江戸のサクラとお花見  その3

江戸のサクラとお花見  その3
日本人の好みのサクラ
イメージ 1  日本の花といえばサクラといわれるほど、日本人に愛されてきた。日本人ほどサクラを好きな国民も少ないであろう。むろん外国にもサクラはある。原種である野性のサクラは、中国が最も多いのではといわれ、ヤマザクラオオシマザクラに似たサクラもあるが、花の美しさでは日本のものに及ばないようだ。
 イメージ 2 欧米にもサクラに属する種類はあるが、少ないだけでなく、チェリー(セイヨウミザクラ=サクランボ)やウワミズザクラ類が含まれていて見栄えのするサクラは少ない。したがって、日本では美しいサクラに接する機会が多かったため、外国よりもサクラを好む人が多くなったと考えることもできる。なお、美しさで言うなら、ヒマラヤザクラ(このサクラは成育地であるヒマラヤの気候に合せて秋に咲く)は日本のサクラに劣らないと言われている。
  イメージ 3近年、日本のサクラは外国でも栽培されていて、日本で咲く花より美しいとの評価もある。ただし、欧米で見るサクラは、八重ザクラが多く、一重のソメイヨシノが咲いている場面を見ることは少ない。彼らの好みは、花が咲いている期間が長く、豪華な花を咲かせるサクラである。そのため、遠くから見たり、ソメイヨシノを見なれている人には、その木がサクラであることに気がつかないこともある。中国ではサクラよりカイドウが好まれ、欧米ではセイヨウサンザシ(メイフラワーが好まれる)に人気があるが、いずれもバラ科の植物でサクラと同じ時期に咲いている。
 こうしてみると、サクラ、それも一重のサクラを好む国民は、どうも日本人くらいのようだ。花見においても、満開時が美しいのは言うまでもないが、日本人は必ずしも満開だけを見たがるのではなく、五分、八分、そして、散っていく様子にも心を動かす。特に花びらが雪のように舞う情景は、日本の気象、風土をぬきにしては理解できないであろう。ただし、その情景を美しいと感じるか否かは別問題である。落花の美しさは、花のはかなさや無常観や限りのない感慨を感じさせるのであろう。
 そして、夜桜を鑑賞する美意識。日が暮れないと開かない夕顔や月見草、これらの花を見るのであれば、当然のことであろうが。なぜ、日中咲いている花を、あえて月明かりの下で見るのであろう。さらには、かがり火や雪洞のかげで、花の美しさを浮き立たせる。そんなことまでして花見をする。バラが美しいといっても、わざわざライトアップして見せているという話は、聞いたことがない。サクラの魅力は、奥深く、日本人でなければわからないものがあるようだ。
 「花見」という言葉は、日本独特の表現であり、外国語にはない。花ふぶき、花宴なども日本のサクラの観賞形態から生まれた言葉である。ここで注目したいのは、ウメは咲き初めに関心が集まるのに対し、サクラは散る時期により関心がもたれることだ。これは、春の到来と関係がある。サクラが散りはじめる頃は、ヤマザクラより早く咲くヒガンザクラでも気温は15℃以上となり、夜間でも外で過ごせる日がある。この頃になると、冬の寒さと別れをつげ、身も心もなごむが、あの解放感は日本の気象現象ならではの体感であろう。
 日本人には春が好きな人が多いというが、春という良い季節に咲く花の中でも、最も美しいのがサクラである。日本人がサクラを好む理由の一つは、サクラが咲く頃が、春の到来を告げる、日本の四季の中でももっとも良い季節にあたるからであろう。夜も以前より薄明るくなり、何とはなしに戸外をそぞろ歩いてみたくなる。そんな春先の心地良い解放感が好きなのだ。しかも、暖房設備が十分でなかった江戸時代の人々は、現代の我々よりサクラの咲く季節を心待ちにしていたに違いない。
 
変わるサクラの好み
   イメージ 4日本人のサクラの好みが、徐々に変化をしている。新しい品種の出現が変化を生み出している、と言えるが、実は、好みの変化が品種を生み出しているとも考えられる。
 今我々の見ているサクラと、江戸の庶民の見たサクラは同じ種類のサクラではない。現代のサクラは、ソメイヨシノという品種が大半を占めている。ソメイヨシノは、江戸時代の末頃、江戸の染井で生まれたらしい。自然種間交雑種か人工交配種かは不明であるが、エドヒガン(エドヒガンの園芸品種コマツオトメ)とオオシマザクラの交配によるものらしい。安政五年(1858年)、上野寛永寺の苑内に咲きかけたソメイヨシノが植えられた。植えたのは、寛永寺御用達の桜香園の河島権兵衛。ようやく見事な花をつけるように生育したが、その後も活着して花を開くか心配された。
 花は、ヤマザクラとは異なり、芽吹きより先に花が開き、枝ごとに段々と群れ咲いた。また、ヒガンザクラに似ているが、花びらはやや大きく、淡いピンクの一重咲きであった。この新種のサクラは、たちまち江戸に知れわたり、人気となった。なお、最初に植えられた上野寛永寺ソメイヨシノは、十年後の慶応四年五月、彰義隊とともに消えてしまった。
 さて、このサクラの創始者が誰であるか、河合権兵衛や伊藤伊兵衛の名をあげるが、よく分からないという。江戸時代には、このサクラを吉野と呼んでいたらしい。そのため、吉野のヤマザクラと混同されるのを避けるため、明治五年、ソメイヨシノ命名されたという。以後、ソメイヨシノは銀座の並木として植えられるなど、東京市内のあちこちに植えられた。
 ソメイヨシノの流行は、花が美しいことは現代の我々は誰もが認めるが、江戸中期、天明・寛政年間(十八世紀末)ころであればどうだろうか。
 「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」、これはその頃歌われた、本居宣長の歌である。この歌は、ヤマザクラが日本人の国民性に合致したということであろう。さらにこの歌は、その後の日本でのヤマザクラの地位を決定的なものにしたと言われている。 
   イメージ 5もし、ソメイヨシノが出現しても、圧倒的な人気は得られなかったと思われる。当時の人は、艶やかな桜の花は、敬遠する傾向があった。サクラにちなんだ言葉として、「姥桜」という言葉がある。広辞苑で引くと、「葉(歯)なしの桜の意からという」とあって、①葉より先立って花を開く桜の通俗的総称。ヒガンザクラ・ウバヒガンなど。②娘盛りを過ぎてもなお美しさが残っている年増。また、現代実用辞典には、艶やかな中年婦人。なお、「艶やか」とは、「美しくなまめかしいさま」とある。サクラの花は、あまりにも美しすぎてはならない。というような、認識が浸透していたのではなかろうか。
 美しすぎてはならないという、一見矛盾したような感覚、これがサクラ特有の美意識ではなかろうか。それは、花期についても言える。サクラは、パッと咲いて、パッと散る。それが美しいと言いながら、すぐに散らないでほしいと望む。一見矛盾したようなところが、日本人ならではの美意識であろう。これは、理屈では説明できないものである。八重桜の人気がなかったのは、咲き方がサクラらしくない、そのためではなかろうか。
  ところが最近では、八重桜の人気が高くなっている。西欧人の感覚と同じように、美しい花は長く咲いていてほしい、という気持をストレートに表すようになってきた。なまめかしいくらいセクシーな花を好む、そんな気持ちの変化をとらえ始めたのが、ソメイヨシノなのであろう。
  イメージ 6それにしても、日本人の花見の歴史は古く、万葉の時代にまでさかのぼる。宮中で、観桜が始まったのは、嵯峨天皇の御世、弘仁3年2月13日(グレゴリオ暦 812年4月1日)のことらしい、『日本後記』に「花宴ノ節此ニ始レリ」と書かれている。そうだとすると、公式の観桜は、千年以上も前から開かれていたことになる。日本人は昔からサクラの開花に、ひとかたならぬ関心を持っているらしく、この桜花宴が何月何日に行われたかを記し続けている。
 ということは、花見は千年以上続いていることになる。桜の花を千年以上楽しむ民族があるであろうか。幕末に訪れた、イギリスの園芸学者ロバート・フォーチュンは、上流階級だけでなく下層階級まで花を愛する民族は、日本人だけと述べている。これだけ花の好きな日本人、特に桜の花見は、これからも続くことは間違いない。そして、江戸にはサクラの名所が数多くつくられ、幾度にもわたって苗木の補植が行われた。その陰には、サクラを愛してやまない大勢の人が存在したことも忘れてはならないだろう。
 
花見とサクラに関する事象
  年  次        内容事象等
╶────────────────────────────────────────────╴ 元和年間        ○浅草寺に原太郎右衛門が桜を植える
1636年  寛永13年 ○上野寛永寺で観桜が行われる
1668年  寛文8年  ○武家・町人の間で、観桜が盛んになる
延宝年間        ○上野清水観音堂(寛永寺境内)裏側の紅種彼岸桜「秋色桜」が有名に
1702年  元禄15年 ○江戸城三の丸で花見の宴
1707年  宝永4年 ○『櫻譜』(那波活所)サクラ十五品の彩色図譜
正徳年間          ○俳人園女、富賀岡山内へ桜を三十六株植え、歌仙桜と称される        
1717年 享保2年 ○隅田川の木母寺前から寺島村上り場に至る堤にサクラが植えられる
1717年 享保2年 ○品川御殿山にサクラが植えられ、遊覧の地となる
1720年 享保5年 ○吉宗の命により、飛鳥山に初めて桜の苗木が植えられる
1732年 享保17年 ○上野寛永寺・大久保七面社の桜に遊覧者多し
1733年 享保18年 ○飛鳥山に、花見客のため十軒の水茶屋設置が許可
1733年 享保18年 ○浅草寺開帳、奥山に千本桜を植えられる
享保年間       ○向島長命寺門前に桜餅の山本屋開店
1737年 元文2年 ○吉宗が飛鳥山を金輪寺に寄付し、桜等を植える
                            (数年後自ラ花見ニ出向キ、以来花見ノ名所トナル)
                    ○玉川上水の小金井橋付近に桜を植える
1738年 元文3年 ○飛鳥山に54軒の水茶屋が許可
1741年 寛保1年 ○吉原仲之町で季節ごとに梅や桜の植替える、夜桜の初め
1757年 宝暦7年 ○『櫻品』(松岡玄達怒庵)サクラ六十九品の図説
明和年間       ○長命寺門前の桜餅流行る
安永年間       ○『櫻花帖』(三熊花顔)サクラ三十六品の彩色画帖
1793年 寛政5年 ○浅草奥山に、再度桜が植えられる
1797年 寛政9年 ○『櫻花藪』(三熊露香)サクラ三十五品の彩色画帖
1801年 享和1年 ○この頃から小金井村の桜見物ふえる
1803年 享和3年 ○『花譜』(市橋長昭)サクラ三十四品の彩色画帖
享和年間       ○近江仁正寺藩五ノ橋邸内に百余種の桜が植えられる
1812年 文化9年 ○葛西木下川浄光寺裏門通りに桜が多く植えられる
1814年 文化11年 ○深草砂村元八幡宮より手前に八重桜植え、毎春遊覧多し
1816年 文化13年 ○花見の船中で喧嘩、両国橋上で大乱闘
1824年 文政7年 ○品川御殿山の桜600本櫨60本
1831年 天保2年 ○隅田村名主坂田三七郎が隅田堤に桜を植える
1840年 天保11年 ○雑司ヶ谷感応寺境内に田安家が千本桜を奉納する
1848年 弘化5年 ○手習師匠の弟子引率の花見を禁止
1849年 嘉永2年 ○小金井の桜が植え継がれる
1851年 嘉永4年 ○十月に、桜花所々で咲く
1856年 安政3年 ○内藤新宿裏の上水土手に桜を植栽
               ○翌年にかけて浅草寺観音堂奥山等に桜を千本植える
1857年 安政4年 ○彼岸桜は三月末まで咲き、隅田川桜は四月に盛りになる
1859年 安政6年 ○上野彼岸桜が盛り、牛島午御前開帳、堤の桜咲き参詣群集する
1862年 文久2年 ○隅田川花見にて、武士の狼藉行為多数
1866年 慶應2年 ○上野花見の頃、山内の出茶屋が閉めさせられる