百合に魅せられて

百合に魅せられて
                           
・古代からの非常食
 ユリが地球上に姿を現したのは、おそらく人間よりもはるくる古いのではないかといわれている。花の美しさではキクやボタンにも勝るとも劣らないユリだが、どういうわけだか長い間、食用および医薬用としてのみもっぱら注目されていた(この場合、ハカタユリオニユリ、ヒメユリが早くから知られていた)。これがいわゆる「百合根」と呼ばれる鱗茎で、春、秋に掘り起こし、鱗茎を一枚ずはがしてきんとんや茶わんむしなどの材料として用いる。もっちりとした食感とかすかなほろ苦さが好まれるのか、意外と男性にファンが多かったりする。
 もっとも現代では、お正月を中心に季節を感じさせる添え物的な食材といった扱われ方だが、昔は、栄養価が高く、しかも長期間保存できるために、飢饉の際に救荒植物として非常に重要な食べ物であったという。今も昔も「食用」という点では変わりないが、重要度からいえばまったく比べものにならない。江戸時代は饑饉が多かったから、その分ユリに対する人々の関心も高かったのだろう。おそらく最初は野生のユリを堀り起して食べていたのを、そのうち、畑や庭の片隅などにもを植えて、来るべき食糧難に備えるようになったと思われる。私たちも乾パンやレトロ食品に頼るばかりでなく、庭のある人はせっかくだから、ユリを育てておくとよい。普通の時には花を楽しみ、非常時には「百合根」を食べる。まさに一石二鳥ではないか。また、昔は薬用として、「百合病」(ノイーゼのような神経の病気)と無気力症にも効用があるといわれ、重用されてきた。
『野山草』より
イメージ 1 清楚でやさし気な風情の中に、稟とした気品を感じさせるユリ花。野山で自生しているのを見ると、生命力が強そうで栽培も簡単そうに思える。だが、実際はそうではなく、特にササユリ、ヤマユリなどは栽培が非常に困難だという。そのためか鑑賞用のユリ栽培が盛んになったのは意外に遅く、ようやく江戸時代に入ってからであった。江戸時代といえば家康・秀忠・家光の「徳川三代」が今なら「園芸おたく」と呼ばれかねないほど無類の花好きだった。特に、老境にさしかかった家康は自らの健康・長寿にこだわり、そのためにも「本草学」に深く傾倒していった。ユリが江戸時代に入ってにわかに研究の対象とされ、幕府直轄の薬草園をはじめ、いたるところで栽培されたり、さまざまな園芸書に登場するようになった背景にはそうした、徳川家の意向ともちろん無縁ではあるまい。
   
 
・多彩なユリは江戸時代初期から
 では、天和元年(1681)に水野勝元が著した、わが国における園芸書の草分けといわれる『花壇網目』を見てみよう。これには、ササユリ、ヒメユリ、クルマユリリュウキュウユリ(テッポウユリ)など10数種が紹介されている。中には薩摩藩の離島、甑島産のカノコユリ蝦夷地のエゾスカシユリ竹島産のタケシマユリなど、当時としてはかなり貴重な、珍種も登場する。いずれも心理的な距離としては今とは比べものにならないくらい遠い土地であったはずだが、情報の伝わる速さと正確さには驚かされる。また、黒田藩のお抱えの儒者本草学者である貝原益軒は、元禄7年(1694)に著作『花譜』の中で中国の農学書から、ハカタユリオニユリ、ヒメユリなどの栽培法、利用法を引用するかたわら、「およそ昔はユリの品多からず、近年ようやく多し、近年は百合の花を世にはなはだ賞翫す・・・」と当時の園芸界における急激なユリの人気の高まりについて記録している。ようやく鑑賞用としての勝ちが認知されてきたということであろう。
 さらに、「江戸随一の植木屋」とまでいわれた染井の三之丞伊兵衛は、元禄8年『花壇地錦抄』に数多くのユリを列挙している。春すかしゆり(イワユリ)、まりこゆり(?)、夏すかしゆり(イワトユリ?)、天目ゆり(スカシユリの紅花種)、筋ゆり(ヤマユリの変種ベニスジ)、たもとゆり(タモトユリ)、黒紅(スカシユリの園芸品)、豊島(スカシユリの園芸品)、白黄(ヤマユリの変種)、大嶋ゆり(サクユリの変種シロボシサクユリ)、武嶋(タケシマユリ)、車ゆり(クルマユリ)、ためとも(スカシユリの園芸品?)、ささゆり(ヤマユリ)、鎌倉ゆり(ヒメユリ?)、琉球テッポウユリ)、はかた(ハカタユリ)、緋ゆり(ヒメユリの紅花品)、姫ゆり(ヒメユリ)、唐ゆり(トウヒメユリ?)、南蛮(オレンジリリー?)、鬼ゆり(オニユリ)、鹿子ゆり(カノコユリ)、大ゆり(カノコユリの大輪系統)、白ゆり(ヤマユリの白花品)、白八重(?)、くもりゆり(?)、京ゆり(?)、てうせんさかゆり(チョウセンカサユリ)、金沢(?)、えぞゆり(エゾスカシユリ)、えちご(スカシユリの一系統?)、さゆり(ササユリ)、黄平戸(キヒラトユリ・コオニユリの変種)、紅平戸(コオニユリ)、かきひらと(コオニユリの淡色品)、うすひらと(コオニユリの一系統?)、現代ではどんなものなのかよくわからないユリを含めて、実に37種も登場する。この中にも、遠く西南列島のタモトユリや朝鮮半島のチョウセンカサユリなどの登場するところをみると、金に糸目をつけないプラントハンティングがかなり広域で行われたものと推測される。

イメージ 2 享保4年(1719)に出された『広益地錦抄』」は、黄ヒメユリ、峰の雪ユリ(シロカノコユリの一種)、太平山ユリ(紅筋ヤマユリの一種)、扇子ユリなど、目新しいものが紹介され、ユリが人々に支持されていたのと同時に、栽培の方面でも高い水準を保持していたことがわかる
 
・文学や絵画などはも持てはやされたユリ
 ところで一口にユリといっても色や大きさはも様々である。当然人気の花も時代によって異なる。古代の人々の関心度は『万葉集』にどのくらい、その花を詠み込んだ歌が出ているかということによつてある程度わかる。ユリの歌は11種程載っているが、ここではササユリがほとんどで、ヒメユリ、ヤマユリが若干出ている程度だ
  『広益地錦抄』より                                    『広益地錦抄』より 
イメージ 3 一方美術ジャンルにおいてはヒメユリやハカタユリの人気が高いようで、国宝に指定されている京都妙心寺・天球院の襖絵(桃山期・狩野山楽筆)は色や花形からハカタユリとされている。室町時代の末に描かれた『浜松図』では、キキョウ、リンドウ、ナデシコなどにはじまってヒメユリが可憐な姿を見せている。徳川時代初期の『四季草花図屏風』、また向島百花園パトロンの一人でもあった酒井抱一の『四季花鳥図』などにもヒメユリやハカタユリのモチーフが盛んに登場する。また、桃山時代木版画や能衣装にはテッポウユリ(桃山~江戸時代にかけては「琉球百合」と呼ばれていたた)の意匠も見られる。これは「茶地百合御所車模様縫箔』(東京国立博物館所蔵)と呼ばれるもの。御所車とかなり大胆にデザイン化されたユリが金銀の糸で縫いとりされた豪華な衣装で今見ても斬新な感じを受ける。テッポウユリの出現は室町中期以降、公家や武士の間で教養として流行した「立花」(今でいう生け花)の流行と少なからず関係がある。限られた種類の花材では飽き足らず、当時は異国であった西南諸島に自生するテッポウユリをはるばる京都や大阪に運んできたものと思われる。また、ユリは庶民にも好まれる花であったようで、俳句や川柳などにも多く詠まれている。「百合の花恐れ入ったといふ姿」「あれおゆるし遊ばせと百合の花」などはうつむき加減に咲くユリの性状を巧みに擬人化している。詠まれた時代は定かではないが、「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」と美人を形容した句などは、現代でも十分通用する名句(?)である。
            『野山草』より
イメージ 4 それにしても、江戸時代に観賞用に栽培されたユリには、さすがに園芸文化の花開いた時代だけであって多様であった。たとえば愛らしく丈夫なヒメユリ、鮮やかな桃紅色が美しいカノコユリ奄美や沖縄に自生する純白のテッポウユリ、前述のササユリ、大輪と強い芳香が特徴でユリの王様ともいうべきヤマユリヤマユリの変種「サクユリ」は伊豆半島八丈島に咲くひときわ大きなユリで、なんと直径が30センチ近い花というのも珍しくない)、強健で繁殖力の強いオニユリ、緋色で花が透けるように見えるその名もスカシユリ、など様々な個性の花が勢ぞろいしていた。中でも江戸時代に注目され最も改良の進んだ品種は、幕臣・岩崎常正が著した『本草図譜』にはスカシユリの園芸品5種が紹介されており、さらに常正はスカシユリの品種が非常に多いこと、浪華(大坂)付近で「花色変生するもの」といった新品種が盛んに作出されている世情について触れている。これらは切り花での鑑賞ではなく、当時の盆養花卉として栽培されたが、一説には百数十の品種がつくり出されたといわれている。しかも特筆すべきはその大半が営利目的ではなく、庶民の趣味栽培によるものだという点である。なおこのスカシユリは『鳳凰閣』『金獅子』(図で見ると、花弁が十数枚もありまるでボタンか何かのようだ)、『摺墨』といったおそらくは江戸後期に作られたと思われる変わり種が戦前、輸出用として印刷された園芸カタログに紹介されている。と言うことは、アサガオフクジュソウだけでなく、ユリもまた江戸の技術がピークであったことを示しているといえよう。
 
・海外に雄飛したユリ                                      野山草』より
イメージ 5 このような日本のユリの美しさには当然、欧米の好事家たちも注目した。安永4年(1775)に日本にやってきた博物学者ツュンベリーは、ササユリ、スカシユリテッポウユリカノコユリなどに自分の名前に因んだ学名を付して、世界に紹介した。また江戸時代後期に日本に滞在したシーボルトは、7年の間に数多くの植物を採集、オランダのゲント植物園に送ったが、その中に5種類の百合が入っていた。しかもその中のカノコユリはオランダで見事な花を咲かせ、人々の称賛を集めたと伝えられている。そうした背景の上に、明治から大正にかけて日本から海外に向けて盛んに百合が輸出された。 明治6年には、ウィーン万博に出品されたテッポウユリがその気品がある姿で、高い評価を得ている。もともと、ヨーロッパでは白いユリは、キリスト教における聖母マリアの純潔のシンボルとして、特別な位置づけをされていた。それが、純白で、かぐわしい香りを持つ「マドンナリリー」である。宗教的な意味を持つ花として、教会の儀式や祭日の聖花として使われ、またもっともわれわれが想像しやすい両側としては、結婚式で花嫁が手にするのがこの「マドンナリリー」であった。だが明治6年以降日本から渡ったテッポウユリの人気が高まる一方で、テッポウユリとそこから派生した園芸品種が本家の「マドンナリリー」にとって変わるようになった。純白で香りが良く大量栽培にはむしろ、日本産のユリが向いていたからだと思われるが、何でもかんでも欧米に負けていと思い込み、模倣し、追いかけてた時代に、1 人(?)気を吐いたのがユリの花だというのは愉快である。
 ところで、この時期、ユリについてはちょっとおもしろい記録が残っている。明治から大正にかけて日本のユリが欧米の愛好家にもてはやされ、盛んに球根を輸出していた時期があった。大政奉還によって将軍職を退いた徳川慶喜が「自らクワを持って堀り、ユリを栽培し、外国へ送るビジネスを始めた」と明治7年の東京日々新聞が報じている。慶喜公は若いころからもともと多芸多才で知られた人物。その上この時はまだ三十代半ばで、生活に困らないとはいえ、隠居生活を送るには若すぎたのだろう。このビジネス、はたして軌道に乗ったのか、後日談が気になるところだ。それにしても徳川家は最後の将軍、慶喜までが、園芸と浅からぬ関連があったわけで、なかなか興味深い話である。