ハナショウブ

ハナショウブ

幕末の花  花菖蒲
イメージ 1 江戸近郊の堀切には、今から二百年以上も前の文化元年(1780)に、すでに花菖蒲園が存在していた。その花菖蒲園は、堀切村(現在の東京都葛飾区堀切町)の百姓、伊左衛門が奥州安積沼から野性のハナショウブの苗を移して、徐々にふやしていったもので、その評判は江戸市中に広く行き渡っていた。もっとも堀切周辺での菖蒲栽培は、室町の頃にはすでに始まっていたらしい。『江戸名所図会』にも「葛西の辺は人家の後園あるいは圃畦にも悉く四季の草花を栽並(ウエナラ)べるゆゑに、芳香常に馥郁(フクイク)たり、土人開花の時を待得てこれを刈取、大江戸の市街なる花戸にだして鬻事(ヒサグコト)最も夥(オビタダ)し」とあるように、年代は確定できないものの、草花の生産は野菜とともにかなり早くから行われていたようだ。なお、天保五年(1834)に出版された『江戸名所図会』は、実地調査は寛政年間(1789~1801)に斎藤幸雄によって行われ、その後、息子の幸考、孫の幸成(月岑)に引き継がれ、三代目でようやく完成をみた。
イメージ 2  ハナショウブは、風景画の画材としても適していることから、『江戸百景』(上図)『江戸自慢三十六景』(左図)『東都三十六景』『江戸名所四十八景』『絵本江戸土産』などに堀切周辺の景色とともに描かれ、各方面に紹介されている。そのため、江戸から多くの来訪者があったと見えて、『武江年表』(斎藤月岑著)には「近年(1849)、花菖蒲を賞する人多く、葛飾郡堀切村わけて多し、仲夏の頃、諸人遊覧す、小村井村里正孫右衞門が園中に、梅樹また花菖蒲、其餘四時の草木を植えて、盛の頃、諸人の縦観をまつ、寺島村里正三七が園中も、又花菖蒲其餘の草木多し、本所四目植木屋文藏、芍薬の數種を養ふ、開花の頃、諸人遊賞せり」とある。ハナショウブの人気は長く衰えず、『武江年表』の、安政五年(1858)五月に「吉原仲の町往還へ、花菖蒲を栽ふる、・・・・」と花街の彩りとして植えられていたという話が出ている。ただ、萬延元年(1860)五月の記述には「角筈村十二社權現境内に、花菖蒲を栽る、遊觀多し、一兩年ニシテ廢レリ 」とあるから、さしものハナショウブ人気もこの頃までだったようだ。
  その間の弘化三年(1846)には、将軍家慶が付近で鶴狩りを催すため、堀切の花菖蒲園の見物は禁止するよう、代官から小高園主に申し渡しがあった。このことは逆に来訪者を誘い、いかに多くの人々が訪れたかということを示している。また、安政六年には、「命と腕に堀切の、水に色ある花あやめ」と読み込んだ「菖蒲浴衣」が作られるなど、ハナショウブが江戸の人々の間でもてはやされていることがわかる。堀切のハナショウブ人気には、花の美しさだけではなく、その行楽形態が新鮮で、おもしろがられたという面もあったようだ。江戸市街から見ると堀切は、浅草や向島の先になり、歩くにはちょっと遠い。そこで、江戸から堀切の菖蒲園まで行く時は舟で隅田川を渡った。陸路よりも水路を使うことで、楽に出かけられることとともに、それによって、行く時からすでに行楽気分を味わうことができるようになった。広々とした水田にはたくさんのハナショウブが植えられ、あちこちに風雅な板橋を架けた園内は、さしずめ「八ツ橋」(『伊勢物語』に登場する三河の国のカキツバタの名所)を偲ばせるような光景だったという。堀切の花菖蒲園は、いわば自社の製品を展示するショールームのような役割を果たしていたものと思われ、来訪者には無料で見学させていたらしい。
  それ以前に流行したボタンやハスなどは、単体の花をながめて、花そのものの美しさを愛でていたと思われるが、ハナショウブについては、まとまった群落を自然に近い環境の中に置いて、周辺の景色と一緒に楽しむという新しい鑑賞形態が誕生した。広重の「堀切の花菖蒲(名所江戸百景)」を見てもわかるように、ハナショウブの花は菖蒲園を背景に描かれている。ここには湿地に囲まれ、広い空間を従えたハナショウブの圧倒的な美しさが描かれている。従来の花見が、筵を敷き花を見ながら飲食するパターンだったのに対し、花と散策を同時に楽しむというスタイルは、野趣を好む江戸の人々にとってかなり魅力のあるものに映ったことだろう。そして、この変化は幕末という特殊な時代の空気と無関係ではあるまい。風雲急を告げる諸外国の動向、幕府の動揺・・・、そんな中で江戸の庶民は、広い外界や未知なるものへの興味を募らせていった、と同時にこれまでの価値観をくつがえすような変革を期待する気持ちが強く、花に対して求めるものも急速に変わっていったのではないか。
 
ショウブとハナショウブ                                                 ciba提供 ショウブの花
イメージ 3 今の日本では、菖蒲湯の風習が辛うじて残っている程度、日常生活で我々がショウブと係わることはほとんど皆無である。が、昔はショウブと言えば、花よりも葉を指すことが多く、薬用として用いたり、場合によっては、厄払いや魔除けに威力のある植物として頻繁に活用されていた。奈良時代にはすでに、五月初めの午の日(当時の人々はこの日を最悪の厄日と考えていたらしい)、邪気払いのために、殿上人たちがショウブの葉で作った冠(かずら)をかぶって参内し、一同で菖蒲酒を飲むという習わしが定着していた。また、平安時代に書かれた『枕草子』にも、五月五日には薬玉をつくって柱にかけたり、それぞれが気に入った葉を探して髪や衣装につけるなど、様々な使用例が登場する。子供ならともかく、大のおとなが頭や衣服にショウブの葉を飾って歩いている様子は、想像するとちょっと滑稽な気がしないでもない。ただ、火事や天然痘といった災いの前には貴人といえどもまったく無力であったことを思うと、人々がこうした根拠の乏しい「まじない」にすがろうとしたのも、無理のないことかもしれない。しかもその大半は、当時の貴人たちにとって憧れの国であり、何かにつけ模倣していた唐の風習に習ったものだったから、なおさらだろう。
イメージ 4 では花を鑑賞した歴史はどのようなものだったのか。たとえば平安中期の『拾遺和歌集』に「しのべとや あやめも知らぬ心にも 永からむ世のうきに植へけん」という藤原道兼の歌がある。この歌については愛児を失った後、その子が植えた花が庭で元気に育っているのを見て、悲しみのあまり詠んだものと言われているが、寝殿造の邸宅(道兼は関白までつとめた上流貴族なので相当立派な館に住んでいたと思われる)をとりまく“遣水”にハナショウブを植えて鑑賞していたという、当時の状況がわかるという点からも興味深い一首である。
 余談だが、この歌に出てくる男児(名を福足君という)は、大変な悪童として知られていたが、ある時蛇をいじめてその祟りで頭に腫れ物ができて亡くなったとある。(『大鏡』)子供が花を植えた経緯はわからないが、そんな評判の悪童にも花を思うやさしい気持ちがあったのかと考えるといささか哀れである。
 続く室町時代足利義政の頃になると、禅の思想、「侘び寂び」を基調とする東山文化が栄えた。落ちついた風情のハナショウブは「侘び寂び」の精神にかなう花と見なされていたらしく、最古の花伝書と言われる富阿弥『仙伝抄』にハナショウブが花材と用いられたことが記されている。
 
今に残るハナショウブに生涯をかけた松平定朝
群芳帳より
イメージ 5 幕末の美しいハナショウブを作りだしたのは、旗本の松平定朝(左金吾、通称・菖翁)だと言っていいだろう。定朝は、安永二年(1773)、松平定虎の息子として江戸に生まれた。幼年の頃から父親の影響を受けて、趣味としての園芸に親しみ、父の後を継ぎ旗本として伊勢守に任じられ二千石を拝領した。その後、江戸城・西の丸御目付、京都禁裡付さらに転じて大阪町奉行、そして江戸に戻って幕府大目付役(今の警視総監に相当する要職)に出世、これを最後に一切の公職から引退した。以後は麻布桜町の自邸に隠居して園芸にいそしみ、それまで趣味として行っていたハナショウブの改良の総仕上げに没頭した。思えば、家康公は大の園芸好きとして知られていたが、血は争えないというか、松平頼寛(キク)、松平定信(ウメ)などに続き、ここにもまた家康の血をひく武士(松平定朝は家康の弟・定勝の子孫にあたる)が老年期に園芸に没頭。皆それぞれ老後の楽しみとして残していたわけだから、その点でも一致している。
 菖翁は、ハナショウブの変異性を利用して、三英から六英、八英の大輪咲きの出現に成功した。そして、ハナショウブの生い立ちから、花形、培養法、病虫害、施肥の方法などを詳しく紹介した『花菖培養録』を著した。ところで、当時人気をあつめた花というのはどのようなものだったのだろうか、前述の菖翁が自著『花菖培養録』の中で、秀花二十一品を選出しているが、彼はその際の基準として“花弁が厚く、丸く、幅広く重なり、かつ業ある花型”を選出したという。そして、これこそが後に江戸(東京)菖蒲と呼ばれるようになるショウブの原型であった。
 ハナショウブの品種は百種以上あって、大きくは江戸・肥後の二型(別に伊勢と呼ばれる異型もある)がある。肥後菖蒲は、天保の頃、当時の藩主細川斉護侯が菖翁から譲りうけたものを、一品ずつ、これはと思う藩士などにあずけ、門外不出の厳しい制度の下で栽培と改良を進めさせた。肥後における鑑賞法は、庭園の一部としてながめるのではなく、鉢に栽培して花が咲く頃に室内に運び入れてこれを楽しむという、独特な方法であったという。鉢植えなので、丈があまり伸びないものを選出した。肥後菖蒲と言えば、大輪かつ豪華な花形が特徴である。
 ところで現代のガーデニングで、ハナショウブはよく使われているかといえば残念ながらがらそうでもない。菖蒲園や菖蒲祭りのようなものは、結構人気があって、よく人が入っているが、実際、個人の庭に植えられている花を見ると、ハナショウブよりアヤメやアイリスのほうが多いようである。確かにアヤメやアイリスは乾燥に強く、水やりを忘れたぐらいでは枯れない。また、ハナショウブのような土寄せや畦間の中耕などの手入れが不要で、放置しておいてもけっこう花が咲く、など忙しい現代人向きの要素をたくさん持っているともいえる。ハナショウブはどうも分が悪い。じっくりと花の美しさを味わおうと思えば、やはりハナショウブの方が飽きの来ない美しさという点で、軍配が上がると思うのだが、いかがだろうか。