冬牡丹は江戸文化

冬牡丹は江戸文化
 
・ボタンの来歴
イメージ 1 正月にボタンやシャクヤクを飾る。『金生樹譜』には「清国の京師は北極の地にて寒気甚だしき処なれば、暖室の内に芍薬牡丹を養い盆(はち)植えとして立春の夜大内に奉り、銀燭のもとに飾り列ね、天子の御覧に供する」と図入りで解説されている。花の最も少ない時期に、豪華なボタンを鉢植えで飾るとは、さすがに中国ならではの趣を感じさせる。中国においてボタンが宮中で栽培されるようになったのは、八世紀前半、唐の玄宗皇帝の時代である。玄宗皇帝といえば思い浮かぶのは揚貴妃だが、その揚貴妃の美しさと並び立つことのできる花といえば「牡丹」をおいて他にないだろう。ボタンは花のなかの王者、すなわち「花王」と呼ばれ、中国では「数多くの美しい花には、皆それぞれの名を呼んでいるのに牡丹は単に花という。だからこれを花王という」といわれてきた。
 では、ボタンは、中国で最初どのように呼ばれていたかといえば、「木芍薬」であった。これは、シャクヤクがボタンより三百年以上も前から栽培されており、シャクヤクに良く似た花だから、「木芍薬」と命名されたのだろう。また、ボタンの名については、妖しいまでの美しさから「牡牛(おすうし)」の「丹(きも)」にたとえられたという説もある。あまりあてにはならないが、話としてはおもしろい。
 ボタンが日本に渡来したのは、意外と早く、奈良時代(724年)に空海が持ちかえったという説がある。もっとも空海も意外に花好きだつたのかなどと、早とちりしてはいけない。当初は薬用として入ってきたらしい。以来寺院などを中心に庭園木として好まれたが、それまでの薬用植物の地位から鑑賞用植物の地位にまで引き上げ、多くの品種を生み出したのは、何といっても江戸時代であった。先に“渡来したのは奈良時代”と書いたが、ではそれ以降、江戸期になるまで、薬用一辺倒であったかと言えば、これほど見事な花を人々が放っておくはずもなく、平安中期には宮廷や寺院で鑑賞用として栽培されていた。関白藤原忠通が『詞花和歌集』(1151年)で詠んだ「咲きしより散りはつるまで見しほどに花のもとにて二十日へにけり」という歌はおそらく花としてのボタンをとりあげた最初の歌であろう。しかし、よく考えてみれば、一つの花が20日間も咲き続けるはずはない。よほど大きな株があったか、あるいは庭にたくさん咲いていて、全部の花が散り終わるまでに20日かかったということかと思われる。なお、『遊歴雑記』には、「上尾久村佐治玄琳御物の牡丹花」として樹高七尺(2.1m)、枝張り九尺(2.7m)のボタンが存在し、薄紅色で八重咲きの花が、多い年には百四五十輪も咲いたという驚くべき記述がある。
イメージ 2 室町時代になると、すでに生け花として利用されていたことが、池坊専慈の花伝書『仙伝抄』の記述からわかる。この頃から、獅子とボタンを組み合わせた獅子ぼたん文(蛇足ながら、いのししの肉をぼたんと呼ぶのは、この組み合わせの連想からきたものらしい)や唐草を配した牡丹唐草文が流行。また、絵にしろ、蒔絵にしろ、ボタンは蝶や孔雀という、派手でインパクトのある画材と組み合わせて用いられることが多かった。 
  徳川時代には、雪舟の屏風、狩野山楽大覚寺襖絵をはじめ、襖、屏風、天井絵などにボタンがしばしば登場。画材として度々用いられるというのは、人々に愛されていたことの反映であろうし、また、そうした人気の後押しがあったればこそ、江戸時代にボタンの園芸品種の著しい発展を見ることができたのであろう。当時の日本のボタンの絵を見ると、重ねの薄い平形で、色も鮮明な赤白二色というパターンが圧倒的に多いが、中国の元時代の「牡丹図」などを見ると、盛り上り咲きで、同じボタンでも色や形に対する日本人と中国人の好みの違いが現れていて興味深い。
 
・江戸のボタン人気を探る
  元禄年間に書かれた『花壇地錦抄』(伊兵衛三之丞)に出てくるボタンの品種は、なんと481種にものぼる。中でも江戸一番の名品といわれたのは“布施紅”(別名“松の葉”)という品種で、このボタンが一体、どのような“名花”であったかと言えば、「花赤黒く瓶子形、先割蕊短くしまる。内にこまかなる葩多し、色咲出し薄色ついて紅をあげ終り、又黒みて悪敷成るさしなり、自然少許ちらちら見ゆることもあり、重ね六七重花形かこひ咲き輪五六寸芽大赤く木平む」とある。意訳すれば「花は赤黒く徳利形、めしべ、おしべは先が割れていて短く、しっかりとしている。さらに内側には、細い花びらがたくさんある。花がほころぶと初めは薄い紅色、そのうち黒ずみ、あまり美しくないが、それが自然にちらちら見えることもある。六、七枚重なった花がかこい咲きすると花輪は五、六寸になる。芽は大きくて赤く、木は平たい」というような意味になるだろう。暗紅色の大形のボタンという漠然としたイメージしか持てないが、作り手の布施孫兵衛重良が後水尾院に献じたところ大いに喜ばれ、歌まで拝領したことから、このボタン一段と名をあげた。なお「松の葉」という別称は、この時に後水尾院より拝領した「松の葉も秋やは知らぬ下紅葉よその手入は浅き色かな」の御詠に因んで改名されたものだという。
  江戸自慢三十六景より
イメージ 3  続いて江戸の著名な戯作者、滝沢馬琴は『玄同放言』において、ボタン人気について「宝永年間(1700年前後)の頃に至りてこの花を弄ぶこと異朝唐宋の時に譲らず」とその隆盛ぶりを書き記している。また、『牡丹論談』では当時、駒込の先の西が原界隈で、茶器を売っていた店の別荘にボタンがたくさん植えられていたので、世間ではその別荘を牡丹屋敷と呼び、やがて、店の主人の方でも店の屋号を「牡丹屋」にした、とある。このように武家・商家の庭を始めとして、19世紀の初めには江戸中に牡丹の名所があったようだ。本所にあった四つ目牡丹園もちょうどこの時期に開園している。
 ところで、同時代を生きた俳人小林一茶は『魚淵が園』において、紙で黒と黄のニセの牡丹(黒と黄のボタンは、当時いずれも稀品としてもてはやされていた)をつくって人々を欺いたという。これは、持ち前の天の邪鬼気質から発したいたずらか、あるいは花の人気など所詮、空虚なものよという、批判精神の現れか……一茶が紙のボタンを作って人々をひっかけた真意のほどはよくわからないが、句集に「紙くずも牡丹顔ぞや葉隠に」とどうやらこのエピソードについて詠んだらしい歌が残されていることを見ると、多分に過熱気味の園芸熱に対する揶揄が込められていたのかもしれない。
 
・東洋の牡丹、西洋の薔薇             草木奇品家雅見より
イメージ 4 西欧人で日本のボタンを最初に見たのは、おそらくケンペル(1690年頃)で、西欧に持ち帰ったのはシーボルト(1844年)である。外国への輸出は、幕末に行われたものの長続きしなかった。中国産のボタンは十八世紀後半には西欧に移植されていたが、向こうの人には、それほど顧みられなかったようだ。美術作品でも、ボタンが描かれた例は少なく、十九世紀中頃『モーゼル男爵』(ハノーバー美術館蔵)の肖像画に半八重の花が見られる程度である。
  西欧でいま一つ人気が得られなかったのは、気象条件の違いが大きい。ボタンは、もともと中国原産の植物で、中国の風土に根づいた花である。温帯モンスーンという気候に適した花で、本当にボタンを好きな人は鑑賞する時間帯にまでこだわるという。朝露を宿したボタンが開くのは、格別な美しさがあると言われ、ボタンを見る時刻が非常に重要である。花は日中満開するものの、午前より開き始め、午前11時頃が最もよい。これは何も私の意見ではなく、宋代第一の詩人とうたわれた蘇東坡の言である。彼は「ボタンを見るのは巳の時(午前11時)がよい。巳より後は花が開きすぎて花の精神が衰えて力なく麗しくない。午の時(正午)より後に見るのは牡丹というものを知らないからだ」とまで断じている。というわけで、ボタン園などの名所で、ボタンを見る時はぜひとも午前中に花の前に立つようにしたい。
     草木錦葉集より
イメージ 5  ところでもし、機会があれば、欧米でボタンの花を見てほしい。欧米でボタンを見ると何か乾いた感じがして、日本で見るボタンのような豊潤な質感はとらえにくい。ボタンは、西欧でも花の美しさは一応認められたものの、中国や日本のように広く流行するところまではいかなかった。また、かの地ではボタンとシャクヤクはいずれもピオニーと呼び、両者を区別しない。西欧の土地、気象条件では、ボタンらしい美しさを再現できなかったのだろう。しかもボタンが咲く初夏の頃は、西欧ではちょうどバラの季節に当たるので、西欧の人々は以前から慣れ親しみ、しかも土地に合っているバラのほうを好んだのだろう。西欧で見るバラは、本当に美しい。青空の下、明るい太陽の光を受けて咲くバラは西欧ならではの花だ。
 なお、誤解があると困るが、西欧の人々はボタンの魅力をまったく理解できなかったというわけではあるまい。彼らはバラの咲く快適な季節が大好きで、その時期に咲く花の代表としてバラが浮上してきたのであろう。花そのものの美しさはもちろんだが、花を楽しむのに適した気象条件というのも重要な要素であることに留意されたい。花の好みが、民族によって大きく異なるのは、その国の風土(気候、地味)が大きな影響を与えているからである。もちろん江戸の園芸も例外ではない。
 
・雪の降る中のボタン
  ボタンは、夏の暑さに弱く、冷涼な気候を好む植物である。また、ボタンは栽培のむずかしい植物で、日当たりのよい、腐食質に富んだ肥沃な場所が適している。家庭では庭の日当たりの良い場所を選んで、植える必要がある。鉢植えも可能ではあるが、その場合の管理は、直接土に植えるよりも大変になることを覚悟しなければならない。
 ボタンは独立したボタン園とする必要があるため、他の植物と組合せて植栽することが比較的少ない。いわゆる日本庭園の植物材料として多用できないので、枯山水では当然であるが、有名な庭園での植栽例はあまり多くない。また、茶花や生花としても個性が強すぎあまり使われていない。このように見てくると、ボタンは古くから日本に存在し、誰もが身近に知っているようでいて、意外と植えられている場所は少なかったのではないか。また、植えられていたとしても、生薬は根の皮を使用するために、根分けした苗には花を咲かせず5年目の秋に根を掘り出し、結局花を見ることはできない。花の咲く期間は意外に短い。おまけにボタンの葉は、葉物を好んだ江戸時代の人々からも格別評価されなかったようで、花に対する人気や評価は高かったものの、いたるところに植えられていたとは言いきれないようだ。
 もっとも、だからと言ってボタンが江戸時代において特筆すべき花であったことに変わりはない。それは、寛永年間(16世紀前半)、フユボタン(別名カンボタン)の出現によるところが大きい。フユボタンは、二季咲の性質を持つボタンで、冬季間にも開花を見ることができる。五月から六月ごろに咲く蕾を取り、八月に葉を摘み取ると、十月ごろに再び蕾を付ける。この蕾を暖かいところに保護すると、初冬から蕾が開く。花は、春咲く花より小形ではあるが、咲いている期間ははるかに長い。ただし、フユボタンは、移植すると2年くらいは早咲きしてしまったり、なかなか栽培の難しい植物ではある。
イメージ 6 冬にボタンを咲かせる技術は、清国から伝えられたかととも推測される。しかし、戸外で、それも雪のなかでボタンを観賞しようとする風流なスタイルは、日本独自の文化だろう。ボタンの原産地は中国西北部で、北京の冬は、東京より平均最低気温が約9℃も低い。たとえ藁による雪囲いをしたとしても、寒い上に乾燥しているため花は咲いていられない。そのため、本家である中国では、室内で楽しむことはあっても、冬にわざわざボタンを観賞しようという風流心が育つはずはなかった。雪の降る中で傘をさして、ボタンを観て一句ひねる、フユボタンは日本の冬に見るのが最もふさわしい日本独自の花である。