江戸時代のハーブ
日本列島でハーブが食用された歴史を探ると、はるか縄文時代にまで遡る。近年になって、縄文時代は食料の確保に明け暮れていたという貧しいイメージが覆されている。狩猟中心ではなく、植物の栽培や動物の飼育も手がけ、食材は意外に恵まれていたことがわかった。なかでも注目するのは、和風ハーブとされているシソの食用である。


ところが、外来ハーブが最も多く入ってきた江戸時代は、縄文時代とは違い必ずしも食用としてあまり栽培されなかった。珍しい植物として愛玩されるか、薬用にされる程度であった。そこで江戸時代に渡来したハーブの行方を探ってみよう。 以下の図は和製ハーブ

元禄年間(1688~1703)、オランダゼリ(和蘭芹)とも呼ばれるパセリが渡来。オニオン(玉葱)は寛延年間(1736~1750)、長崎に入るが、観賞用にとどまり、本格的に栽培が始まるのは明治時代以降である。


平賀源内の記した『物類品隲』(1763年)には、泊夫藍(サフラン)、迷迭香(ローズマリー)、胆八香(ポルトガルノ油。オリーブオイル)、紅毛ちしゃ(エンダイブ)が薬品会に出品したとある。これらの記述から、ともすると生きた植物が渡来していたと思われがちであるが、乾燥させた標本のような場合もあり、実態はつかみにくい。また、ビールに不可欠なホップは、享和年間(1801~1803)に渡来している。なお、ビールは慶長18年(1613)に持ち込まれている。日本で最初にビールを作ったのは文化9年(1812)頃、長崎出島のオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフとされている。ただし、この時のビールはまさに麦酒で、肝心のホップが入っていなかったという。ハーブを加工した薬や知識が先に入り、生きた植物はかなり後になるケースが多いようだ。

それにしても、素敵なハーブが数多く渡来しているのに、なぜ日本で食用化されなかったのだろう。その理由は、ハーブに相性の良い乳製品や肉を日本人があまり食べなかったこと。また、在来の食べ物が豊富で、特に野菜は種類が多い(百種以上)上に美味く、安価であったためと言われている。
また、『広益地錦抄』(伊藤伊兵衛平政武・1719年)にも載っているウイキョウ(フェンネル)は、平安時代に渡来しているが和製ハーブとは呼ばない。その理由は、江戸時代は、食べ物の保存が重要で、食文化は漬物、発酵食品が主流であった。そこで、漬物類となったハーブを和製ハーブと呼ぶようになったのではないかと私は考えている。
以上の文は、The Herbs 2009MARCH に掲載したものです。