江戸の植木屋  その2

江戸の植木屋  その2
                               
・将軍家お気に入りのレジャー
 将軍家の植木屋遊覧といえば、まず思い浮かぶのは八代将軍吉宗のエピソードだが、資料を見る限りでは九代以降の将軍たちの方がむしろ足しげく通っていたようだ。質実剛健を旨とし、鷹狩りや水練をよくした吉宗と違って、彼の子孫たちは体があまり丈夫ではなかった。そのせいもあるだろうが、折りにふれ植木屋を訪ねては、その広い園内を見学し、珍しい木や美しい花を眺めては目の保養をしていた。また、植木屋遊覧は、不自由な生活を強いられている将軍にとって、普段は目にすることのできない江戸の風景や庶民の生活を眺めることができる格好のレジャーだったのだろう。
 吉宗の実子である九代将軍家重は、享保十二年(1727)、大納言であった時代に染井の伊藤家兵衛を訪問。これを皮切りに、駒込花商の園内を見物し、ついで植木屋源右衛門方にも立ち寄った。続く十代家治は、同じ駒込村の植木屋八左衛門や植木屋清五郎、植木屋忠五郎らを歴訪。さらに十一代家斎にいたっては、よほどの園芸マニアだったのか、天明から文政年間にかけて、巣鴨村の植木屋弥三郎、駒込村の植木屋与兵衛、三河島の植木屋伊東七郎兵衛(染井の伊藤家との関連は残念ながら不明)らを十数回にわたって訪問。また自身が見物に行くだけでは飽き足らず、江戸城内に再三植木屋を呼び寄せて、キクの仕立てや、植え付けを命じたりしている。そういえば、寛政年間以降、盛んになった鉢物の高値取引に対して、幕府は度々禁令を出して制していたのに、家斎の治世下ではそれがぱったりと途絶えている。意識して大目に見ていたのかどうかはわからないが、いずれにしてもこの時代の「放任」が、大勢の植木屋の台頭を促し、未曾有の園芸ブームを誕生させたともいえるだろう。
 
・明暗を分けた二つの「伊藤家」
 植物園と見紛うほどの広大な庭園を有して、下は行楽好きの長屋の連中から上は旗本や大名まで幅広い見物客を集めて、一年中大変な賑わいを見せていた江戸の植木屋たち。言うまでもなく時代の先端を行く、人もうらやむ花形稼業ではあったが、やはりその裏には、悲喜こもごもの様々な人間ドラマがあったようだ。例えば、当時林立していた植木屋間の競争は当然激化していった。互いに、他店にはない付加価値を探し、たえず何かアピールできるものはないかと技術・情報を競っていた。そしてそんな気持ちが高じて引き起こしたと思われるのが、享保七年(1722) の「ニセ珍花事件」である。『享保世話』などの記録によると同年四月二十日、染井の花屋十兵衛宅に金色に輝く珍しい花が咲いた。たちまち、花図が売り出され、それが巷に流布し大評判となった。ところがしばらくしてこれがなんと「土あけび」という草の葉をむしりとって作られた、まぎれもないニセ花であることが判明。十兵衛はきつくお叱りを受けたうえ、気の毒なことに閉門を命じられたという。
 また、植木屋の人気にも時流というものがあったらしく、将軍家の遊覧という栄誉を受けたほどの大店でも、その後必ずしも安泰かいえばそうでもなかったようだ。たとえば、一時は「江戸第一」とまでうたわれた染井の伊藤家の行く末だが、栄古盛衰は世の習いとはいえ、一抹の寂しさを感じる結果となった。十八世紀半ばになって、植木を中心とする園芸から( ツツジやカエデで名を馳せた染井の伊藤家はいうまでもなく植木園芸の第一人者である) 、金成樹( カネノナルキ) に代表されるような、鉢植を主流とする園芸が台頭し始めると、さしもの伊藤家の命運も尽きたらしい。柳沢吉保の孫で大和郡山の藩主であった柳沢信鴻は、引退後は駒込の「六義園」( 現在の文京区本駒込) で余生を過ごしていたが、彼が残した「宴遊日記」(安永四年、1780)一月の記述を見ると、「伊兵衛庭を廻り見る、庭中木葉埋み、去々年より又々零落」という一文があり、管理が悪く、せっかくの庭園もこの時期にはかなり荒廃した様子なのがわかる。そして文化年間には、完全に没落してしまった。
 染井の伊藤家に代わって、江戸の数ある植木屋の頂点に立ち、「江戸の三代植木師」ともてはやされて、人気店舗にのしあがったのが、前述の三河島の伊藤七郎兵衛、九段の斎藤彦兵衛、それに向島の荻原平作の三者であった。とりわけ三河島の伊藤家は、将軍家の植木御用だけでなく、人足御用も命じられるなど、一時は大層羽振りがよかったようだ。雇い人の数も職人だけで優に百人を超え、抱える番頭数十人、その他の使用人も数十人という大所帯。屋敷及び庭園も商売柄、当時の最高レベルの材料と技術を結集したもので、その格式は一万石の大名にも負けないと噂されたというから、よほどの豪邸だったのだろう。また、天保から弘化年間にかけて、巣鴨の植木屋保坂四郎左衛門の発展ぶりにもめざましいものがある。幕府の京都御所への菊苗進献の使者に命じられたり、江戸城西の丸の造菊や吹上御所での菊御用など、キクに関する限り御用商人の栄誉をほしいままにしていた。
 
・職域を広げる植木屋たち
   東都歳時記より
イメージ 1 江戸近郊にある植木屋は、四季折々の花をより美しく見せるために、土地の高低差を作ったり、趣のある東屋を設けたり、意匠を凝らした鉢や壺を並べたり・・とそれぞれ演出に余念がなかった。また中には、寺島村の植木屋甚平のように、菊花壇や名木奇石の蒐集のみならず、「菊のやと號して、會席料理屋を渡世とす、風流なる献立にて、日々客來りてはんじやうす、石燈籠の名所也」(墨水遊覧誌)というように、庭園と洒落た料理の二本立で客を集める店が登場するまでになった。したがって、花の季節には江戸で暮らす人々にとって、日帰りで色々な楽しみ方のできる恰好の行楽地となった。当時の地誌やガイドブック様の書物には花の見ごろの時期とともに、江戸近郊の植木屋がたくさん紹介されている。
 例えば文政七年(1824)に刊行された、著名な本草学者・岩崎常正の手による『武江産物誌』にはサクラソウレンゲソウの花の名所として、上駒込村染井ノ植木屋、ツツジ・キリシマの項では同じく染井の植木屋、さらにセキチクでは本所の植木屋、そしてキクでは染井の植木屋と並んで、菊人形で江戸はおろか日本中に名を広めた巣鴨の植木屋の名が挙がっている。
 十九世紀に入ると勢いづいた植木屋たちは、単に花木の手入れを怠りなくして、客の訪れを待つというのではなく、一帯の植木屋が協力体制を敷いたうえで、巷の評判となるような菊人形に代表されるさまざまな呼び物を手がけ始めた。また、花合わせを開催したり、番付を発行するなど、自らの手で企画宣伝をおこなうほどの商売上手になっていった。現存する「染井植木屋菊細工案内」を見ると、その年に登場した菊細工のイラストとともに「根岸の○○」、「染井の××」というように植木屋の名前が列挙されており、いまでいうところの「カリスマ植木屋」が何人も存在していたことをうかがわせる。例年のように、当たる企画をひねり出す人気の高い植木屋は、単に優れた職人というだけでなく、園芸プロデューサー的役割をも果していたのだろう。
 その代表者として、佐原鞠塢がいる。鞠塢は樹斎(花屋・花戸・花園)と呼ばれる、れっきとした植木屋であり、作庭センスがあって当然であった。新梅屋敷(現在の向島百花園)経営にしても、ウメという移植の容易な木を使い、既存の雑草を最大限利用して短期間(樹木による造園では少なくとも3~5年の年月が必要)で観賞に絶える草花園にしている。そして、アイディアだけで百花園を思いついたのではなく、植木屋としての技術的な裏付けをもとに作り上げたのである。彼が商才に長けていただけでなく、文学などにも素養のあったことは、文化元年(1804)に『成音集』を刊行、また『都鳥考』『群芳暦』等の版元になっていることからもわかる。さらに植木屋として、文政初年、本郷の阿部備後の守下屋敷庭園に滝口や流れを造っている。また、文化十三年には京都にまで出むいて、尾形光琳墓所を修復している。どこで学んだかわからないが、造園についても一角の技術を身につけていたらしい。
 
・ブームを支えた底辺の人々
新選江戸名所より
イメージ 2 このように植木生産などを手広くおこなう大手の植木屋は「花園樹斉」と呼ばれ、卸と小売りの両方を兼ねていた。一方、そうした大店から庭木や鉢植えを仕入れて、家々に植えていた庭師や植木を担いで売り歩いた振売(行商)、社寺など人の多い場所で売る縁日商香具師)らがいた。江戸時代はしがない長屋の住民までもが、ガーデニングブームの一角を担っていたが、その橋渡しをしていたのが路地裏に売り声を響かせた振売であり、祭りや開帳など人の集まる場所には必ず出ていた縁日商香具師)であった。こうした江戸の園芸事情について、イタリアの通商使節アルミニヨンは「日本人は花が大好きで、江戸近辺の植木屋たちは冬でも花を栽培し、大量に供給している。花屋は街中を売り歩き、貧しい人々の住む地域でも確実に買い手を見つけることができる」(『イタリア使節の幕末見聞記』大久保昭男訳)と書き残している。
 零細な植木売りについては、『御府内備考』(宝暦七年から文政十一年までの善行表彰者一三五件を記載した書物)にも何人か紹介されている。
   風俗東之錦より
イメージ 3 一人は草花売の「ひさ」という女性。、相模国の百姓の娘で、十八才の時に江戸に奉公に出て後結婚した。が、夫は病気になり、暮らしが立たないので、二九才の時から幼い娘を背負って、午前中は草花を売り歩いた。それだけでは収入が足りず、午後は焼豆腐と油揚の行商。八ツ半(午後三時)には家に戻り、それから四谷大木戸辺まで翌日売る草花を仕入れに行き、七ツ半(午後五時)には再び家に戻って明日の準備、夜は夜で夫の看病しながら賃仕事に精を出すという実に健気な生活ぶりであった。
 もう一人は、幼いながら一家を背負って立った「金之助」という少年の話。十三才の時に印判職人の父が病にかかり、祖母の看病もしながら、鉢植えの草花を売り歩いて、一家四人の生活を支えていた。六ツ(午前六時)前に起きて、食事を作り、その後、芝の問屋から水菓子を仕入れて売り歩き、夜も天気が良ければ飯倉三丁目の四辻に草花などを並べて商ったという。
 「売れぬ日は萎れて帰る朝顔屋」という狂歌からもうかがえるように、当時の江戸の町には一日中売り歩いても、食べていくのがやっと、というような極めて零細な植木売りが大勢存在していた。一方庶民の側からみれば、安価な鉢植えは日常にちょっとした変化をつけるのにもってこいであった。大店は敷居が高かっただろうし、当然金も時間もかかる。確かに当時の江戸には、商品力と情報量を誇る植木屋がたくさんあったが、庶民にとっては季節の草花をいち早く届けてくれる振売や縁日商は、便利な存在だったに違いない。江戸時代は学者にも負けぬくらいの情報と技量を備えた立派な植木屋が、活躍していたのは確かだが、と同時に、庶民と植木の橋渡しをしていた大勢の「ひさ」や「金之助」がいたことも事実だ。そして、そうした末端で働く人々こそが、未曾有の江戸のガーデニングブームを支えていたといえる。