江戸・東京庶民の楽しみ 101
明治五年は江戸・明治の転換点
二月『学問のすすめ』刊行/九月新橋・横浜間鉄道開通十二月太陽暦実施
・芝居も久々の大入り
 正月、神田の薩摩座は、七日から芝居興行をはじめたが、翌八日に火事で焼失。対する市村座は、二十四日より興行した『国性爺姿写真鏡』が大当たりをとった。明治に入ってからの芝居は、入りが悪く値引きなどさまざまな手を打ってきたがなかなか効果が上がらなかった。芝居を見る層の経済状態が悪化したまま、改善されなかったからである。市村座の大入りは、沢村田之助の引退興行への贐餞(ハナムケ)によるものが大きいと思われるが、何はともあれ先行きに明るさを感じさせる現象ではあった。一方、業界の苦しい事情とは無関係に、府は増税のため、東京内の劇場に興行免許の鑑札交付を行った。これを機会に、江戸時代から続く三座以外の小芝居についても鑑札を交付、正式な興行を認めたため、芝居小屋は合計十座程度にまでに増えた。なお焼失した薩摩座も、六月には南鞘町にて興行をはじめている。
 また、八月に伝通院寺で落合村薬王院釈迦如来が開帳された時にも、常設ではないが芝居が興行された。さらに、両国や浅草などでは、こも張の小屋で、百日芝居が興行されていた。しかしこの年、高輪河岸をはじめ両国橋畔、虎御門外、九段坂上御堀端などにあった葦簾張りの小屋が撤去されたのに伴い、芝居小屋も姿を消した。なお、建物としての芝居小屋はなくなっても、芝居興行する座が消えたわけではなく、明治座や中島座のように違う場所で許可を得て再び興行をはじめた所もあった。
 十月、守田座新富町に移転。この移転は、従来のように金持ちだけを相手にしていたのでは、苦境を乗り越えられないという判断から行われた。新劇場は、舞台の正面に数十の椅子席を設定し、洋服客でも座りやすいように工夫されている。これは、抜本的な改革に着手するという新しい劇場経営方針に基づくもので、他にも安い土間料金を設定するなど大衆化路線を強く打ち出したものである。
・見世物同様に扱われた相撲
 相撲も観客の増加を意識してだろう、女性の見物を十一月に認めた。今では、江戸時代に女性が相撲を見られなかったなどとは、想像しにくいことだが、江戸の大相撲は「勧進」であったため女性の観覧を許さなかった。当時、相撲は、大名の庇護がなくなり、経済的に非常に厳しい状況であった。前年には断髪令が出され、相撲取りの丁髷も切られる寸前であったが、政府高官のはからいでかろうじて残った。だが、数日前に発布された違式註違条例によって、相撲は、二十五条の「男女相撲並ビニ蛇遣ヒ其他醜体ヲ見世物ニ出ス者」、相撲も裸体を見せる見世物と同列に扱われ、さらに苦しくなった。
 そうした見世物を禁止する圧力は強まっていたが、かといって庶民の見世物好きは変わるはずはなかった。この年の見世物は、主なものとして二月にスリエ曲馬団が浅草奥山で、三月に浅草御蔵前大円寺境内で腹の中にてものを言う盲女見世物、夏の頃からは浅草寺奥山花屋敷脇にて西洋画の覗きからくり、七月に浅草寺奥山で南京の背の高い人の見世物など様々興行している。覗きからくりは、人気があったとみえて、神保町、増上寺山内、芝太神宮など十ヶ所以上の小屋が掛けられた。しかし、両国橋畔の茶店や広場の見世物、虎御門外茶店九段坂上御堀端の茶店などが取り払われたように、政府の締めつけは徐々に進んでいく。
・毎週のように催された祭
 明治になって復活した江戸っ子の祭好きは、この年がピークであった。この頃、司法省の顧問として来日した、フランス人のブスケは、当時の祭の様子を書き残している(『日本見聞記』野田良之訳)。それによると、祭は、自分たちでお金を出し合って騒がしい行列をつくり、町の中を練り歩き楽しむものと解説している。気候のよい季節には、町のどこからか太鼓の響きや叫び声が、聞こえてこない週がないくらい催されている。行列の通る道筋の家々では赤い幕を張りめぐらせ、おしろいを塗りたての女、目までも粉を塗りたくった子供らが、行列がくるのを待っている。長い棒についた旗や幟を先頭に、揃いの着物を着た40人程が鉦と太鼓を鳴らしながらやってくる。次に二人の先達が道を開けながら歩く、続いて四頭の牛に牽かれた巨大な恵比寿さまを乗せた山車を、60人程の人が押している。そのあとに役者と子供を乗せた小さな移動舞台がやってくる。そうした長々しい行列がいくつもあると、ブスケは書いている。もっとも、祭といえば必ず神輿が出ていたはずだが、彼は神輿の存在には気づいていない。
 この年、最も盛大であったのは九月の神田大神社祭礼で、山車35輌・踊台・地走跳まで出て盛大に行われた。三月の浅草三社祭礼は、山車や踊り等が出る。八月の下谷坂本小野照崎明神祭礼は、山車数輌、例年よりも盛況だったようだ。九月の奥州塩竈明神遙拝社祭礼は、踊り練物等が出て賑わった。さらに、鉄道開業式にも祭と同じように山車を出して踊台を設けて、周辺の人々が騒いでいる。さらに、天長節の後にも、山車や踊りが俄に出され、その騒ぎが五日間も続いた。この頃の庶民は、お目出たいことがある度に山車を引き出し、祭と同じように楽しもうとしていた。
・改暦の真相とは?
 明治五年十一月に、今後はそれまでの十二月三日を正月元日とすると、まったく突然に改暦が布告された。もともと、改暦については、新政府ができた時点で、欧米と同じ太陽暦を採用すべきだという意見が出ていた。確かに条約の締結を始め、外国との交渉をするにあたって、自国と相手国とで暦が違うというのは不便この上ないことであった。たとえば、明治四年、岩倉具視を代表とする政府要人たちが、幕末に結ばれた不平等条約の改正を求めるために交渉に出かけた時も、欧米諸国は日本が太陽暦を使用していないというだけで、後進未開国と決めつけて、対等な話し合いにすら応じない雰囲気があった。そのため、使節団に加わった人々は、早急に太陽暦を採用しなければならないと、切実に感じていた。
 また、幕府を倒し、新しい政府となったからには、暦も新しい暦に切り換える必要があるという考えもあった。しかし、いざ国民に目を向けると人々の生活は旧暦に密着していて、特に農業従事者に旧暦による生活パターンを改めさせるのは容易なことではないと思われた。また、太陽暦に改めるには、国民にその主旨を理解させる必要があり、改暦によって社会がどのような影響を受けるのかも慎重に検討する必要があった。
 そうした事情があったにもかかわらず断行されたこの突然の改暦には、新政府の財政的な負担を軽減するという意味合いが強かったと言われている。明治新政府は、明治四年の廃藩置県によって、三府三百二県の官吏を直接かかえることになった。また、国政に関する業務や事業はすべて国費で賄わなければならなかった。国の産業は育っておらず、財政は火の車で、いかに歳出を少なくするかが重要な課題だった。特に、官吏の給与というものは、新たな事業を始めようとすれば、増えることはあっても減ることはなかった。
 そのうえ、当時、役人の給与は年俸であったのを、明治四年に月給にしてしまった。太陽暦なら毎年十二回で済むが、太陰暦だと十三ヵ月になり、月給を十三回支払う年が出てくる。この一大事に最初に気づいたのは大隈重信であった。明治五年の九月に、見本として翌年の暦が献納されたが、これを見た当時の大蔵卿大隈重信は、翌年の明治六年は閏六月があって、一年が十三ヵ月になっていることに気がついた。官吏の給与が年俸制であった時は、閏月があっても別に問題はなかった。しかし、月給制に移っていたために、閏月があるといつもの年より一回分多く給与を払わなければならない。
 そこで、大隈は、明治五年の十二月三日を太陽暦の六年一月一日にすることにした。そして、たった二日しかない十二月の給与を払わずに済むようにした。明治五年の月給は十一ヵ月分の支払いで済み、また、六年の閏月の給与も支払わなくて済む。つまり、改暦によって二ヵ月分の人件費をうかすことができると考えたわけだ。突然の改暦の裏には、様々な事情があったようだが、財政的なメリットを重視したという説が最も説得力のある理由である。

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明治五年(1872年)の主なレジャー関連の事象
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1月B神田旅籠町薩摩座芝居興行7日開始、翌8日に火事で焼失/武江年表
1月B御厩河岸の辺に観世座の能興行
2月B大塚護国寺観世音、柳原妙見宮、回向院一言観世音の開帳
2月B浅草寺奥山で外国人男女の曲馬軽業興行
2月T東京府猿若町の三座に芝居取締り、淫猥不義を禁じ、教育的にと/東京日日新聞
3月B深川浄心寺祖師七面菩薩、牛込榎木町宗柏寺立像釈迦如来の開帳
3月B浅草御蔵前大円寺境内で腹の中でものを言う盲人の見世物
3月B湯島聖堂で博覧会、古書古画古器珍物多く出品
3月B浅草寺御蔵前で観世梅若能興行
3月B浅草伝法院で博覧会
3月B浅草三社祭礼、山車伎踊等出る
3月B富士山北口、4月~8月まで女性の参詣許され、諸国より参詣人多数
4月B高輪河岸の葦簾張茶店等その他残らず取払われる
4月B芝金杉多聞院毘沙門天開帳
4月○教部省より、人々の啓蒙を勧める「三条の教憲」発令
5月B招魂社落成し祭礼、競馬・相撲・半蔵御門外で昼花火
5月○祭礼の競馬に懸賞、袂時計・羅紗戒服・フランケットを各5/兵部省
5月B深川浄心寺身延山久遠寺祖師七面菩薩、回向院で下総幸手宿の辺中田光了寺開帳
5月B牛島佐竹侯下屋敷大鷲明神で毎月酉の日参詣、花木や泉・奇石等あって見物多数
5月B四谷荒木町横町の北松平摂州侯邸跡に植栽、酒肆茶店設け遊観させ、多数集客
5月B諸神社で説教始まり諸人聴聞する
5月○猿若町中村座でスリエ曲馬を種にした「音響曲馬鞭(オトニキクキョクバノカワムチ)」の浄瑠璃上演
6月B浅草奥山花屋敷の脇に西洋画覗きからくりが設置される
6月B本小田原町で新たに水神祭る
6月B大小神社で大祓式執行 
7月B浅草寺奥山で南京の大男の見世物出る
7月B増上寺本堂で黒本尊開帳、茶店酒肆見世物・提灯等でる
7月B表神保町栄寿稲荷神社、連月15日縁日、商人多く出る
7月B兎の賞玩が流行、値段で優劣を競い、会合等も開く
8月B伝通院寺中福聚院大黒堂落合村薬王院釈迦如来開帳、芝居あり
8月B下谷坂本小野照崎明神祭礼、山車数輌、例年よりも賑わう
9月B鉄道開業式、臨時行幸等に人々群集、山車伎踊・花火等で賑わい酒肴下賜される
9月B神田大神社祭礼、今年から隔年執行、山車35輌・伎踊台・地走跳が出て賑わう
9月B天長節に付き、東京府は市民に酒千樽与える.山車や伎踊が俄に出る
9月B浅草寺奥山や増上寺境内等で西洋画の覗きからくり興行
9月○東京府、府下劇場に興行免許の鑑札交付、三座以外の小芝居を公認
10月B下谷元御成道五軒町に梅園開園、翌春より酒肴をだす
10月E守田座新富町へ移転に伴い機構制度の改革を行う/日本演劇史年表
11月B山下御門内元薩州侯屋敷で博覧会
11月B鎌倉光明寺の正観世音像を某人買い船蔵跡に安置、請願成就を広め、参詣人多数
11月T女性の二日目から相撲見物自由となる
11月B両国橋畔の茶店・広場の見世物、虎御門外茶店、九段坂上御堀端の茶店等取払い
11月○東京府、違式註違条例(軽犯罪法の前身)を発布
11月○太陰暦太陽暦に改める、明治5年12月3日を明治6年1月1日とする