信長・秀吉に始まる江戸のガーデニング 2

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イメージ 3 信長亡きあと茶会を牛耳ったのは秀吉である。その秀吉のガーデニング好きは、つとに有名。秀吉は、花への関心も一方ならぬものがあり、珍しい花、美しい花などが数多く献上されている。現存するものとして、京都の地蔵院にある、加藤清正が朝鮮から持ち帰り、秀吉に献じたという五色八重散りツバキ(http://tabitano.main.jp/7jizoin.html)や大徳寺総見院に残る太閤遺愛と伝えられるワビスケツバキ(http://www.city.kyoto.jp/bunshi/bunkazai/siteisyasinn/tennnennsetumei.html)の古木がある。なお、ワビスケという花の名は、木を運んだ侘助という者の名から付けられたとの話がある。イメージ 4
 秀吉といえば、吉野花見、醍醐花見と花見、花見の宴の形を完成させた人物である。吉野では作り髯、書き眉毛でいう出で立ちで、徳川家康宇喜多秀家前田利家伊達政宗をはじめ、茶人や連歌師などを引き連れ五千人もの宴を繰り広げた(http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=43081)。醍醐では、秀頼、北政所、淀の君など近親者を初めとして、諸大名ら約千三百名による盛大な花見の宴を催した。醍醐の宴は、秀頼などをもてなす豪華なイベントが用意されていて、これに優る花見は、過去将来にわたってないといえるものであった。そして何よりも花見の雰囲気を支えたのがその日の天気。吉野では前日まで大雨が続き、醍醐も前々日が雨、前日も今にも降りそうであったのが、当日は太閤秀吉ならではの日和になったという。
イメージ 1 秀吉の花の好みは明快で、現代人にも通じる感覚を持っていたように感じる。そのような花として、サクラの他にアサガオがあげられる。アサガオについての話は、実話とは思えない節もあるが紹介したい。秀吉と利休のアサガオの話は、単に秀吉の花好きの話にとどまらず、利休との対立をも暗示する。ことの初めは、利休の露地に植えてあったアサガオが見事に咲き、評判になり、秀吉の耳にはいった。となれば、是が非でも見ようとする秀吉は、見物を申し入れ、利休宅に押しかけた。アサガオと言えば、早朝に咲くもの、早起きをするなどかなりの気を入れて出かけたものと思われる。
 ところが、露地の垣根には、肝心のアサガオが一輪も咲いていなかった。利休が前の晩に、一つ残らず蕾を摘んでしまっていたのだ。これには、期待してた秀吉も唖然とし、怒りをあらわにしていたであろう。ところが、案内された茶室の戸を開けると、秀吉は目を見張った。陰鬱な床に、アサガオが一輪、みずみずしく咲いていた。花は、その場を制圧し、戸外で満艦飾に咲くより見事であった。さすがの秀吉も、何も言えないほどの衝撃と圧力を感じたようだとある。
 この茶花の扱いは、利休流の「庭前の花不入」という原則から生じたものとの解釈がある。この原則は、小堀遠州などに受け継がれ、露地には花の咲く木をあまり植えないようになっていたとされている。利休の趣向を一方的に受け入れなければならなかった秀吉、その場は納まったであろうが、禍根を残したことは間違いない。後年、利休は、秀吉の勘気に触れ、流刑、さらには切腹となった。
 なお、利休も庭造りや園芸に長けており、秀吉の聚楽第の築庭にも関わっている。利休の功績は、茶室と露地の構成を理論化し、具体的な形で完成させたと言ってもよいだろう。利休のガーデニングは、茶の湯から派生したものであろうが、その力量は計り知れない。前述のアサガオについても、生け花とするには難しい、利休は水切りや蔓の処理など植物の生理的な性質まで熟知していた。
 さて次は秀吉の庭づくり。当時の武将にとって庭造りは、城郭造りの延長線上にあるもので、計画や設計する能力を持っていなければならなかった。足軽から登りつめた秀吉は、築城の工事現場から計画まで関わり、出世するにしたがっていくつもの城を築いる。そのため、石の据えつけ、給排水、堀りや櫓の配置、景観構成など、庭造りの能力があって当然である。
イメージ 2 秀吉は、聚落第に州浜の池、伏見城大坂城に秀吉好みの林泉、北の政所の園地など、庭造りに新風を吹き込むような試みもある。しかし、秀吉の庭造りは、あまりにも有名な醍醐の花見に隠れて知られていない。「醍醐の花見」に先立って、寺の馬場より槍山までに六百本ものサクラを移植させる植栽工事も注目されていない。現代でも同じような移植が出来るであろうか、たぶん秀吉を満足させるサクラの花を咲かせることは出来ないであろう。どのような方法で工事を行ったか、是非とも知りたいものである。
 醍醐寺三宝院(http://www.kyoto-ga.jp/kyononiwa/2009/09/teien006.html)の庭の改造は、秀吉自ら着手するもので、彼のガーデニング好きを証明するものである。醍醐寺三宝院(当時は金剛輪院)の庭は、座主義援准后によれば、秀吉が自ら縄張り(現代の設計に該当)をして改造したと記録している。慶長三年(1598)二月、義援准后日記(三宝院住職)には、「庭園を築造すべく、自ら縄張りを行う、池を堀り、中島を設け、島に檜皮葺の護摩堂を一宇を作り、橋をかけ、滝二筋を落す計画を示す」という記述が残っている。「縄張り」とは、今の言葉で言えば設計である。秀吉の頭の中には、すでに三宝院庭園の完成イメージが描かれていたのだろう。
 この三宝院の庭造りは、池泉の南岸に由緒ある藤戸石を据えたことから、秀吉にとってはなみなみならぬ思いがあったことがわかる。現在でも見ることのできる三宝院の滝組近くの主護石(藤戸石とも千石石とも呼ばれる)は、信長が二条御所の庭園に立て、秀吉が聚落第に移したものである。
 藤戸石の由来(http://www.harusan1925.net/0617.html)は、『平家物語』まで遡る。藤戸合戦(1184年)の先陣を切った佐々木盛綱は、藤戸(現在の岡山県倉敷市藤戸町)で案内の漁師を、この石の上で殺したと言われている。その石は、足利義政室町幕府第八代将軍)によって銀閣寺(当時は東山殿)に運ばれた。そして、細川氏綱室町幕府最後の管領)が自邸の庭に移したものを、前述のように織田信長によって室町幕府第十五代将軍義昭のために築いた二条御所へ晴れやかに運んだものである。
 三月十五日に「秀吉、秀頼、北政所以下をしたがえ盛大な醍醐花見を行う」。その日も庭の進捗状況を気にしていたものと思われる。その後四月十二日、秀吉は「指導のため来臨する」とあるように、自分の意にあっているか見極め、再度の指導を行った。そして五月には庭は、一通りの完成した。なお、三宝院の庭は、その後も義援准后の監修のもとに何度となく改造され、今日のような庭になっている。
 そして最後に、秀吉と庭園の関わりから興味ぶかい記録を紹介したい。秀吉はあちこちの庭を愛でており、天正十六年二月「竜安寺付近に狩を行い、秀吉は竜安寺の方丈庭側の未開の糸桜を見、句会を催す」とあるように、方丈庭を見ている。竜安寺の方丈庭(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%AE%89%E5%AF%BA)は「虎の子渡しの庭」とも言われる有名な石庭である。だが、この句会において、秀吉はもちろん誰も石庭や石組について誰もふれていないのである。もし当時からあの石組が存在していたとすれば、石や庭に関心のある秀吉が何故触れなかったのか不思議である。