不景気が始まる明治八年

江戸・東京庶民の楽しみ 104
不景気が始まる明治八年
四月漸次立憲政体樹立の詔/五月樺太千島交換条約/九月江華島事件
・不景気をよそに花見はさかん
 明治になって中止されていた出初式が警視庁練兵場で復活。いかにも正月らしい行事ではあるが、宣伝不足のためか、観客はあまり多くはなかったようだ。当時の正月は、元旦から興行するところはなかったと見え、回向院の相撲は3日から、それも前年からの続きで、十二日には千秋楽を迎えていた。五日は、どこも賑わったのだろう、初卯詣での亀戸天神は賽銭が1万7千余銭あり、水天宮も大いに賑わったと伝えられている。そんな中、正月気分の続く八日、東京府は、芸人に税を課すというなんとも無粋なお年玉をプレゼント。
 世の中は不景気にもかかわらず、庶民は景気とは無関係に遊び楽しんでいるようだ。上野の花見は、春の大イベントに昇格したようで、サクラの咲かぬ三月から「上野山内の掛茶屋に評判女あり」との新聞記事が載せられた。四月になると掛茶屋の数は、279軒に増加。あまりにも多くの露店が並んだので、花見客のケガを避けるために「諸車通行止め」となった。さらに、花見に訪れた兵隊が狼藉を働いて、警官と衝突するというハプニングまで起きている。なお、茶店は、夕方五時に閉店しているので、夜桜の下での宴会はまださほど多くなかったものと思われる。
 五月、回向院で、早竹寅吉の軽業興行が大当たりをとった。左肩で六メートルを超える丸竹に子供を登らせ、吹き流しや鴬の谷渡り、行灯渡り、蜘蛛の巣がらみ、獅子の子落としなどの芸を見せた。早竹寅吉は、海外巡業で1万円以上稼いだという強者で、各地での興行で人気を博している。浅草では、のど芸(咽喉に穴があり)のタバコ吸い、尺八、吹き矢などの珍芸が興行されていた。この年の見世物は、よほど多かったのか、十月には、新聞に「不景気で見世物ばやり」という見出しが掲載されている。変わった見世物と言えば、十一月、銀座に体長一丈もある大イカ、安宅町ではクジラがでている。クジラの見世物は、千葉県沖で取れた巨大鯨が深川御船蔵で公開され、一日の収入が40円になったという。十二月にも見世物として安宅町で公開され、一月で1万5千人余(一日最大1650人)、3百円以上の売り上げがあった。一方、千駄木では、無許可で菊花展を催したので、売上金5円を没収された上に、罰金を1円50銭も取られたという話もある。
・女性が泳ぐ姿に話題が集まる
 夏には、暑さを忘れる納涼活動が盛んに行われていた。七月、築地合引橋の游ぎ場は日増しに人の訪れが多くなり、時には妙齢の美女がお供の下女と一緒に川で泳いだという。島田髪にちりめんの肌着で泳いだということから、大きな話題となった。女性の水泳は、水泳場(水泳道場)が開設されてまだ間もないことから、東京では初めてかもしれない。当初水泳は娯楽というよりも、江戸時代からの兵法の一術として政府が奨励した。それを民間が受け、公有水面の拝借許可を得て水泳道場を開設、一般の人にも広まっていったもの。明治六年、北本所表町の石置場において、「水泳稽古」の生徒募集を行った。水泳稽古には、様々な規則があって、現代の感覚からすればなかなか厳しそうだ。稽古は、午前八時に始まり午後六時までだが、その間道場から出ることは許されず、弁当を持参するか取り寄せるようにとなっている。また初心者は、素肌に水下帯だけにして、衣類の着用は禁止。この時点では、女生徒はいなかったものと思われる。さらに、この年、築地一丁目に開設された水泳道場は、間口二十間、休息所も広くつくられ、一人2銭の謝礼で教えてくれるということから、庶民も入門した。子供も含めて「稽古人も日々相増し、水澄む間もなし」というような盛況ぶりが伝えられている。この道場は、厳しい稽古だけでなく、飛び込みなども取り入れて、楽しく練習させていたのではないかと思われる。
・納涼に盆踊り、暑さに負けぬ庶民の遊び
 一時でも暑さを忘れようと、浅草では花屋敷に、涼しさを演出する風車場と滝がつくられた。堀切花菖蒲屋敷や向島新花屋敷でも滝の仕掛け、音羽の滝では温泉を引いて大繁盛、名主の滝には順番待ちの札が出るくらいの盛況であった。隅田川の納涼は、暑さのために涼舟を大幅に増やし、船上では写し絵や陰芝居などの趣向を凝らしている。佃島の盆踊りは、女装の男と男装の女が入り乱れて、あいかわらず大勢の人たちが踊っていた。八月の上野広小路には、涼を求めてそぞろ歩きする人が例年にもまして多かった。当時、暑い時には熱い麦湯を飲むという習慣があって、両国や上野広小路などにはたくさんの麦湯店が軒をそろえた。庶民の遊びは暑さにも負けていない、回向院の聖徳太子開帳では912円もの稼ぎがあったというから、賽銭収入から推測して10万人程度の人出だっただろう。深川富岡神社・市ヶ谷神社・今戸神社・西久保神社などで八幡祭が催された。また、中島座は大暑の頃、土間の料金を6銭2厘5毛という超安値に下げて集客を図った。
 その一方、秋の気配をさぐるためか、陰暦の七夕に新竹を屋上に上げた家が日本橋に二軒あったという。まだ江戸時代を忘れたくない人がいたのだろう。
 この年、花見、見世物、納涼というような庶民的な行楽活動には、大勢の人々が参加したものと推測され、特に、盆踊りは東京の周辺地域で再び盛んになってきたようだ。なお、盆踊りとは、地域や時代によって様々な姿を見せる。共通点は、盆の頃に踊られる、といった程度のことでしかない。踊る場所も、墓地の前、境内、旧家の庭、街道筋など様々であり、踊り自体も、輪になって踊る、踊り歩くなども多様なスタイルがある。また、毎年、日本国中で踊られているとはいうものの、では一体どのくらいの人が踊っているか、となるとちょっと見当もつかない。実態はよくわからないが、日本の夏、必ずどこかで踊られているのが盆踊りである。


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明治八年(1875年)の主なレジャー関連の事象
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1月○維新から中絶していた出初式が復活する
1月Y亀戸の初卯、お札1万7千余枚も売れるの賑わい、水天宮も賑わう/読売新聞
1月Y両国の相撲、年末年始で10日興行、見物人3万7千人
1月○東京府、演芸人税を定める
2月Y浜町の喜昇座、安価で面白さが人気を呼びこのごろ大入
2月H柳橋の柳屋で、三遊亭圓朝が怪談会(怪化會)を開催する⑮/郵便報知新聞
2月H新吉原博覧会を開催、初代高尾の木像、紀文の千両箱、助六の尺八などが公開
2月Y新富座、『天一坊』大当たり
2月○博物館所属薬園が小石川植物園と改称する  
3月H浅草寺仁王門内円形馬場で上田熊次郎形らのからくり人形を興行する
3月○世間の不景気の中、芝居ばかり大入り
3月Y上野山内の掛茶屋に評判女あり、4月には279軒に増加、夕方5時に閉店する
4月H回向院で勢州朝熊獄蔵菩薩の開帳
4月H回向院の釈迦堂で甘茶の産湯で爪も立たぬ賑わい
4月Y神武天皇祭、好天で賑わい、相変わらず絶えない兵隊の乱暴
4月H中島座も喜昇座も不相応な大入り
4月H浅草公園の植樹芸家六三郎、ボタン盆栽を席費一朱で開園
4月○鎮台の休日は、日曜日となる
5月Y回向院で、早竹寅吉の軽業興行が大当たり
5月C浅草寺境内で、のど芸(咽喉に穴があり)タバコを吸い・尺八・吹き矢などの珍芸/朝野新聞
5月Y鍛冶町の眼鏡場、世界の名所などの覗きからくり興行
5月Y出雲町の笑覧会は大入り/読売
6月N浅草西鳥越の大神宮境内に、仮山・泉水・花菖蒲数百株植え、見物人で賑わう/東京曙新聞
6月H浅草神社の社殿修理完了し、臨時祭り執行、参詣人多数
6月H聖徳太子開帳で賑わう、人気は照葉狂言、朝7時から開扉/読売+郵便報知
7月Y築地合引橋の游ぎ場は日々に盛りて、島田髪の娘も泳ぐ
7月Y竹沢万治、浅草で独楽芸が好評
7月H上野広小路に納を求める人多し
7月Y佃島の盆踊り、あいかわらず大勢踊る
7月C隅田川の納涼、暑さで涼舟大幅増加、両国も舟30艘下らぬ、麦湯店20軒ほど
7月Y浅草花屋敷が風車場と滝を完成、名主の滝が大人気、音羽の滝が温泉引いて大繁盛
8月H中島座、大暑にて土間6銭2厘5毛の極安
8月H八幡祭、深川富岡神社・市ヶ谷・今戸・西久保などで催される
8月H日本橋魚市場の水神祭、大変な賑わい
8月H大花火、二度もの延期
9月Y中村座新嘗祭東照宮のお祭と今度の大入りを兼ねて酒宴
9月H芝山内東照宮祭礼、根津神社大祭
9月Y三田へ成田不動像が到着、出迎えの群集が大騒ぎ
9月H松林伯円、行き先々で大入り
10月○本所三ツ目永倉町に茶屋を設け釣り堀を開き賑わう
10月C不景気の中、見世物だけが流行る
11月H招魂社大祭、競馬には午後から見物人が出て、桟敷の2・3ヶ所落ちたがケガ人なし
11月Y団子坂・根津神社・浅草奥山・染井・芝山内松花園で作り菊開園
11月T上野広小路、車道と歩道を分け、マツ・サクラ等を植え/東京日日新聞
11月K中村座、下等5銭からと低値芝居で大入り大当たり/仮名読新聞
11月Y紅葉の小石川植物園を無料公開
11月Y深川御船蔵で巨鯨で公開、一日40円の収入
12月Y銀座に籠細工見世物登場
12月Y安宅町にクジラの見世物が出る、一カ月で1万5千人余
12月Y浅草の市、例年通りの人出だが売上げ伸びず
12月H深川八幡の歳の市も大分賑やか