七草

七草
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 七草と言えば「春」と「秋」があることくらいは、中学生でも知っているが、各々どんな花で構成されているか、春と秋計14種、すべて覚えている人はそれほど多くないと思う。というのも、七草と呼ぶ草の名が植物図鑑にある名称と異なるものもあり、自信を持っては言えない。
 特に春は、一見地味な草花ばかりで映像がイメージしにくい分、覚えにくいのかもしれない。
 そのため、というわけではないだろうが、五七五のリズムでちゃんと歌になっている。春の「せり、なずな、ごぎょうハハコグサ)、はこべら(ハコベ)、ほとけのざタビラコ)、すずな(カブ)、すずしろ(ダイコン)、春の(これぞ)七草」、秋の「はぎの花、尾花、くず花、なでしこの花、おみなえし、またふじばかま、あさがおの花」(この場合「あさがお」はききょうを指したものだろうというのが、定説である)前者については、時代、地域によって様々な草が七草として数えられていたが、鎌倉時代の『河海抄』に前出の7種があげられている。したがって、その頃からこの組み合わせが定着していったと思われる。また、後者は万葉集山上憶良が詠んだものと言われている。そうしてみると、日本人と七草のつき合いもそうとう古い。
 ところで、春は“食べる七草”秋は“見る七草”という言い方がある。
 正月の七日に食べると、一年の邪気を払い、万病を防ぐ効果があるといわれている七草粥。古くから七草を食べる風習はあったが、粥にして食べるようになったのは室町以降らしい。いまではスーパーなどで小量ずつパック詰めしたものが「七草粥セット」と称して売られているが、昔はもちろん、母と子、また祖父母と孫がつれだって近所の土手かどこかで、摘みとってきて自分の家でつくっていたようだ。子供の頃はぐちゃぐちゃになった雑草のようなものが入っているだけで格別おいしいとも思わなかった。が、最近改めて食べてみると周辺で採集することがむずかしくなっているせいもあってか、何となく御利益があるような気がしてくるからふしぎだ。
 そういえば、以前正月にテレビを見ていて、地方の旧家でもあろうか、祖父と2人の孫が、近所で七草を調達し、七日の朝に家族でそれを食べるという様子が目に入った。祖父が七草を板の上でたたく「七草なずな、唐土の鳥が日本の土地に渡らぬうちに、あわせてバタバタ」と幼い男の子2人が、トントンという音にあわせて歌っている様子が印象に残った。初めて耳にする歌。気になったので後で調べたところ、小正月に豊作を祈って行う鳥追いの歌の転用とされるが、意味は未詳とのこと。「唐土の鳥」の意味は何だったのか。何かの比喩なのか、それとも単に語呂の良さだけで意味はないのか。地方によって歌が変化するのかなどなど、七草粥一つにも興味の種は尽きない。
 また、「七草爪」と言って、七草のつゆでしめしてから爪を切ると爪の病気にかからないという言い伝えもあった。事実、江戸のおわりまで将軍家の御台所が正月の七日に、この「七草爪」を行っていたという記録がある。衛生事情が良くなって、「ひょう疽」のような病気が珍しくなった現代では「七草爪」はあまりピンとこないが、昔は欠かすことのできない大切な行事であった。
 七草粥を食べる一月七日を中国の古事にならって、「人日」として五節句の一つに定めたのは、江戸幕府であるが、この日に七草粥を食べて無病息災を祈願するという風習は、それより以前から行われていた。
 『枕草子』に正月七日の若菜に関する記述がある他、万葉の時代から日本では若菜摘みは、この日に限らず、春先の楽しい行事の一つとして、広く定着していたようだ。雄略天皇天智天皇など身分の高い人の歌にも若菜摘みを詠んだ歌があるくらいだ。
 七草の種類については古来より諸説がある。室町時代の書物によると、「セリ、ナズナゴギョウハコベラホトケノザスズナスズシロ」と「セリ、ナズナゴギョウホトケノザタビラコ(カワラケ菜)、ミミナシ、アシナ」の2通りが出てくる。
 もともと七草の七は実数を表すものではなく、「ナナ」が菜に通じるところから、多くの菜を示している、とも言われている。
 江戸時代には、前者がすでに主流になっていたのだろうか。それとも、依然としていくつかの説があり、その中から、鞠塢が選択したのか、いずれにしても、鞠塢が売り出した七草が、今もそのまま春の七草となり、七草粥の菜として使われているのは確かである。
 
見る七草(秋の七草)
 対するに“見る七草”の方はさすがに色、形もそれぞれの個性があって日本人の琴線に触れる、やさしげな美しさを持っている。どの花も各々に良さがあるが、古代にあって人気があったのはハギの花のようだ。万葉集にはハギの花を詠んだ歌は141首とダントツ。次点のウメ、118首をひきはなして断然優位に立っているが、ウメが中国から渡ってきた当時としては、モダンな高級イメージの花だったのにひきかえ、ハギは日本の野原に古くから見られる野草で、姿形も目立たない。
 万葉集の選歌で、ハギがもっとも多く詠まれているのは意外な気もしたが、考えてみれば、荒地のような所でも場所を選ばず葉を茂らせ、花を咲かせるたくましさ、根強い生命力に多くの無名の人々がそこに自らの姿を見い出し、共感を覚えたのかもしれない。 また、当初は“芽”“芽子”という字を使っていたハギがやがて草カンムリの下に秋の字を入れて“萩”という字を与えれたことからも、ハギこそが秋を代表するにふさわしい草花だという当時の人々の率直な気持ちが感じとれる。
俳諧季寄図考より
イメージ 1 このように人気のある植物なので、ハギは古来からの様々な美術、工芸品のモチーフとして使われている。近世の作品では京都・高台院(北の政所が亡夫秀吉のために創建した寺)所蔵の『秋草蒔絵歌書箪笥』。黒々とした漆地の上に金色のハギ、キク、ススキが見事に浮かびあがっているもので、秀吉の遺品と伝えられている。また江戸時代の作品では酒井抱一の手による『秋草図屏風』(江戸後期、東京・日枝神社所蔵)。ハギはないようだが、くず、すすき、ききょう、おみなえしなどの秋草が満月の下、咲き乱れる様が描かれている。
 秋草のシンプルな美しさは、江戸っ子好みでもあったらしいが、それまでどちらかといえば地味な存在だったこうした草花に光をあて、人々の目をひくことに成功した人物は、他の項でもたびたび登場する、江戸の風流人佐原鞠塢(元日本橋の骨董屋主人、佐原平八)である。彼は梅屋敷が評判をとっただけでは満足しなかった。
 わずか一町歩ほどの土地を草庭として売り出そうとし、そのいわば、ありふれた雑草園の中のアクセントとして彼が考えをめぐらして選んだのが、春秋の七草であった。イメージ 2                                                         俳諧季寄図考より
 彼はまた、『春の七草考』『秋の七草考』という自著をものし、自園のパンフレットとして好事家に配ったりもしている。外見は他の雑草と大した違いはなくとも、「あの詩経に出てくる・・・」「あの万葉集にも詠まれた・・・」草となれば話は違ってくる。町民文化が栄え、長屋の住人といえども、下手な発句の一つもひねらなければ、バカにされて人づきあいにも障りが出るというご時世、ちゃんと読んだことはなくとも、文学作品と縁の深い七草は、そのへんの雑草とは一味も二味も違う由緒ある草花として、人気を呼んだ。そして、百花園の強力な売物に成長していった。骨董屋の頃からつきあいがあったそうそうたる江戸の風流人たちも、ブレーンとなってまるで自分の庭のように作庭のアイデアをひねり出し、文化年間の末頃には、「四時花絶えることなく、人一日として来らざるはなき」というほどの盛況となったが、鞠塢の着想の良さには脱帽するしかない。
 
女房の衣装比べ
 ところで、秋の七草といえば、山野にひっそりと咲く花のイメージだが、以下は七草にまつわるちょっと豪奢なエピソード。草木奇品家雅見より
イメージ 3 元禄時代、江戸は日本橋小舟町に、石川屋六兵衛という富裕な商人がいた。同じように羽振りの良い商家から嫁いできた石川屋の女房は、衣装道楽でならしたが、江戸には競う相手もいないと、京都の那波屋十右衛門の女房に衣装比べを申し込む。東山で行われた衣装比べの当日、石川屋の女房のいでたちは黒っぽい地味な着物。一方、那波屋の女房は緋繻子に、洛中の名勝を金糸で縫い取りした派手な小袖姿。人々は皆、那波屋の女房の勝ちかと思ったが、近づいてきた石川屋の女房を見て一同、目を見張った。それは、黒羽二重の南天の模様であったが、赤い実のすべてが、一級の紅さんごを縫いつけたものだったので、その豪華さに圧倒されたという。
 石川屋の女房は季節に応じて趣向を凝らした装いで常に人の目をひいていたが、ある時などは、七人の女中に「萩」の小袖に始まって、「桔梗」までの「秋の七草」の小袖を着せた。そして、きわめつきとして、自分は赤トンボの振りそで姿でまん中に立つという凝ったものだった。一人だけでも十分派手だが秋の七草のバックを従えることによって、ボーカルをつとめる石六の女房はより美しく目立ったことだろう。南天模様の黒羽二重といい、七草揃えの小袖といい、なかなか憎い演出である。
 しかし、栄華を極めた暮らしぶりに幕が降りる時がきた。綱吉が、まだ将軍になったばかりの頃、寛永寺参詣の途中、上野山下あたりを通りかかると名香の香りが吹き寄せてくる。もちろん将軍がそこを通るのを知った上での、これ見よがしの行為であった。見ればとある家の中で、金屏風の前で着飾った数人の侍女に香をたかせて、扇であおがせている派手な女がいる。早速調べさせるとこれが有名な石川屋の女房。結局、彼女は分不相応な暮らしぶりが将軍の怒りを買い、夫婦共々欠所の上、追放となってしまった。
 『江戸真砂六十帳』などに記述が見られるこの事件、本によっては、「将軍相手の伊達くらべ」「江戸町人のイキの表われ」などと持ち上げられたりしているが、果してそうなのか?おとがめ覚悟で挑んだ将軍相手の大一番というより、見栄とおごりで判断力の鈍った愚かしい女という方が近いのではないか。まあ、しかし、一時期にせよ、広いお江戸で名を馳せ、ぜいたく三昧の暮らしを味わえたのだから、貧しい庶民から見れば存外の幸福には違いない。