全国自転車競争会、品川から大森・羽田・川崎・鶴見・新子安などにハゼ釣り、市民は市内の日比谷公園はもとより郊外へも多数出かけた。しかし、一方で「下層階級に浸込んだ不景気」との新聞の見出しからもわかるように、町には浮浪者が増え無料宿泊所は満員、託児所は母親の失業のため寂れているような状況だとか。もっとも東京の景況は悪化の一途をたどっているが、市民のレジャーはわりあい堅実なようにみえる。「上流の家庭に流行る踊の稽古」という記事があるように、経済的なゆとりのある人もけっこういる。
・十二月「不景気を知らぬ 師走の六区を観る」十二日付讀賣
 新聞を見ると「歳末の不景気は木枯らしと共に吹き荒み青息吐息で・・・」あるが、浅草六区だけは不況知らずで別世界の好況。歳末から正月に掛けて家族連れの客が増え、まるで“簡易忘年会場”という様子。オペラ館上映の『妹の死』がかって例のない大入りを続け、他の映画館も盛況で立錐の余地がないほど。中流とまで言えない下層の上の人々が増加し支えており、彼らが指示する娯楽は以後さらに活気を増していく。
 新聞は中流以上の人々に視点を合わせ、歳末の話題はデパートの動向に注目している。以前のような歳の市の賑わいは報道されなくなってしまった。ただ、浅草観音歳の市の出店情況は、しめ飾り26・宮師34・羽子板47・桶屋51軒を始めとして1千5百軒との記事がある。縁起ものの店は数年前と変わらないもののその他の露店が増えているようだ。十八日付の新聞(東朝)には「活動写真と飲食店が不景気の槍玉に 歳の市の商人だけ売れそうですと大喜び」と書かれており、歳の市は例年と変わりなく催され、相応の賑わいがあったものと思われる。
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大正九年(1920年)後期のレジャー関連事象・・・
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9月1万 院展二科公開第一日売約はないが、午前中に3千人とかなりの大入
  4万 帝国劇場「新カルメン」満員御礼
  9万 上野の展覧会は入場料にもめげず観客が多いが画の売行きは少ない
  11読 歌舞伎座「恋ごろも」連日満員
  13万 避暑帰りに大賑わいの上野東京
  13万 珍しい秋空に上野や浅草は大賑わい
  20永 荷風、有楽座に露国人の舞踏を観る
  22永 荷風浅草公園安来節を聴く
  25読 玉川の大花火
  26万 キネマ倶楽部「世界の心」連日満員御礼
10月5読 日曜学校大会開会式、参列人員約3千人
  8万 南座「源平布引瀧」他初日二日目満員
  10万 京橋金沢亭、小さん等連夜大入り満員
  11読 中山競馬場で我が国初のオートバイと自転車の大競争
  11万 日曜学校大会、日比谷公園に三万人
  13読 お会式、満山を揺るがす題目の声 曇空で人出は減ったが池上一夜の賑わい
  14万 辰巳劇場、訥子一座大人気大入り満員
  18万 帝展初日7591人入場、売約34点15930円
  18万 帝国館「戦争と平和」他満員御礼
  18万 オペラ館「恋ごろも劇」好評に付上映一週間日延べ
  19森 鴎外、二児と往飛鳥山へ行く
  25万 日曜日の小春日和、市内も郊外も非常な人出
  25永 荷風猿之助の春秋座を観る
11月1永 花火の音聞ゆ、明治神宮祭礼なるべし
11月3読 明治神宮鎮座祭、翌日から各地の余興賑わう
  3読 十二校対抗陸上競技開催8読鎮座祭七日までの参拝者600万人 
  4万 三友館「決死の勇」他連日満員御礼
  10永 虎の門金比羅の縁日なり                
  12万 国技館の菊人形非常な人気 
  15万 児童衛生展覧会の入場者1万人を超える
  17永 荷風、チューリップ球根を花壇に埋む    
  19万 市村座「南部坂雪の別れ」他初日満員御礼

  21万 上流の家庭に踊りの稽古流行る
12月4永 荷風、氷川社頭の黄葉を見る
  12読 不景気を知らぬ師走の六区
  12読 オペラ館「妹の死」不拘異例の大入り     
  14万 神田劇場、二大名画と三大喜劇連日満員御礼  
  16朝 新富座「鉱山の秘密」日延べ大入り御礼
  18万 浅草観音歳の市、しめ飾り26・宮師34・羽子板47・桶屋51をはじめ1,500軒
  27読 納の不動

大正九年中期、メーデーは労働祭

江戸・東京庶民の楽しみ 165

大正九年中期、メーデーは労働祭
 五月のニコライエフスク事件、シベリア尼港(現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)でソ連パルチザンが尼港で日本人捕虜などを殺害した。事件の真相は国民には正確に伝えず、世論を激高させることに利用された。政府(軍部)にとって都合の悪いことは隠蔽され、庶民には知らされることは無く、無関心にさせることとなる。また、庶民が気づく前に、他に関心を向けさせるように揺動することになる。それに最も有効なのが娯楽である。その娯楽も、労働祭のような政府の意向に従わなければ禁止され、庶民が参加しないようにされてしまう。

・五月「五月場所初日 大入場は寂しい 選挙疲れか不景気か」十五日付讀賣
 日本初のメーデーは、三日付の新聞(万朝)に、「最初の労働祭演説会 十余団体員上野で火のような気焰」という具合に書かれている。労働者の祭りは、余興を楽しむ運動会ではなくなっていた。同じ紙面に、「新畫の値段は半分に下落した」とある。不景気は美術界に最も鮮明に反映された。映画や芝居はまだそれほどでもないが、相撲にはかなりの影響があったようで、千秋楽にようやく一杯になった程度。二十六日付で、市内の大工場は五月一日以降、すでに69件もの閉鎖、前月も65件の閉鎖があり、この分だと二三カ月後が気遣われると書かれている。
・六月「覿面に不景気を食らった芝居と活動写真、六月興行は非常な不入り」十四日付万朝
 六月に入って、芝居や映画をはじめ、市民のレジャー気運は、梅雨で落ち込んでいる以上の衰退ぶり。元気なのは、十七日付の新聞に紹介されている「市内四千の交換手、日光へ慰安旅行」のような会社あげての活動である。無法なシベリア出兵に巻き込まれてなくなった尼港殉難者大追悼会が、日比谷公園音楽堂前で催された。正しい情報が国民に伝えられていないこともあって、市民の関心は低かった。そのためか、そこにはシベリア出兵の意味がよく分からない東京府内の中学から大学等100余校の学生生徒が参加させられていた。
・七月「去年の景気を夢と語る川開き」十二日付東朝
 年中行事の草市は、十日から銀座通りや上野広小路など五ヶ所に立つ。真菰は12・3銭、籬垣14・5銭、麻幹一束5銭、蓮の葉2銭程度、花は2~5銭、みそはぎ4・5銭などで、前年より安いだろうと推測。芝浦の納涼遊覧会が十日に開会式。挨拶や祝辞の後、模擬店を開き、曽我廼家一座の喜劇・奇術・太神楽などの余興で賑わった。同じ十日、日比谷・上野・芝浦で内閣弾劾国民大会が催された。その模様は、「上野公園両大師前には、早朝より押し寄せたる群衆、午前十時に至って既に数千を以て数えられた」、「芝浦埋立地は群衆三千名」と、「群衆と警官隊 黒門町で大衝突」、日比谷では「上野、芝浦両方面から数万の群衆が一気に殺到するという報告」という凄まじさ。十二日も、精霊棚を設え盆を迎えようとする人々、普選連合会主催の国民大会に、上野公園や芝浦などに参集し警官隊と争う人々、歌舞伎座では「井伊大老」が前例のない大入り満員が続く。東京は、草市や納涼遊覧会の開会式で賑わうのと同じ日に、内閣弾劾国民大会が共存するような複雑な社会状況であった。
 例年であれば大変な賑わいを見せる藪入りも、商店に毎月の定期休業ができてからは、多少控え目、というのが新聞の評。もちろん、浅草は賑やかだが、六区の活動館付近は例年に比べると静かであった。ではどこが人気かというと、上野の南米の展覧会もあったが、やはり京浜電車を利用して大森、羽田、新子安などの海水浴場へと出かける人々が最も多かった。藪入りも変化しつつある。
 三十一日付の新聞(讀賣)に「東京府営水泳場は大繁盛、一番は品川各所逐日増加」と海水浴の季節。品川海岸は泥深く足元が悪いが交通の便がよいことから大入り満員。その他、江戸川・多摩川なども遊泳者が増えている。また五月三十一日付の新聞には、工場の廃棄物による水質汚濁のため「月島の水泳禁止」と、東京での水泳は、月島東海岸と荒川小台渡し付近の二箇所でしか泳げなくなったことが書かれている。隅田川下流も、この頃には著しく環境が悪化し、遊泳場は品川以南の京浜海岸や江戸川、多摩川へと移っていった。また、水泳や水遊びをする人も年々確実に増加している。
 この年の川開きは、早々と十二日付の新聞(東朝)で「去年の景気を夢と語る川開き」と見出しが出ている。ところが天候不順で、日延べが重なり、三十日にやっと開催。しかも、前年に比べて人出は三割減、怪我人が三人と、いささか湿った感じの川開きになった。なお、警察は、順延されたため花火が大祭日と重なり、明治神宮や菊花壇などの仕掛け花火があることから、警官400名が120艘の小船で警戒し、陸上にも350名の巡査を配置した。事故は、迷子4名のほか、せいぜい川の中に8名が転落した程度であった。人出の減少は、不景気もさることながら、名物の浜町河岸より新大橋までの河岸の露店が禁止されたことも影響したのではなかろうか。
・八月「魚河岸のお祭りが七十万円」八日付以下讀賣
 水神祭は不景気の中70万円をかけて行われた。社寺の祭に関する記事が減少している時期に、深川八幡の祭を差し置いて二日間続けて掲載されていることから、かなり盛大であったものと思われる。また、日曜日と定休日が重なった十五日のこと。午前七時頃から八時四十分までの湘南方面への5本の列車に4千人余が乗り込み、鎌倉・江ノ島へと向かった。湘南方面での避暑は年々ふえているが、大衆の海水浴はもっぱら品川から新子安までの近場。なお、同日の六時半発の湘南行夏季臨時列車は、時間が早すぎて2百名足らずの乗車であった。
 同じ紙面に「四十日足らずに 入場者約六万人」、上野竹の台で開催中の南米展覧会は思いのほか人が入っている。展示は南米の物産で、ここを訪れた人の中には南米へ出稼ぎに行こうと考えた人が少なからずいた。実際に出稼ぎの手続きを照会した人は600余人、書面で照会を求めてきた人が2000余人とかなりの反応があった。展覧会を楽しむだけでなく求職もかねていたようだ。同紙面に「目立って増えた月給取りの失業者・・・筋肉労働者を凌ぐ勢い」「無料教授所へ内職のお稽古の婦人が初日から中々の大入」などとの記事もある。
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大正九年(1920年)中期のレジャー関連事象・・・五月ニコライエフスク事件
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5月3読 上野公園で日本最初のメーデー、全国から5千余名
  4万 常盤座「生命の冠」他連日大満員日延べ
  5万 遊楽館「神稲水滸伝」他連日大入り
  15読 五月場所初日 大入場は寂しい 選挙疲れか不景気か
  15万 早大運動場で慶応対シカゴ戦、観客3万人   
  16永 荷風、帝国劇場初日
  17読 晴れ渡った日曜気分 日比谷音楽堂 動物園も賑わう
  18読 「時」展覧会開会、初日5千人入場     
  24読 五月場所、ようやく一杯になった千秋楽 
  31万 日大大講堂で少年少女3万人を集めた少年学校発会式
  31読 月島の水泳禁止
6月14万 覿面に不景気を食らった芝居と活動写真、六月興行は非常な不入り
  16永 荷風虎の門を歩み花屋にて薔薇一鉢を購う
  16読 大宮公園の蛍狩り
  17万 市内四千人の交換手、日光へ慰安旅行  
  24万 明治座「狂い咲き」他連日満員御礼
  26読 築地本願寺内に縁日できる  
  27万 日比谷公園音楽堂前で尼港殉難者大追悼会に府内大学~中学等百余校参加       
  2読 国技館の大納涼園
  5永 荷風、銀座を歩む、虫屋にて邯鄲を買う、その値金一円なり
  10読 お盆の草市十日から立つ
  12万 歌舞伎座「井伊大老」前例なき大入り満員
  16万 藪入り、その一日は矢張り浅草が大賑わい
  17万 麻布南座、初開場の初日は満員御礼 
  19万日 曜日の人出、矢張り浅草
  29永 荷風麻布十番通の夜肆を観る
  31読 浮世絵のような両国川開き、前年の人出に及ばず
  31読 東京府営水泳場は大繁盛、一番は品川    
8月8読 魚河岸の水神祭、70万円
  12永 荷風、銀座で夕食、日比谷公園を抜け帰る
  16万 上野の南米展覧会、40日足らずで約6万人の入場
  16万 日曜日と定休日が重なり、湘南行き列車は大賑わい
  25読 本郷座の新星歌劇団三の替り好評連日満員
  26万 御国座、福圓の水中飛込みと冒険劇、満員続き
  31読 ハゼ釣船、乗合船餌付で1円、別仕立4円に値上

 

大正九年前期 不景気であるが庶民は遊ぶ

江戸・東京庶民の楽しみ 164

大正九年前期 不景気であるが庶民は遊ぶ
 戦争による好景気も九年までで、三月の株式の大暴落と、不況が始まった。不況による労働争議は多発し、官憲による弾圧が厳しさを増していった。「平民宰相」原は、普通選挙法案審議を拒否し、衆議院を解散した。結果、政界はまた元の政友会に握られてしまった。この年、第一回のメーデー、「繰出した三千余名」と参加者は市民のほんの一部であった。十一月に催された明治神宮鎮座祭の参拝客の人数とは比べようもない。
 市内のレジャーは、不景気ではあるが必ずしも低調ではない。成金の姿は影をひそめたが、映画や寄席等の安価なレジャーは健在であった。この年の流行した歌は、「鴨緑江節」「安来節」等。靴下の値段、7・80銭~3・4円。上野の茶屋のお休み料、桜餅四つ付いて20銭だが、四月には値上げの予定。
・一月「二年振りで蓋を開けた国技館」十七日付讀賣
 元日の市内は、好天に誘われてどこも活況。なかでも上野公園から田原町・雷門まではまるで「人の海」というような状態。六区の活動写真館から歌劇、劇場などの好景気は言うまでもなく、元旦の飲食店は軍人や店員連中が店一杯に占拠して大騒ぎという有様。また、川崎大師には30万余人もの参詣者が殺到、その混雑で2名の死者を出し、電車に飛び乗り損なうなどの事故も起きている。
 四日付(万朝)には「六十一年目庚申の年の庚申の日の柴又帝釈天の凄まじい人出」と長い見出しが出ている。もよりの押上駅では押し寄せる人で臨時切符売り場や手摺りが破壊され、数百人が線路内に落ちるという騒ぎ。やむを得ず、婦人子供や年寄は他の駅に向かった。この日は、午前十時頃までに開運守り2万・御供物50万・開帳札2万・風封お守り30万を売り尽くすという。帝釈天始まって以来の人出であった。
 昨今、紳士学生の乗馬が盛んになり、婦人や令嬢達も内緒で練習という。その記事によると漱石の息子たちも練習中だとか。
 火事騒ぎのあと、二年五場所ぶりでもとの両国に戻り、周辺の商人たちの喜びは一通りではなかった。注目の十五日の初日は、満員の盛況で相撲協会は万歳。ところが七日目に事件が起こった。番狂わせの度に茶碗やミカンが投げられ、他の観客に当たり頭部打裂症、ビール瓶で頭を七針も縫う重傷を負った。
 二十三日の新聞(讀賣)には、神田青年会館に普通選挙無産者大演説会が開かれ、時節から満員の盛況とある。もっとも開始直後、50名の警官を引き連れた所長が中止を命令、「決議も演説も悉く禁止」という。これを無視した労働者は連行されたが、その時「巡査四名に咬付き警部を殴る」というような滅茶滅茶な騒ぎとなった。
・二月「壇上相次いで熱弁を揮う 普選の叫び」二日付万朝
 この頃になると普通選挙権の獲得のための運動が盛んになっていった。一日の国技館は土間も二階も悉く人で埋まり、その数2万余人。さらに演説終了後は大示威運動として提灯行列を行い、旗を先頭に楽隊の演奏につれて両国橋を渡り須田町・日比谷・二重橋前へ。主催者は、この日の催しを「模範的の示威運動 更に静粛に熱烈に二回三回挙行する」と語った。十二日付の新聞(万朝)には「普選促進大示威運動 人に埋まった上野の集合場」「示威行列数十町 芝公園から繰り出した」と書かれた。上野には50団体、芝に12団体と、警視庁は千人もの警官を出動させ警戒したが、大した混乱はなかった。二十三日付でも「芝公園を埋める68団体普選促進全国連合大懇親会」と連日のように関連記事が紙面を賑わした。
・三月「梅日和、人出に賑わう各公園」八日付万朝
 三月、株式市場の大暴落に始まり、米や生糸相場なども下落、工場の廃業が続発、第一次世界大戦による好景気もこの頃まで。しかし、市民の行楽はまだ影響はないようで、七日の日曜には、市内や郊外も梅見の人が出た。彼岸には祭日(春季皇霊際)と日曜日が重なって、麗らかな春日和に行楽の人がどっと繰り出した。また同じ日に六十八団体が芝公園に集まって普選連合大会を行い、日比谷公園や上野公園でも集会や宣伝活動が行われていた。また、芝浦では埋立地で罷工の示威行列が芝公園から以下蔵方面へと流れた。市内は緊張とくつろいだムードが同居していた。
 上野界隈の宿は、宿泊料を前年より三割以上も値上げしたにもかかわらず、三月の末でも宿泊の申し込みが続いた。まだ地方の景気は良く、東京見物に続々と人々が押し寄せ、花が咲く四月上旬から中旬頃の市内の旅館はすべて満員になった。事実、四月四日付(讀賣)の新聞に「雨の祭日、地方の観光団 活動芝居大当」と、地方の景気は悪化していないらしい。
・四月「花浮れた満都の人」「青菜に塩の株屋町」十二日付讀賣
 三月の末から花見の記事が出ている。上野公園のヒガンザクラは蕾が赤くなっている程度、飛鳥山のサクラはまだ芽が出始めたくらいだというのに、ポカポカとした花見日和に誘われてたくさんの人出があったという。その上、上野行きの電車は鈴なりで、家族連れは1・2台待っても乗れないありさまだった。飛鳥山でも、花見茶屋は2軒ほどしか開いていないのに、遊山の人はかなりいたらしい。飛鳥山の花の見は、一重のサクラが終わると八重ザクラが続くようになった。そのため新聞は、10軒ある茶店には、花見の期間に45万円のお金が落ちるだろうと予測している。
 四月に入ると相も変わらず新聞紙上は、「花浮れた満都の人」「仮装と乱舞の飛鳥山」「隅田川は錦絵の様な鴎と花見船」・・・と。お花見関連の記事が満載。中でも人気の飛鳥山への電車の利用客は、12・3万人という。市電車に乗った人も24万人。一方、同じ紙面に、株の大暴落を報じ、さらに下がれば縊死や夜逃で花見どころではないような、先行きの暗い記事も。中旬には飛鳥山で、花火に楽隊650人もの仮装、踊りの師匠連が弟子の芸比べ・・・と非常に盛り上がった。この年の花見は、「喧嘩の仕方題」と書かれるなど警察はいたって寛大であったとか。
 さて、サクラの次は、市民は一斉に潮干狩り、大師の縁日へ参詣方々、品川や羽田の海岸へ船や電車でたくさん繰出した。もっとも、人出の多い割りには事故がなかった。同じ紙面に「期米続いて激落」、「綿糸も同様底知らずの形勢」と景気の後退は続いている。また、総選挙が始まり(五月十一日投票)、市民の関心を集めようと新聞も報道に力を入れはじめた。
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大正九年(1920年)前期のレジャー関連事象・・・一月国際連盟発足
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1月2読 元旦の市中、初詣で賑わう         
  2読 川崎大師、30万余人の大混雑で死者2名  
    3永 市中電車雑踏甚しく容易に乗るべからず  
  4万 庚申の日の柴又帝釈天凄まじい人出、御供物50万、風封じお守り30万
  4読 紳士間に乗馬熱、漱石の令息も練習
  17読 二年ぶりの国技館、初日満員の盛況
  18万 三友館「梅咲く宿」大入り満員
  21万 浅草吾妻座隣地のローヤル・イタリアンサーカス連日満員の盛況 
  24時 劇場・寄席での喫煙禁止を警視庁通達
  23読 神田青年館で普通選挙無産者大演説会満員
  29読 深川初不動、雑踏を極む
2月2万 国技館で普選の叫び、2万余人       
    4万 明治座「生命の冠」他満員御礼       
  5万 追儺式、深川不動・成田不動・川崎大師などは賑わう 
  5万 新富座曽我廼家五郎初日以来満員
  12万 上野公園で普選促進大示威運動2~3万人  
  13読 箱根駅伝日比谷公園から14日スタート  
  23万 芝公園を埋めた68団体普選促進全国連合大懇親会 
  24読 上野みやこ座「若き血潮」他大好評
  24読 高島屋の売出しに入場14万人
  29永 荷風、午後雪解の町散歩す
3月2万 一高三十年記念祭、夜は寮庭に一大不夜城
    5万 明治座「国光」他好評満員   
  8万 梅日和、人出に賑わう各公園、京浜電車は満員続き
  11万 御国座「伽羅千代萩」他連日満員御礼        
  14万 本郷座「白鳥の歌」他初日満員御礼
  17万 新富座で当彌生興行連日大入り、23日に荷風、立見 
  20万 公園劇場「野崎村」他連日大満員日延べ
  21万 演技座「引貫筒真田入場」他満員御礼
  21森 鴎外、杏奴・類と伊豆栄で昼食、動物園へ
  22万 芝公園に普選連合大会、日比谷公園等でも集会
  22万 麗らかな春日和、上野も浅草も人の山
  29都 花見日和に上野・飛鳥山に人出
4月4読 雨の祭日、地方の観光団、活動芝居大当り
  8万 明治座「遠山桜天保日記」他満員御礼    
  9読 日比谷の花祭り 好晴の賑わい       
  11万 本郷座若手歌舞伎「新古劇八番内佐倉宗吾」他連日満員
  11森 鴎外、桜花盛開、妻子と出門、至日暮里   
  12読 花に浮かれた満都の人、仮装と乱舞の飛鳥山    
    18永 荷風、日曜日なり、快晴、夜銀座を歩む
  19万 飛鳥山底抜騒ぎ、警官は寛大喧嘩の仕方題
  22万 品川羽田の海岸は潮干狩で大賑わい

大正八年後期、庶民の遊びは続いている

江戸・東京庶民の楽しみ 163

大正八年後期、庶民の遊びは続く
 景気の落ち込みを目前にした大正八年の後期、景気の良いのは上流階級を相手とするもの。ただ、庶民の遊びは景気の後退、生活苦になっても直ちに減ることはないようだ。  

・九月「罠に引掛った観劇客」七日付讀賣
 この年は九月に入っても暑かったらしい。永井荷風は一日の日記に、「この日より十五日間帝国劇場にてオペラを演奏する・・・この夜の演奏は伊太利亜歌劇アイダなり。余は日本の劇場にて、且はかゝる炎暑の夕、オペラを聴き得べしとは曽て想像せざりし所なり。」と。二日の夕方「トラヰヤタ」の演奏を聞いたと書いているが、その時の劇場は温室にいるようだったとある。かってニューヨークで聞いた時は雪の中だったので、何だか別の曲を聞いたような気がするとも書いている。三日は「フオースト」を聞いたのだが、残暑ますます甚だしと。四日に「カルメン」。五日には「ボリスゴトノフ」の演奏を聞いて、厳しい暑さに疲れ、翌日は寝込んでしまった。
 この年の春に、帝劇で「イントレランス」を特等5円・四等50銭という破格の料金で興行し大当たり。そこで五月にも支那から名優・梅蘭芳を呼び、特等10円という驚くばかりの見物料を吹っ掛けた。ところが、観劇客は、高ければ素晴らしいものだという罠にまんまと引っ掛かり、巨額の利益を得た。これに味をしめた興行主は、九月はロシアから大歌劇団を招いて十五日間の興行。料金も特等12円・一等10円・二等7円・三等3円・四等1円と設定したので連日満員だと15万円を超える収入になる。当時、日本より遥かに物価の高かったロンドンでも最高で5円50銭程であり、ベルリンでは4円、米国ならさらに安いはず。いくら遠い国から招いて高級ホテルに泊めたとしても、物価が高騰するなか10円以上の観劇料を喜んで払う上流社会・成金社会の贅沢趣味・虚栄心には全く驚かざるを得ない、これは社会問題であると、結んでいる。
 永井荷風は、十五日に再び帝国劇場へ出かけ「ボリスゴトノフ」の演奏を聞いた。二十一日の日記は、「我国亡命の歌劇団、この日午後トスカを演奏す。余帰朝以来十年、一度も西洋音楽を聴く機会なかりしが、今回図らずオペラを聴き得てより、再び三味線を手にする興も全く消失せたり。此日晩間有楽座に清元会あるを知りし徃かず」と。西洋音楽に圧倒された様子、邦楽にはないスケールの大きな魅力にとりつかれたのは荷風だけでないだろう。
 彼岸の入りが日曜ということで、子供連れで外出する人が多く青山・谷中・染井・雑司ヶ谷などをはじめ市内各所に参詣の人が賑わった。上野や浅草はいつもの通り人出が多かった。また、川崎大師や西新井大師は、正五九の二十一日ということでというわけで人出が多く、混雑を極めた。
・十月「大繁盛の日曜 帝展とべったら市」二十日付讀賣
 十二日のお会式は、空前の人出だった。あまりにも混雑したため、大森駅では信徒たちが院線の線路に押し出され、そこへ電車が進入するという事故。死傷者十数名という惨事が起きた。
 十九日の日曜日は晴天で、日比谷公園や浅草、近郊はどこも大変な賑わい。わけても帝展は、朝早くから上野界隈の人出を吸い込んでいた。帝展の入場者数は1万5千余、前年より2千人少ないというものの大混雑。午後二時から早大グランドで、早稲田対満州倶楽部の試合が行われ10対1で早軍の大勝。新聞に観衆2万と書かれているが、帝展の入場者数よりおおかったとは思えず、実際には1万人にも満たなかっただろう。夕方からはベッタラ市が開かれた。非常な人出で堀留署は付近各署に応援を求め往来の安全に力を尽くしていた。日本橋小伝馬町一帯に並んだ露店には、数万の人が押し寄せて賑わった。
・十一月「帝展の入場者は二万人から減少」七日付讀賣
 この年の帝展の開催より二十四日間で16万6千人余、入場者数は前年に比べて2万人も減少した。最高記録が十月十九日の約1万5千人、最も少なかった日が1,945人であった。入場者が減ったのは、雨が多かったのももちろんだが、何といっても不景気の影響だろうと。もっとも、期間中の作品の売上額は4万3千円と前年より6千円多くなっている。これはつまり、作品を購入する層の所得は伸びたが、見物する層の生活は確実に苦しくなっているものと推測される。なおその後は、多少持ち直したと見えて、会期末の二十日までの層には約23万人に快復した。
・十二月「押詰った歳暮の街 景気の良いのは料理屋と芸妓許り」二十五日付報知
 例年、新聞紙上を賑わせる酉の市や歳の市に関する記事は、この年はなぜか減少気味。これに変わって、歳暮や百貨店に関する記事が目立ってきたようだ。例えば、三越白木屋高島屋などの店頭が、歳暮を買うために来た小口切手を持った人々で賑わっているとか、百円もする羽子板が例年なら浅草だろうが、この年は日本橋白木屋で四枚売れたとのこと。また、二十五日、上野精養軒が1円50銭の会費で開いた聖誕祭(クリスマス)には、着飾った令息令嬢で立錐の余地もないほど。築地精養軒も同様。霊南坂教会・九段教会・富士見教会などの少年少女の合唱や芝居、唱歌劇、映画など各々趣向を凝らしていた。むろん、デパートに行ったり、クリスマスとはいえ、教会に足を運んだ人などは、市民の1%にも満たないごくわずかな人々であることは言うまでもない。
 産業界の景気は良いものの、その恩恵を受けたのは中流以上の人々、下層階級の人々の多くは諸物価の値上がりに苦しめられていた。歳末の買い物は、公設市場にたよる人が多く、それも年の瀬のギリギリまで待っていた。三十日の新聞(万朝)に、低所得者向けの公設市場(州崎・富岡門前等19ヶ所)が大晦日は徹夜で営業すると。また、31ヶ所の公設市場は、年内一杯の十二時まで営業。翌年の二日に売り初め、三日は休業するが四日からは平常通りの営業になると。下層階級の人々は正月の用意は三日までしか持たなかった。

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大正八年(1919年)後期のレジャー関連事象・・・                     ────────────────────────────────────────────
9月4永 荷風、帝国劇場でカルメンを聴く
  7読 帝国劇場、特等12円の大歌劇        
  9万 新富座曽我廼家五郎「うっかりもの」三日間大満員御礼
  15万 明治座明智光秀」他四日間満員御礼
  22読 彼岸、川崎大師や西新井大師なども賑わう
  25読 コレラの流行に付取締り厳重で、寂しい魚釣り 
  29読 観楓列車、一等客車十月末日まで連結
  29読 帝国劇場、自由劇場の「信仰」他6・7分の入り
10月5読 蜂須賀候邸の園遊会
  10永 荷風、歩みて目黒不動の祠に詣づ
  12森 鴎外、妻子と目黒植物園・芝公園で遊ぶ
  13万 お会式空前の人出、鉄道事故死傷十数名    
  18読 帝展三日目祭日で賑わう14,439人入場
  20読 大繁盛の日曜、帝展とベッタラ市が賑わう
  20読 早稲田対満州倶楽部野球戦、観衆2万
  20読 三友館「牡丹のお蝶」初日満員
  24万 葵館「復活」他連日満員御礼
11月5永 荷風、帝国劇場に立ち寄る。是夜初酉なり
  7読 明治座「傀儡船」二日目満員
  8万 富士館「柳生十兵衛」他連日満員
  16万 歌舞伎座「鎌倉図鑑」他満員続き
  16読 翌月1日より活動写真の甲種乙種制度撤廃
  19読 菊花拝観者範囲広まる
  20万 彌生座「忠臣蔵」初日以来満員
  21万 帝展の入場者数、十九日迄で22万7千人
12月2読 生活改善展覧会に入場者1万人
  11万 歌舞伎座の竹本越路太夫大入御礼で日延べ
  15万 深川八幡の歳の市
  15読 白木屋高島屋、下足番が汗だくだく
  20万 明治座の奈良丸満員御礼
  23読 白木屋で百円の羽子板が四枚売れる
  25報 景気の良いのは料理屋と芸妓許り 
  27万 相撲の観覧料を春から値上げ
  31永 表通には下駄の音猶歇まず。酔漢の歌いつつ行く声も聞ゆ

大正八年中期の庶民、まだ自由な感覚がある

江戸・東京庶民の楽しみ 162

大正八年中期の庶民、まだ自由な感覚がある
 江戸時代から50年、半世紀となる。奠都五十年の祝祭は盛大に模様され、東京市民は祝宴を自分達の祝いとして楽しんでいた。まだ世界大戦後の好景気の余韻が残っているが、その一方でじわじわと不況の波は確実に押し寄せていた。       
 読売新聞5月15日に、「五百の工場労働者 一萬二千人の為に 慰安会を開催する」本所の十九ヶ町連合会の計画があると。「労働問題は今や論議の時代を越えて実行の期に及んで居る・・・」と大正時代の中頃の自由な世情を伝えるものである。7月15日には「職工の値上運動に「御催促では恐入る」と笑って応じた鉄道院被服廠。8月12日には「労働慰安の園遊会、精養軒の催し従業員ら1,500人」とある。
 「避暑外人の分布図 四千名の軽井沢が其筆頭 温泉村や松島等も怡ばれる」等と、当時の外国人の様子を伝える記事がある。(読売新聞7月27日)
・五月「晴の奠都祭 江戸錦絵を今様の構図 行幸啓を仰奉りて」十日付讀賣
 五月は靖国神社五十年祭から始まり、一日、九段坂上には凄まじいほどの人出があった。翌週は、奠都五十年の祝祭。会場となった上野公園には、早朝から羽織袴やモーニングの吏員などが続々と詰めかけ、山下から万世橋にかけての沿道は人波が十重二十重となった。市民の式場入場者は約5万人。また、芝公園から新橋・銀座・日本橋などの御成道にも人垣が連なり、「市民沿道に跪坐して天顔に咫尺し奉る」という状況。式後の奉送も沿道に市民の万歳の声が響きわたった。夜は夜で、上野を中心に人波の渦をなし、不忍池畔にはアイスクリームや卵売りなどの露天が続き大繁盛、祝賀提灯・紅白の幔幕・飾り物・活人形などに人が集中して神田辺りまで市電が通れぬという有様。日比谷公園での余興等も大人気だった。市内の神社も一斉に奉祝大祭を開き、小学生の旗行列、山車に神輿、提灯行列、そして一番人気の大名行列・・・と、数えきれないほどの余興に市民は大喜びであった。
・六月「漁客三千名、玉川電車大繁盛」二日東朝
 六月一日は鮎の解禁、日曜ということもあって多摩川太公望が繰り出した。同じ紙面に、織物問屋が率先して、雇人酷使の旧習を打破する日曜休日の実行へ、という記事がある。日曜日に休める人々は、まだ当時は少数であった。
 月半ばには月島三号地の水泳場17軒が市から許可された。前年より5軒も増え、七月一日からの開場が待たれているとのこと。水泳場の大きさは、従来のものは間口九間半(約17m)奥行六間(約11m)であったが、新規は間口五間一尺奥行六間となる。これまで水泳場内で飲食物の販売ができたが、飲食店が4軒できたので今後は絶対に売れない。また、水面に櫓を建てることも禁止され、飛び込みの楽しみが奪われた。その上、月島は護岸工事のため翌年から水泳場の使用ができなくなる。従って、東京の遊泳場は芝浦に移るほかないが、芝浦とて安全な遊泳地でないから市内の遊泳はこの年が最後だろうと新聞は悲観的に報じている。
・七月「家庭博開る」十一日付讀賣

   「日本晴れの藪入り遠出連中の激増」十六日付讀賣
 一日、代々木原で平和観兵式、そして帝国ホテルで市主催の平和祝賀会が催された。記念のハガキ・切手(約11万枚)は午前中にすっかり売り切れ。観兵式には数万の観衆が出かけた。代々木界隈の人出だけでなく、上野や浅草公園も朔日を兼ねた祝日だけに人出が多く、六区の興行物は満員の盛況。夜には、日比谷公園で海軍軍楽隊の演奏、青山練兵場で救世軍の催しと提灯行列があった。
 上野公園不忍池畔で平和記念家庭博覧会が十日から六十三日間の予定でスタート。呼び物はヴエルサィュ宮殿(八百畳敷きの休憩所)、余興として喜劇・魔術曲芸・浪花節等の他に南洋産のドラゴン・ガラガラヘビその他珍動物などの姿も。さらに、盆には飛び入り勝手相撲、大噴水瀑布・数百の花壇等もこしらえて、納涼にもってこいと好評判。
 十四日付(東朝)には、一週間後の川開きについて好景気を反映して混雑を予想。二十一日付の新聞には、「米や豆や砂糖大盡が太平楽の煙花見物」という見出しで、川沿いの茶屋が繁盛している写真までつけて、派手に遊ぶ成金たちの話を書きたてている。ちなみに水上署の調べによれば、観覧船四千艘で、観客は1万3千人なりと。この数値は、例年適当に発表されていた数値とは異なり、かなり信頼できるものと思われる。
 この年の藪入りは、小僧さんたちが市内から外に出かける傾向が増してきたらしい。家庭博覧会や飲食店などもさほどの入りではなく、この日一番混雑したのは上野・東京・両国の各駅で、これからはどうやら世間に増えてきた成金の振舞いをまねての遠出が増えているかららしい。
・八月「婦人の水泳者 近頃滅切殖えて来た」九日付讀賣
 一日から四日間、賃上げのストライキで東京の16の新聞が休刊。二十八日には、小石川砲兵工廠の職工6千人が賃上げと九時間労働制の要求スト。この年は、あちこちで賃上げと労働時間短縮を要求する動きが多く、ストライキが多発している。その一方で、従業員への慰安の催しも目につき、十二日付の新聞(讀賣)には、精養軒で労働者千5百人もの園遊会が催された。
 この夏、婦人の水泳者が増えてきたらしい。泳いでいる場所は、銀座から五六町離れた月島の先の三号地。浜に軒を並べた水泳場の一つ、荒谷水泳教場には、小学校の生徒が百人余り泳いでいて、そこの水泳教師から婦人の水泳について聴いたところ、教場の婦人会員は十人余り。実際に泳いでいたのは十代半ばの女子学生数人。泳ぐといっても、紫や青の大きな海水帽子を被って水の中にいるという程度、スポーツというよりは水遊びのようなものであった。女性が泳いでいるのが新聞記事となるくらいだから、これはまだほんの一部の人たちのレジャーにすぎない。
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大正八年(1919年)中期のレジャー関連事象・・・5月中国で五・四運動/6月ベルサイユ講和条約調印
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5月2読 靖国神社の五十年記念祭、余興も盛ん人出は凄まじい
  10読 浅草帝国館「イントレランス」連日満員日延べ
  10読 奠都祭 上野を中心に人波の渦巻き
  12永 荷風、帝国劇場で梅蘭芳楊貴妃を聴く
  18読 夏祭り気分の浅草三社祭り         
  19読 三友館合同特別興行、馬・ダンス・独唱等連日満員
  20読 大相撲夏場所、日曜日に負けぬ大人気八日目 
  24読 客足思わしからぬ夏場所十日目
  27読 蔵前名物高工記念祭の素敵な人出
6月1読 三越で江戸風俗展覧会  
  2朝 漁客三千名、玉川電車大繁盛         
  2朝 「織物問屋が率先して、雇人酷使の旧習を打破する日曜休日の実行へ」
  2読 遊楽館「稲生武太夫」大好評の盛況
  2芥 龍之介、弟と電気館で「呪いの家」を見る
  5芥 龍之介、菊池寛と小柳で伯山の講談を聴く
  16朝 賑やかな安全日、初日の市中は何処も彼処も御祭り騒ぎのよう
  19読 浅草公園の芝居は紀伊国屋の全盛
  21読 演技座「中堂焼討ち」大当たり
  21読 準備成った水泳場 月島は五軒を増す 然も今年が最後
  23朝 歌舞伎座「一谷嫩軍記」満員御礼
7月1森 鴎外、妻子と小石川植物園に往く                         
  2読 代々木原頭で平和観兵式、帝国ホテルで市主催平和祝賀会
  2読 帝国劇場の女優劇、初日満員
  5読 玉川の花火、数百本
  11読 上野不忍池畔で平和記念家庭博覧会開催    
  15読 両国駅の乗客、日を追って激増        
  16読 晴れの藪入り遠出の激増 飲食店の不景気
  20読 暑劇化にいたる各所の水泳場盛んに賑わう
  21読 両国の川開き、観覧船4千艘
  28永 荷風、再び有楽座で浄瑠璃人形を聴く
8月1永 荷風、帝国劇場で牡丹燈籠を看る

  7読 避暑列車(夜行列車)土曜毎に日光へ                                   
  7読 帝国館「曲馬団の囮」大受
  9読 玉川の大花火、数千発の打上げ花火      
  10読 百花園の虫放会、文人ら5百余名
  10読 王子名主の滝、日々千人余行くが大部分は幼児の水遊び
  12読 労働慰安の園遊会、精養軒の催し従業員ら1,500人
  15読 月島の伊藤水泳場で水上大運動会
  17読 百花園の江戸趣味納涼会、九月十五日まで