明治らしくなる十四年の庶民の楽しみ

江戸・東京庶民の楽しみ 110
明治らしくなる十四年の庶民の楽しみ
七月開拓使官有物払下げ事件/十月明治十四年の政変、自由党結成
・うさ晴らしか、ステテコ踊りが大受
 亀戸天神の初卯は、日曜日で天気もよく参詣人が多く、往来は人力車で埋まった。藪入りも日曜日と重なり、閻魔堂はもちろん、寺社公園・寄席・安芝居は賑わい、手軽な飲食店が大繁盛した。さらに、初甲子も日曜、小石川伝通院は非常に賑わった。行楽地の盛況が伝えられる中、寄席も蕎麦屋も大不景気につき休業続出という記事がある。新年になって、もり蕎麦、かけ蕎麦が3厘値上げされて1銭5厘となった。前年にも増して景気は悪化している。

 寄席の観客は前年より70万人近くも減少し、廃業した者も32名におよんだ。その一方で、三遊亭万橘の「ヘレヘレ」や円遊の「ステテコ」という演し物だけは異常なほど人気を集めていた。このステテコ踊りについて、新聞は、これまでの寄席芸とはかなり異質のもので「物価高騰のうさ晴らし」として流行していると解説した。
 「明治十四年の政変」など、大隈ら権力者の争いをよそに、庶民はただただ不景気に耐えていた。二月の新聞には下谷徒町の湯屋開業に関する記事がでている。その湯屋は、相場の1銭3厘に対して1厘引きで営業をはじめたので、新しいこともあり大繁昌した。そのため近くの湯屋は、それに対抗して8厘に値下げして客を奪い返した。すると今度は、新しい湯屋も2厘引きの1銭にして対抗。が、客は戻らなかったという話。

 巷では、値上げが横行する一方でダンピングも進んでいった。三月には、焼芋屋の釜の前に大勢の人が寄ってはくるものの、たかだか1厘5毛という安い芋が集まった人数ほど売れないと、ぼやきにも似た記事が見える。また、この当時の楊弓場の女の給料について、神明、奥山、天神を経た者が月額4円、その他についても1円50銭以上と、芝愛宕山下の相場が書かれている。ちなみに、同じ頃に新設された神道事務局の総裁の月給は80円、副総裁が50円と聞くと記されているが、楊弓場の女の給与は高かったのだろうか。
・不景気でも博覧会は大賑わい
 三月、上野公園で第2回内国勧業博覧会が行楽シーズンに向けて開催される。このイベントは六月末日まで行われ、82万人(鑑札を含めると91万人)の来訪があった。不景気でもありこれ以上客を取られてはたまらぬと、浅草では、四月に女の足芸の見世物が興行された。五月には奥山で、篠塚のお春が劒渡りの芸で喝采を博した。それは、十九歳の太夫が、剣をわたる時、割褌もつけずに、緋縮緬の蹴出しを高々とまくり上げ、梯子の登り際に番外の宝物を拝ませると新聞に書かれている。さらに、六月には奥山で、熊と女の相撲興行が人気を呼んだが、これは猥雑だとしてことで停止を命じられた。また、浅草寺本堂では十万人講が催され、わずか三カ月で達成し一人36銭の掛け金は、3万6千円にも達した。
 博覧会の来訪者は、最も多い日が約2万4千人(集中率約3%)、平均して8千人が毎日訪れていたことになる。このイベントは、市民のレジャー活動を活性化させ、以後行楽へとあちこちへと出歩いている。七月の浅草四万六千日は、中山子育観音開催中もあって一層の賑わい。川開きには、茶屋のすべてが貸し切りになるほど賑わった日があった。

 八月には、深川八幡の祭礼、山車24・5両、踊屋台・地走りなどを曳き出し、近年にない賑わいだった。また、二度目の花火大会で数十本の花火が打ち揚げられ、水陸とも大層な見物があって、食べ物屋はどこも売り切れるくらいの大繁盛であった。九月に入っても、麻布笑花園の七草が盛りで、風流人が多数来訪。彼岸には、庚申の帝釈天に参詣人が多く出ることから臨時派出所が設置された。十月の池上本門寺のお会式は、日蓮六百年忌ということで大当たりと言われるほどの参詣人で賑わう。
 十一月の酉の市は、二の酉まで、熊手がよく売れるなど参詣人が多かった。新富座は、相変わらずの大入り。久松座は、入場料を上等平土間にかぎり半額にするというサービスを行った。十二月の本郷春木座は、茶屋狂言で大入りになった。浅草千束村で勧業場(勧工場カンコウバ)が開業した。

 勧工場は、第一回内国勧業博覧会で売れ残った品々を陳列販売するところからはじまったので、人々は博覧会を訪れるような気分で見物していた。観覧人は、入口で下足をあずけて草履に履き替え、陶器類、家具、漆器、小物類がならんでいる中を見て歩いた。ただ、若い女性が接客する今のデパートと比べると、販売人は店の小僧たちばかりで味気ないものであった。場内の休憩所は公園の茶店のように赤い毛布の床机があって、蕎麦や汁粉、鮓なども売られ、これまでにないくつろげる百貨店として、子供も大人にも人気があった。売れ行きも好調であったらしい。売れ筋は、下駄とステッキ類であった。
 十月、この年二月にオープンした明治会堂で演説会が行われた。国会の開設を前に、政治演説会が頻繁に催されるようになった。浅草須賀町の井生村楼で自由党結成式が開催され、十二月には自由党結成の盟約四条が制定された。こうした、民衆の政治への関心を高めようとする動きに対して、十月の新富座で予定されていた政談演説会が中止させられるなど、政府の取締りは強化された。当時、東京区部は約98万人の人口を擁しながら、東京府会選挙に投票できる人はわずか約4千人足らずであった。
─────────────────────────────────────────────╴    

明治十四年(1881年)の主なレジャー関連の事象
─────────────────────────────────────────────╴    

1月Y亀戸天神の初卯、日曜日で天気よく参詣人群集、往来が人力車で埋まる/読売
1月H賽日と日曜重なり、閻魔堂、寺社公園・寄席・安芝居は賑わい、手軽な飲食店も繁盛/郵便報知
1月H初甲子、日曜が大祭日となり小石川伝通院は非常の賑わい
1月Y四谷の桐座の女芝居が人気「鈴木主水」など大入り
2月T芝公園に宴会用豪華料理屋、紅葉館落成/東京日日
2月 築地木挽町に、明治会堂(1500人収容)が完成
2月N京橋の金沢亭夜席は、ヘラヘラ、ステテコの人気で大入り/曙
3月U上野公園に博物館落成
3月Y上野公園で第2回内国勧業博覧会が開催される
3月T浅草寺本堂の十万人講、わずか三ヵ月で達成
4月H浅草公園の見世物に女の足芸あらわれる
4月Y浅草の踊りの師匠と弟子たち、揃いの蝙蝠傘などで花見
4月 向島下流へサクラ植え足し、花の堤15里
4月 芝公園内の能楽堂が舞台開きを行う
5月V芝森本町開盛座、道化踊4銭と安く大入り、桟敷落ち、ケガ人二百余名①/いろは新聞
5月H浅草神社祭礼、山車踊り屋台を曳き出し、神輿の渡御もあって近年にない賑わい
5月V浅草奥山の念仏堂で、子育観音開帳
5月 靖国神社境内に遊就館が完成
5月Y浅草奥山で、春女の劒渡りの芸で喝采を博す
6月V浅草奥山で、熊と女の相撲興行が行われ、猥雑だと停止
6月H浅草鳥越明神、中橋須賀神社例祭
6月Y麻布・広尾の笑花園、ハナショウブ見頃
6月Y博覧会、池の花火賑わい、人波で気絶する女性も
7月Y講談一体が下火となり、絵入りの講談を行う
7月H浅草四万六千日、中山子育観音開帳中で一層雑踏を極める
7月Y本所丁子湯温泉わきの素人相撲、見物客3百人が大騒ぎ
7月Y両国の川開き、茶屋すべて貸切りになるほどの大賑わい
8月H深川八幡の祭礼、山車24~5両、踊屋台・地走りなど近年にない賑わい
8月Y花火数十本打ち揚げ、水陸とも大層の見物人、近所の食物店いづれも売切れ大繁盛
9月Y久松座の夜芝居が大入り、春木座は打納めて巡業へ
9月H彼岸の中日、庚申の帝釈、参詣者多く臨時派出所を設置
9月Y麻布笑花園の七草が盛りで、風流人が多数来訪
10月Y池上本門寺日蓮六百年忌につき、参詣者一層の群集
10月H演説会、明治会堂、新富座、浅草井生村楼などで催される
10月T新富座の政談演説会中止⑭
11月 浅草井生村楼で自由党結成式を開催
11月P講談、落語家が春木座で芝居/有喜世
11月Y浅草田圃の酉の市、人出で賑わい、熊手がかなり売れる
11月Y二の酉も賑わう、小春日和で鷲神社に参詣者が群集
12月H浅草公園付属地千束村に勧工場、蕎麦・汁粉・鮓等の店も開業
12月Y本郷春木座、茶屋狂言で大入り
12月Y馬喰町の大相撲、一週間で1613円の大入
12月 学校等を使用する集会の取締を府県に命ず