ガーデニングを楽しむ 1

ガーデニングを楽しむ 1
 
世界に誇る江戸時代の園芸書
  江戸の園芸文化は、日本の隅々まで出かけ珍しい花を手に入れたり、時間と労力を注ぎ込んで新しい品種を生み出したりする、大勢の好事家たちの手によって支えられていた。他方、園芸植物に関する情報を世中に提供しかつ、江戸時代の園芸文化を書き記して後世に伝える役割を果たした園芸書の存在も忘れてはならない。実際、この時代に出された園芸書は二百数十にも及び、マニアはもちろん、年端もいかぬ小僧たちにまで読まれていた。
 寛永から貞享年間(17世紀頃)までに出された園芸書は、『草木写生』(狩野重賢)や『花壇綱目』(水野元勝)、『牡丹名寄』(定屋丈助)など、美しい花や珍しい植物を紹介したものであった。植物の性状や栽培法について触れたものもあるが、どちらかといえば、見て楽しむという類の書物が多かった。
 元禄・宝永年間(1700年前後)に入ると、園芸書としてのレベルが上がり、植物の分類や栽培法などについてかなり詳しく書かれるようになった。特に著名なのは、伊藤伊兵衛の著した園芸書である。特に伊兵衛の『錦繍枕』は、かなり専門的な内容であるにもかかわらず、図を載せ、仮名入りで記述するなど、「わかりやすさ」に重点を置いて編集されている。この姿勢は、『錦繍枕』刊行から三年後、武陽染井野人三之丞という名前を使って出版した『花壇地錦抄』にもそのまま受け継がれた。『花壇地錦抄』の序文を読むと、畑仕事のあいまに、植物を育てた自分の体験から、できるだけやさしく、誰にでもわかるようにという、伊兵衛の配慮が滲み出ている。
 また、正徳年間から元文年間(18世紀前中期頃)にかけては、菊に関連した園芸書が多く出された。この頃の園芸書には、サクラ(那波活所『桜譜』など)、キク(志水閑事『菊花羽二重』など)、カエデ(伊藤伊兵衛政武『歌仙百色紅葉集』など)をはじめ、園芸品種として作られた植物を数多く紹介している本が多い。
イメージ 1 宝暦年間(18世紀後半)になると、園芸植物の写実は、非常に精巧になった。たとえば、安永年間(1775年)に訪日し、絵本『野山草』(橘保国)を手に入れたツュンベリーは、「日本の植物について優美で判然とした図を載せている」(「江戸参府随行記」高橋文訳 平凡社)と称賛している。つまり、外国人の目から見ても日本の園芸書のレベルがかなり高度なものであったということだろう。
 寛政年間(18世紀末)には、花よりも葉の美しさを重視するようになり、『たちばな種芸の法素封論』(黄道沙門著)のような園芸書が登場する。これは、当時の特異な園芸動向を反映したもので、以後、『草木奇品家雅見』(繁亭金太)や『金生樹譜別録』(長生舎主人)など天保年間まで続いた。文政年間(19世紀前期)に入ると、博物学的な観点から植物の特性や栽培法を記した『泰西本草名硯』(伊藤舜民)などが出版された。
 安政年間(19世紀後期)には、アサガオに関する書物が多く出され、幕末の政情不安な時期にもかかわらず、『芍薬三十六花撰』(栩々園耽花)、『群芳帖』(細川斉護)、『桜草名寄控』(染植重)、『撫子培養手引草』(長谷醇華)などの本が続々出された。
 このような園芸書のすぐれた点は、現代でも栽培マニュアルとして充分役立つことである。時代が進むにつれて、あらゆる面で技術が発達すると考えがちであるが、こと造園・園芸の分野に関しては、必ずしもそうではない。たとえば、植物を剪定する技術は、明らかに江戸時代の職人の方が上で、現代はむしろ落ちている。また、アサガオフクジュソウの花形や色彩は、現代の方が少なく、明らかに劣っていると思われるが。
    
流行に見るガーデニングへの関心
 流行はいつの世でも社会の鏡であり、時代の流れを反映するものである。園芸の流行も、その移り変わりは、時代の影響の産物にほかならない。江戸時代において、園芸が盛んになったのは、幕藩体制が整い、世情が安定してきた寛永年間(1624~1644)である。そして当時、注目された花は国産のツバキである。この時代は、鎖国が徹底されていたという社会背景もあって、流行した植物が外来種でなかったことは、非常に興味深い。
 また当時、園芸が世の中にどれほど浸透していたかは、『花壇綱目』(水野元勝)の刊行(1664年成稿)からもわかる。初刊が1681年(延宝九年)ということは、有名な『農業全書』(宮崎安貞)より15年も先に出されている。農業と園芸の関わり合いは深いものの、園芸独自の視点から書かれている。また記述内容は、中国の影響を受けているものの著者の体験に基づき、養土(諸草可養土の事)や肥料(諸草可肥の事)に関する記述は概ね現代に通じる。
 この本には、178種の植物が記載されている。その中に、琉球百合(テッポウユリ)や敦盛草(アツモリソウ)などがあり、当時から園芸植物として取り扱われていたことがわかる。また、万日講(センニチコウ)や阿蘭蛇撫子(オランダナデシコ)などの外来植物も加わり、新しい植物を積極的に取り入れようとする姿勢が強く感じられる。
 次に流行したのは、ボタン。艶やかな花の美しさは、元禄(1688~1704)のイメージににふさわしい。と同時に、庶民にも広く浸透し、「元禄ツツジ」と持てはやされたツヅジ類の流行も続いている。が、私は、元禄の園芸と言えば、やはり渋好みのカエデを一番にあげたい。カエデは、元禄から宝永、享保年間にかけて多くの園芸品種が作り出された。カエデは、鑑賞対象が花ではなく葉であったことに注目したい。江戸期の園芸が今日の園芸と大きく異なるところは、外見上の華やかな美しさを求めるだけではなく、“わび”“さび”というような精神的な美しさをも追求したところにある。
 そして、そうした傾向は、次に流行するキクの花形にもあらわれ、清楚な感じのする「丁子花形」が好まれるようになった。もつとも、キクの流行は、一方で風雅な趣味の領域とはまったく違った方向へも進んでいった。あちこちで品評会(コンテトス)が開かれ、「菊合せ」(菊会、菊大会)が盛んになった。そうなると、キクの苗を高額で売買するようになり、園芸を利殖対象と見る人も増えていった。
 その後、宝暦年間(1751~1764)頃からは、吉宗が各地にサクラを植えさせたこともあって、人々のサクラへの関心が高まった。また、伝統的な園芸植物、ウメなどに加えて山野草の人気も広まった。天明年間(1751~1764)に書かれた『(諸色)花形帳』(吉右衛門)には、千に近い植物が紹介されている。園芸植物の種類は多くなり、百合(ユリ)75品、松本(マツモトセンノウ)57品、サクラソウ8品などから、当時の流行事情を垣間見ることができる。
 寛政年間(1789~1801)になると、さらに多くの人々を園芸に巻き混んだ橘(カラタチバナ)の流行がはじまる。カラタチバナは、ヤブコウジ科の背の低い常緑樹で、現代人の目には、地味で特別魅力があるとは思えない植物である。続く文化年間(1804~1818)には、アサガオが流行する。なお、このアサガオも、今のようなシンプルな親しみやすい花ではなく、「変化朝顔」と呼ばれる異形の植物であった。これらの植物に共通するのは、珍しい色や奇妙ともいえる形だけにとどまらない、深い味わいを誉めそやしていたことである。
イメージ 2 江戸時代の園芸は、その後、文化・文政~天保年間(19世紀前期)に頂点を迎える。そしてそれを証明するかのように、園芸に関する書物が次々に出版された。中でも江戸園芸を集大成した大傑作が『草木奇品家雅見』(繁亭金太)である。大流行のタチバナを初め“金生樹(かねのなるき)”と呼ばれた、マツバラン、セッコク、オモト、フクジュソウナンテン、ソテツなどに加えて、当時の主だった園芸植物を網羅している。
 そうした中で、江戸の植木屋たちは、園芸の流行を菊人形や朝顔市などという行楽活動と結びつけ、さらなる大衆化に一役買った。幕末になると、彼らの苗圃では ハナショウブが隆盛をきわめ、シーズン中は来訪者でごった返した。弘化年間(1844~1847)はハナショウブと共にキク、嘉永年間(1848~1854)は、コオモト(小万年青)が流行し、アサガオ朝顔)も再び人気を取り戻した。この時期は開国を目前にして人心の乱れが影響したのだろう、植物の流行も移り変わりが激しかったと思われる。