馬琴のガーデニング 1

馬琴のガーデニング
(「江戸の有名人のお庭拝見 滝沢馬琴の庭を推測する」『歴史と旅』を編集)
江戸のガーデニング事情
  江戸のお庭事情を紹介する時に、まず思い浮かぶのは大名庭園であろう。現代でも公園として残っている小石川後楽園六義園浜離宮庭園など、その数は数百にもおよんだ。大名は、上屋敷中屋敷下屋敷を持っており、小大名でも下屋敷を二箇所、大大名ともなれば五箇所も所有していた。上屋敷に庭園があることは少なく、十数カ所にすぎなかったが、中屋敷下屋敷には必ずといっていいほど庭園が設けられていた。
 次いで、旗本屋敷の広さを見ると、禄高が五千石以上だと千八百坪(約6000平方メートル)、一千石以上で七百坪(約2310平方メートル)、三百石でも五百坪(約1650平方メートル)を有している。さらにそれ以下の御家人の敷地を見ると、三十~五十俵取の下級武士でも百~百五十坪(約330~495平方メートル)、もっと下でも七十坪(230平方メートル)程度はあったらしい。現代の住宅事情と比べるとかなりゆとりのある規模だったことがわかる。こうした旗本以下の武士の数は、旗本が約五千家、御家人が約一万七千家、合わせて二万二千家程度であった。
 江戸にはその他に、寺社にも庭園があり、裕福な町人の家にも庭があった。そのため、江戸は至るところに庭があるという、庭園都市の様相を呈していたようだ。潤いのある非常に美しい町であったと、幕末に日本を訪れた西欧人は一様に感嘆している。そこで、数多い庭のなかから、現代のガーデニングにも参考になりそうな江戸の庭園を捜してみよう。家の敷地規模から考えると、どう見ても旗本以上の庭園は広すぎて、簡単に真似できそうにない。せいぜい下級武士、それも祿高の少ない家の方が参考になりそうだ。当時の下級武士の生活は、現代のごく一般的なサラリーマン家庭に近く、この程度なら何とか比べられそうな気がする。
 下級武士の敷地は、だいたい百坪前後と見て良いであろう。建物はどの位の広さかと言えば、御家人クラスで二十~三十坪(約70~100平方メートル)と推測されている。家だけ見れば現代の建売の方が大きいと言えるが、庭は逆に江戸時代の方が圧倒的に広い。それは、現代の一戸建だと必ず駐車場にスペースを取られ、その分庭の面積が狭くなってしまうからである。つまり、江戸時代は、下級武士でも百坪程度の敷地にゆとりのある庭を持ち、ガーデニングを楽しむことができたというわけで、ちょっとうらやましい話である。
 
町中でもガーデニングが楽しまれていた
 そうなると、下級武士の庭をちょっと覗いてみたくなるのが人情だが、あいにくなかなか快く応じてくれる「人」がいない。それは、武士は皆、体面を気にして、他人に自らの台所事情を知られぬようにしていたからである。国学者平田篤胤などは、家庭内のことをかなり書き残している方だが、それでも庭についてはあまり触れていない。そんな中で、町人になってしまったが(元々は下級武士)、身分が変わってからの住まいも八十坪と、ちょうど下級武士程度の生活をしていた人がいた。それが、かの有名な滝沢馬琴である。
  滝沢馬琴は、子供の頃から人並みはずれた記憶力を持ち、読み書きを好んだという。が長じて彼は、武家社会の理想と現実の落差に悩み、ついには流浪の生活を送らなければならなくなった。様々な職業に就いたが身を立てることができず、当時名を馳せていた山東京伝の門を叩き戯作者を目指した。その後、武家の身分を捨て下駄屋の養子になったものの、長年にわたる家庭不和にも悩まされ、晩年には失明するなど、決して幸せな生涯とは言えない。もっとも「椿説弓張月」「南総里見八犬伝」など多数の著作を残し、江戸後期の戯作者で、読本の第一人者と評価され、社会的な成功はかなえられた。馬琴のガーデニングは、長い放浪生活から足を洗い、飯田町(現在の千代田区飯田橋)にある十坪たらずの下駄家に婿に入った時からはじまった。その家は町中の密集地にあったが、それでも猫のひたいほどの庭はあった。狭い庭だが、カキやブドウなどの果樹があり、霜除けを必要とする草木もあった。イメージ 1
イメージ 2  江戸の町人が住む地域は、建物が高密度に建てられていて、樹木などほとんど植えられていないかと思ったが、実際には所々に空き地があり植物も栽培できたことがわかる。現代でも、アパートやマンションでもガーデニングする人が少なくないように、当時の住宅事情でも園芸を楽しむ方法はいくらでもあった。たとえば、『金生樹譜』という園芸書には、「市中の住居の尺寸の空地」で鉢植を楽しむ方法が図示されている。そうした絵を見ると、現代でも通用しそうな方法がある。特に、鉢物の置きかたなどは、生け花やハンギングバスケットに通じるものがある。このようなことから、町人にも園芸の好きな人が大勢いて、ガーデニングが楽しまれていたことが理解できる。
 
風水のガーデニング
  文政七年(1824)五十八歳になった馬琴は、飯田町から神田明神下同朋町(現在の千代田区外神田)へ移った。当初は、五十坪ほどの借地に十六坪の平家であった。その後、増築して二十坪程度になったが、さらに隣地を借り、借地はおよそ八十坪となった。家の間取りは客間(八畳)、書斎(六畳)、中の間(五畳)、納戸(五畳半)に、茶の間、玄関。その他にも二室あったようだ。
 八十坪の敷地に二十坪の建物しかないわけだから、五十坪程度は庭として使える。現代の敷地事情と比べれば、植物を植えるスペースはかなり広く、お好みのガーデニングができそうである。滝沢家の敷地のロケーションを示すと、南側には道路にそって板塀がめぐらされ、未(西南)の方角に板屋根のある門があった。さらに、隣家との境には、建仁寺垣を廻していた。
 さて、庭の構成であるが、前庭、奥庭、裏庭などが四目垣や刈込みなどで区切られ、それぞれ趣のある空間を形成していた。まず池や築山などのある日本庭園風の庭は、かなり熱を入れて造ったらしく、長さが四間一尺(7.5メートル)、幅は広い部分が九尺(2.1メートル)の池を前面に、その背後に小山が築かれていた。その細長い瓢箪形をした池は、座敷に面していて、息子が釣ってきた魚(鮒など)を放すなどして楽しんだようだ。
 池は素堀りらしく、防水が十分でなかったようだ。炎天時には水が涸れる心配があったので、深さ一丈(約3メートル)も掘ったらしい。ところが深い池だから思うように水が溜まらず、部屋からは水面が見えない。池を見ようとすると、まるで穴ぐらを見るようであった。その上、可愛い孫たちがもし池に落ちたらと心配も尽きない。それやこれやで結局、馬琴はその池を埋め戻してしまった。同時に、池を埋めたのは、息子がその頃重病にかかり、何かの祟りかと風水方位を調べると、居宅の南側に池を造るのは宅相によくないというご託宣が出たからでもあったらしい。 
 が、そうまでしても息子の病状は変わらず、再度調べてもらい吉方の土を持ってきて池を埋めた上に敷きならしたり、栗樹符を土中に埋めたりしている。庭をつくる際、今では水の流れる方位だとか石の禁忌などはあまり気にしないが、当時は池ひとつ造るにも風水方位などに一々こだわったため、煩雑な手続きを踏まねばならなかった。
 
くだもの作りの名人?                                                   俳諧季寄図考よりイメージ 3
 馬琴の庭に植えられていた木は、日記から推測できるものだけでも五十種程度と、かなりの本数があった。主な庭園樹としては、マツ、モクセイ、モッコク、サルスベリ、カエデ、マキ、それにシュロやタケなども植えられていた。それに、カキ、スモモ、ウメ、リンゴ、ナシ、ブドウなどの果樹もかなりの本数があった。果樹がたくさん植えられていたところから見て、日当たりの良い庭であったと推測できる。
 俳諧季寄図考より
イメージ 4 特に日照を必要とするブドウがよく実をつけ、果物屋に売ったという記述がある。日記に430~40房という記述があるからかなり大きな木であったのであろう。さらに、売上金額についても書かれていて、八月四日に二朱百四十八文、七日に二朱百文であったという。当時の物価で、味噌が二朱で五貫目(約19キロ)、酒一升(1.8リットル)が三百五十~四百文買えたというから、ブドウの売上代金はかなりの額であった。丹精して育てた果物が立派に売り物になったということから、馬琴にはかなりの栽培技術があった。
  ブドウだけでなくウメも良く実った。豊後梅が三升五合(6.3リットル)、野梅が二升(3.6リットル)もとれて、これは自家用の梅漬けにしている。また、リンゴは、とても大切にしていたらしく、虫が付くと小管で塩水を吹き入れたり、花火でいぶしだしてみたりとこまめに世話をしている様子が伝わってくる。他の果樹、カキやスモモなども実がよくついたようで、ザクロを近所の悪童に盗まれたりしている。
  エンドウ、ナス、ニガウリ、カラマメ、トウガラシ、インゲンマメなどの野菜の記述もあるが、その種類は案外少ない。馬琴という人物は、金銭の出入りについて比較的こまかく書き残していて、米や醤油はもちろん、水飴の値段まで書き残している。ところが、毎日のように食べていたはずの野菜を購入したという記録が見られない。これは、おそらく自分の庭の菜園でかなり自給自足できたからではなかろうか。