不景気で変わる明治十三年庶民の楽しみ

江戸・東京庶民の楽しみ 109
不景気で変わる明治十三年庶民の楽しみ

四月集会条例/十一月天長節に「君が代」演奏

・庶民生活にしのび寄る不景気
 この年、正月の芝居の入りは数年来の最高値を記録した。藪入りも晴天であったために、閻魔堂などどこも賑わった。正月の回向院の大相撲は、好天に恵まれたこともあって二万八千人の大入り、二千円近い収入があった。二月の新聞でも「花街は不思議」と貸し座敷などの盛況が伝えられている。三月の芝居も、六月の相撲と並んで客の入りはかなり多かったという記事が見られる。しかし、東京には不景気の風が吹きはじめていた。地方では、二年前の富山の米騒動の影響に加えて、コレラの流行もあり、景気は以前よりもさらに悪化していた。四月、貧民は遂に米の一合買いが多くなったと報じられる中、米価が沸騰したために屋台丼飯店は、一膳5厘の飯を8厘に値上げした。ところが、高すぎて客が急減、60軒余もの店が廃業に追い込まれたという。六月には、窮民が増加し、諸道具を売り払って箸と茶碗をかかえ、一泊2銭5厘の宿へ移ったので、安宿が繁昌していると報じられている。さらに、十二月には「そば粉や焼き芋で飢えをしのぐ」との見出しがでているように、下層階級の人々の生活は日増しに苦しくなっていった。
 四月、庶民が米の値上がりで四苦八苦しているのをよそに、蠣殻町の米商連は、数十人で神田講武所の芸者を総揚げして、揃いの手拭いに唐桟の羽織を畳んで肩にかけ人力車で豪華な花見にくり出した。酔いがまわるに連れて、謡いやら踊りやらと、芸者連が「勧進帳」を踊ると目を細め鼻の下を長くし、あげくの果ては喧嘩をはじめるという大騒ぎを演じている。
 不景気の影を娯楽関連の資料から示すと、寄席の観客数は前年度と比べて9万人(額では18%)減少し、337万人になった。見世物は、観客数が8万人と15%減少して49万人。劇場の観客数は、四月に市村座が一人につき一銭で見せて大入りを取ったことなどがあってか、人数こそ⒈5万人程度の減少ですんだものの、金額にすると16%も減っている。また、室内遊戯場の税金が18%も減少したことは、利用者数も同じくらい少なくなったものと考えられる。東京の人口が年々増加する中で、有料娯楽を楽しむ人が減少したことは、実際の数値以上の減少であろう。このような興行観客数の減少からも、不景気がじわじわと浸透し、庶民の生活が苦しくなっていったことがわかる。
 四月、日比谷大神宮の遷座式には、奉納物が山をなし、参詣人は群れをなした。五月には、川崎大師の縁日は大勢の参詣人が訪れ、甘酒屋が大繁盛したと。七月の藪入りは、各地の閻魔堂などへ丁稚たちが繰りだし賑わった。夏の川開きも、鍵屋と南部屋打ち揚げ花火に、大勢の見物人が出た。景気のよい話しが続くが、その後は十二月に、隅田川のボート競漕に見物人が多く、吾妻橋が人力車通行止めになった記事があるくらいだ。
・賭け事とナンセンスが流行
 四月、戸山学校に設立された共同競馬会の競馬は、小雨の降ったこともあるが見物人は少なかった。祭にしても、九月に、向島や神田で、祭の費用を応分に出さなかった店に、氏子らは意趣返しに神輿が担ぎ込み、暴れ回るという騒ぎがあった。景気のよい時なら伝統のある祭には、華やかな山車がつきものだが、この年の不景気で盛り上がりに欠けたためにうっぷんが募り、こんな事件が起こったのだろう。四谷の不動尊像では、人寄せを狙う寺は、縁日に子供相撲を催している。十月には、団子坂周辺の菊作りの見世物を有料にすることに、客の入りが悪くなるという理由から、料理茶屋などが反対、対する植木屋勢もただでは見せられないと大反発した。十一月、三田育種場の競馬で、見物人に切手を売出し、当選者に利益を出している。これは、今の馬券の始まりとも見れる。不景気を反映したものか、一攫千金を求めて、二日間に1万7800枚も入場券が売れたという。
 十一月の浅草並木亭では、三遊亭円遊が自嘲的な囃子言葉とともに、大きな鼻をつまんで投げるようにして、手首を招き人形のように動かしながら、踊るという「すててこ踊り」をはじめた。また、三遊亭万橘も赤い手拭いでほおかぶりして、赤地の扇子を手に奇妙な手付き、「ヘラヘラ節を唄うという「へらへら踊り」をはじめ、流行させた。これまでの寄席芸にはなかった、ナンセンスな演し物に観客は喝采を送った。十二月、楊弓店は客を増やそうと、10本の矢を放って、一度も的にあたらない時は20銭の茶菓子代を女に支払い、逆に2本的を射れば、女は客の意のまま・・・という新企画をはじめたという記事がある。また、新吉原も、年の瀬から正月に向かって客を集めようと、花魁道中を実施して話題をつくっている。
 ステテコやヘラヘラ、花魁道中など、様々な試みがなされたが、不景気は庶民の娯楽熱を冷やしたままであった。四月に、政治集会と結社の取締りのための「集会条例」が制定された。十月、上野精養軒で基督教青年会が野外大演説会を開催。十一月には、枕橋八百松楼で自由党懇親会が開催。政治の世界は、大きく変わろうとしていたが、この年はまだ大きな事件もなく、東京の治安も比較的安定していたことから、庶民はまだ江戸時代の続きを楽しんでいた。
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明治十三年(1880年)の主なレジャー関連の事象
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1月Y亀戸の妙義社、初卯参りで賑わう/読売
1月Y初金比羅虎ノ門近辺は大賑わい
1月Y藪入り、天気よく閻魔堂など賑わう
1月Y芝東照宮の中祭、神楽も奉納され賑わう
1月Y回向院の相撲に興行、好天で28,000人余
2月H芝公園丸山、見苦しい茶屋を残らず取り払い、腰掛台を設け花木を多く植えると/郵便報知
2月H飛鳥山公園にサクラ・カエデ1000本植栽
2月C花街の景気ふしぎと盛ん/朝野
3月C寄席で興行すべき種目を定め、4月より取締ると口達する
4月H上野公園で内務省博物局主催の第1回観古美術会を開催
4月H戸山の共同競馬、小雨もあって見物人はなはだ少なし
4月Y上野・芝の東照宮祭礼、上野では撃剣会奉納
4月H日比谷大神宮遷座式、奉納物山のよう、参詣者群をなす
5月Y牛込のバラ園、満開に観覧客が出始める
5月Y川崎大師、縁日に参詣の人波、甘酒屋が大繁盛
5月Y烏森神社大祭、芸者が釣狐の踊りを奉納
6月N回向院に興行の相撲見物、十日間で24000人余/東京曙
6月H日本一の大提灯が浅草観音に奉納される
7月Y藪入り、丁稚ら繰りだし各地の閻魔堂が賑わう
7月H川開き、藪入りと重なり各橋は通行止めの出る混雑、140本打ち揚げ、仕掛け花火85本
7月Y両国の川開き、旅客の便をはかり臨時列車を運行
7月N千金丹売り千人余、気味の悪き売薬屋なり/東京曙
8月Y両国の花火、鍵屋と南部屋打ち揚げ、陸に見物者多数
8月Y蘭の栽培流行
8月Y品川鮫洲の八幡社祭礼賑わい、桟橋から落ちた見物人を神輿の若者が救う
8月Y亀戸天神の祭礼、久しぶりに神輿渡御
8月Y今戸の花火賑わう
9月Y四谷の不動尊像、縁日の人寄せに子供相撲を催す
9月Y浅草奥山の花屋敷内にて、珊瑚珠の見世物を興行
9月Y向島や神田で神輿があばれる
10月 上野精養軒で基督教青年会が野外大演説会を開催
10月L浅草公園地の森田六三郎方の作り菊開園する/東京絵入
10月Y彼岸桜、上野で咲く
10月 団子坂の作り菊、有料・無料で悶着
11月Y池上本門寺、四谷集芳園などで菊花壇造成
11月Y三田育種場の競馬で、切手を売出し、当選者に利益をだす、馬券の始まり
11月E三遊亭円遊「すててこ踊り」、三遊亭万橘「へらへら踊り」流行/日本演劇史年表
11月 枕橋八百松楼で自由党懇親会を開催
12月Y隅田川でボート競漕、見物人多く吾妻橋は人力車通行止め
12月 浅草三社前の寄席に石井ブラック流暢な日本語で英国小説の人情噺を演ずる
12月 新吉原五軒の大楼で、吉原娼妓の行列、大門を出て歩く
12月H深川八幡歳の市、場末の縁日ほどの人出もなし