新旧娯楽を楽しむ明治十二年の庶民

江戸・東京庶民の楽しみ 108
新旧娯楽を楽しむ明治十二年の庶民
四月沖縄県設置/八月前米大統領グラント来日/九月教育令
・相撲界は混乱が続く
 当時の新聞から娯楽に関する記事を捜すと、正月に、「紛糾し、力士が大勢脱走す」という見出しがある。前年から両国での興行が許された大相撲だが、どうやら内輪もめがあったらしい。このため、九日の初日が十三日以降に延びた。また五月、相撲興行の前祝いで、力士が二人が泥酔して褌のまま踊りだし、拘引された。翌月には、力士相手に飲んでいた行事が苦情に腹を立て、料理屋の座敷で放尿するという事件も起きている。この年十月の相撲関係者は、力士が341人、年寄60人、行事30人、合わせて431人。それほど大所帯ではないが、やはりなかな大変な世界であることがわかる。
 大相撲は、年四回十日間(この年は一・二、四、六、十一月)興行、4百人以上を養わなければならないのに、それだけでは、年間観客数は合わせて約4万人(東京府統計表より)にしかならない。そのため、靖国神社の大祭に六月と十一月、二回の奉納相撲、さらに芝大神宮で稽古相撲や花相撲などを興行して、収入を増やさなければならなかった。新聞には、相撲の取組が毎月のように掲載されているにもかかわらず、経営状況はほとんど変わらなかったようだ。
 モースによれば、当時の相撲は、丸太と蓆(ムシロ)で作られた仮設小屋で行われた。枡席は150㎝四方で中には炭の入った火鉢と急須が置かれ、茶を呑みながら観戦する人もいた。場内に、ムッとするような匂いがなかったことに、彼は好感を持った。見物人は、見回りの巡査がいないにもかかわらず興奮せず静かに観戦。打ち出し後の引けも、押し合うことなく、大声で喋る者やウイスキーを売る店(当時の東京にはこんな店はなかった)に人が殺到するということもなかった。米国の格闘技の観戦状況と比べて、相撲観客は格段に行儀良かったことにモースは感心している。
 八月、「根津遊廓女学校」という奇妙な記事が見られる。貸座敷を営む松葉楼、八幡楼が発起して女学校を設け、習字や裁縫を教えるということは至極結構という内容。相撲と並んで江戸の三大娯楽と称された遊廓は、時代が変わっても、貸座敷と名前を変えて盛況を続けていることがわかる。東京の市街に約200程度の貸座敷があり、客数は年間約66万人にものぼった。貸座敷の利用については、手引茶屋を通して遊廓に登楼するという江戸時代の形態を踏襲していた。客の中には庶民も含まれていただろうがが、中心客は貧乏人ではなかった。統計上には現れないのでよくはわからないが,庶民は、楊弓場などの盛り場で私娼を相手にするというケースが多かったのではないかと思われる。
・「写真」も庶民の娯楽となる
 では、庶民の遊び場として、東京にどのようなものがあったかというと、球技場、楊弓場、大半弓場、室内射撃場、投扇競場、吹矢場などが相当数存在した。府に届けられている営業件数では、楊弓場が最も多く230ヶ所。当時流行しはじめたのが球技場(十月に22人が開業を申請)、これはビリヤードのことで82ヶ所あった。次いで吹矢場が73ヶ所、室内射撃場(おもちゃの鉄砲)が21ヶ所、大半弓場(和弓練習場)が10ヶ所、投扇競場(扇を的に当てる)が6ヶ所、計422ヶ所もあった。これらの遊び場は、浅草、芝、日本橋などの盛り場や神社の境内にあって、庶民が遊行のついでに立ち寄るというものだ。当時の利用客数だが、箇所数や納税額(約四千円)から推測して、100万人以上であったことは間違いない。
 その他にも、釣堀や貸し自転車などもあった。三月、芝公園内の旧御成門脇に、貸し自転車屋があって、料金は線香一本立つ間2銭・半日20銭・一日30銭であった。人気があったと見えて、藪入りには小僧さんたちが乗り回し、かなり繁盛したらしいが、夜間の営業は禁止されていた。
 十一月、浅草奥山に写真師が増加(37~38軒)し、客引き競争をしているという記事が載った。当時は、浅草に遊びに行ったついでに、写真を撮ってもらうということも庶民の娯楽の一つであった。どれ程の客があったかというと、仮に一軒あたり一日5~10人の客があったとしたら、年間では5~10万人を超える勘定になる。この年が流行のピークであろうと思われるが、それにしてもかなりの数の市民が写真を撮ったことになる。
 この年の府下八品商の調査を見ると、質渡世の者1946人、古着渡世4546人、古銅鉄渡世273人、染物渡世793人、西洋古服渡世530人、潰し金銀渡世166人、時計渡世163人、古道具渡世4775人、小間物渡世562人、袋物渡世574人、鼈甲渡世239人、飾商262人、飾職763人、箔打ち職65人、損料貸し1915人、仕立て職819人、上絵職85人、塗物職264人、諸車製造人164人、古書画渡世124人、西洋小物渡世411人、糶市場営業18人、鋳物職33人、鋳掛け職147人、煙管商27人、煙管職88人、革細工462人、鍛冶職585人、靴職226人、錠前職33人、以上合計25395人であった。
─────────────────────────────────────────────╴    

明治十二年(1879年)の主なレジャー関連の事象
─────────────────────────────────────────────╴    

1月Y初卯、好天で亀戸天神に人出/読売
1月C回向院の鼠小僧の墓への参詣人多し/朝野
1月N仲間うちに不平が多く、力士が大勢脱走する/東京曙
1月H亀戸天神の鷽替えが、買い入れ稀になる/郵便報知
1月 朝日新聞が創刊
2月Y節分、芝山内の閻魔堂など大賑わい
2月P上野の森の鳥猟で谷中の鶯の名所まる潰れ/有喜世
3月 オモトも兎も廃れて小鳥が流行
3月 小金井のサクラ、新宿より道路が開け便利になる
3月C芝公園内旧御成門脇で貸し自転車、料金は線香一本立つ間2銭、半日20銭、一日30銭
3月C松林伯円神田淡路町の温泉新泉楼で新講談会を催す、10銭
3月Y品川・洲崎、潮干狩りで賑わう
3月Y川崎大師でボヤ、参詣人多く一時混乱
4月C上野公園の菓子売り等から地税徴収、なお、鮨は禁ぜらる
4月Y上野・芝の東照宮祭礼、八重桜や神楽奉納などで賑わう
4月E春木座で『業平文治松達摂』を上演、圓朝の人情噺の劇化の始め/日本演劇史年表
4月Y向島の花見、10人が飲み過ぎで分署に厄介
5月C上野不忍池支那種のハスを数多く植える⑱
5月Y白金の清正公や新橋烏森神社の大祭は神輿・踊り屋台出て賑やか
5月Y西新井大師の開帳、参拝人少なく茶屋大赤字
6月Y回向院で大相撲興行
6月Y南北品川須賀神社祭礼、山車など出て賑わう
6月Y靖国神社臨時祭礼賑わう、人出の相撲場の桟敷が壊れるがケガ人なし
6月Y新宿御苑宮内庁移管になり公開、午前8時から午後4時
7月○撃剣が盛んになり、剣術の道場を開くもの現れる
7月Y廃れ気味でだったお盆の精霊祭、西南戦争機に復活
7月Y藪入りで自転車屋は繁昌したが夜間は営業禁止
   隅田川の乙姫流し、今年も柳橋芸妓の催し
7月Y相撲関係者、力士341人、年寄60人、行司30人
8月Y米国前大統領グラント来日、天皇浜離宮で会談、上野公園で歓迎大会/東京日日+読売
8月Y隅田川で水防組の出初式
9月 新富座で外国劇をやらせたが鶏を絞め殺すような声だと冷評され、不入り/音楽五十年史
9月Y深川神明祭で神輿を担いだ氏子が警察に連行
9月Y彼岸の中日、六阿弥陀に人出、白金氷川神社では彼岸桜の狂い咲き
10月Y池上本門寺のお会式、臨時列車も出て参詣人が賑わう
10月Y玉転がし大流行、22人が開業を申請
10月Y久松座、世話物「大岡調名高本読」等を公演
10月Y久松座、瓦斯灯の点火を誤り、引き幕を焦がす
11月Y芝公園で蘭と菊などの縦覧会
11月Y靖国神社の大祭、競馬と奉納相撲を興行
11月 共同競馬会が設立、戸山学校で第1回共同競馬会が開催
11月Y浅草酉の市、近年にない賑わい
11月H浅草奥山、写真師の増加(37~38軒)で客引き競争⑱
12月Y三田育種場で競馬、曲乗りの余興もあって賑わう
12月Y新富座、半額にして大入り続き、興行を延ばす
12月Y浅草観音の市、好天に恵まれ大勢の人で賑わう