江戸・東京庶民の楽しみ 111
コレラが及ぼす十五年の庶民の楽しみ
一月軍人勅諭発布/三月立憲改進党結成/四月板垣退助岐阜で遭難
・動物園は大人が訪れた
一月、東京の景気は底を打ったのだろうか、改善した形跡がないにもかかわらず、庶民の娯楽、特に下層階級の娯楽活動が活発化している。前年の正月に比べて、見世物の観客が74%、道化踊が36%、寄席は29%が増加した。料金の高い劇場については、所得者層の懐具合が良くなっていないせいか、一月こそ観客は4%増えたものの二月以降は逆に減少している。それに対し、見世物などは、二月、三月に入っても観客数は、増加傾向を持続している。なお、道化踊は、前年あたりから流行しはじめたらしく、三月に下谷一丁目、芝森本町、牛込赤城町、深川森下町の4ヶ所三座で、道化手踊興行が許可されている。
三月、上野公園に博物館付属の施設として動物園が開館した。この年の入場者数は18万4912人であった。どのような人が見にきていたかと調べると、意外なことに大半が大人であった。動物園設立の当初の目的は、あくまで博物教育を第一としていたようで、現在のように家族連れで「動物園にパンダを見にいく」という娯楽第一の使われ方は、ほとんど想定されていなかったようだ。翌十六年の記録によると、開園当時の動物の数は獣類49頭、鳥類13ま羽、爬虫類19匹、魚類120尾であるから、大きな「花鳥茶屋」という江戸時代の感覚で訪れていたのだろう。
この年、見世物で最も人気のあったのは、三月に品川で興行され初日から大入りの曲馬興行(サーカス)である。五月にも日本橋箱崎町の舊開拓使用地で催された。この見世物には、江戸時代に大津絵五変化の早変わりを演じた渡辺捨次郎一座が出演した。当初は15日間の予定だったが、初日に3千余人の大入りを達成して、十日間も日延べされた。なお、曲馬は、好評を受けて十月にも千住南組天王社で興行している。浅草では、三月に竹沢藤治が独楽興行し、大評判をとった。五月にもヤマガラの芸が大評判で、二千円も稼いだ興行者が借金をそれで返したとの噂もある。見世物は、庶民の娯楽として以前にも増して受けているように見える。
六月、新橋と日本橋間に馬車鉄道が開通し、初日は雨天にもかかわらず、ものめずらしさも手伝って六台の馬車は終日満員だった。料金は一等が3銭、二等が2銭であった。ただし、この鉄道は、馬車に馴れていない子供が轢かれたり、ぶつかったりする事故が多発した。十月には、浅草・上野間が開通し、その翌月にはイギリスから輸入された車両も運行し、馬車鉄道は明治の東京を彩る景物となった。
・コレラの大流行
七月、春ごろに発生していたコレラが大流行し、東京の歌舞伎などの興行が全面禁止となる。七月七日までは患者が少なかったので氏名が載っていた、月末には区毎に患者数を集計し、その一覧表は九月二十一日まで続いた。コレラ患者の報告は、検疫局の閉鎖された十月十三日まで掲載された。庶民は祭を催すこともできず、遊びに行く所もなく、といって不景気で仕事もない。さぞかし暇で困っただろう。ただ、秋に入ってコレラ騒ぎも収まり、臨時に催される見世物などに出かけはじめ、17日に春木座が開場、彼岸には六阿弥陀の各寺院で大施餓鬼法会、西新井総持寺で弘法大師開帳などが催された。
また、市ヶ谷八幡や若宮八幡などでは、コレラ退散の祝いを兼ねて、山車や手踊りなど賑やかに祭を催した。十月には、浅草奥山の花屋敷が催した菊人形は、日曜日の入場者が約5千人にも達する大盛況。徐々にコレラ発生以前に人々の気持ちが戻るかと思われた。が、十一月の初酉は、諸商人がところ狭しと店を並べたが、思ったよりは訪れず景気は回復していないようだ。二の酉も賑わいはあるものの、売上げは伸びなかった。さらに、十二月の歳の市、薬研堀不動の人出は例年より少なく、市商人も減少。浅草の歳の市には、年々不景気になるとまで書かれていた。この年は、東京府全体で約5千人がコレラで死んでいる。
・ボートレースが恒例化
この年注目するレジャーにボートレースがある。十一月、隅田川の吾妻橋上流で、海軍省の短艇競漕・水雷発火演習が明治天皇台臨のもとに行われた。この時の様子というと、川岸近くは「見物船が並び、土手はもちろん、両側の家々では物干しまで見物の桟敷にして、陸も河も人山が築かれた」というような賑わいだったらしい。競漕は、午前10時30分から午後5時30分まで、なんと7時間にわたって行われた。この競漕には、天皇から賞金として当時のお金で50円が下されている。レースの合間には、水雷発火演習も行われ、爆発の度に水煙が立ちのぼりまるで花火のようで、周辺には水滴が雨のように舞った。
これは、海軍の軍事訓練の一貫として行われたものだが、翌年の夏、これを真似るようにほぼ同じ場所で、東京大学と東京師範の同好会同士で対抗競漕試合が行われた。もっとも、レースといっても内容は、競技というよりレクリエーションに近いものだったらしい。この勝負は、東京大学が呼びかけたにもかかわらず、勝敗は東京師範の全勝であった。というのも、東大のボートは捕鯨船の艀として使っていたもの、それもかなりのお古だった。それに対し師範の方は四艇立ての新艇であるから、まるで勝負にならない。以後、ボートレースは恒例化して、隅田川の風物詩となっていった。
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明治十五年(1882年)の主なレジャー関連の事象
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1月H初卯の亀戸天神、午後より参詣者で賑わう/郵便報知
2月Y亀戸の臥龍梅、小村井の梅園などかなりの人出/読売
2月○東京府、劇場取締規則が布達
2月C南葛西郡で狐踊りが大流行/朝野
3月Y品川のサーカス、初日から大入の人気
3月U上野公園内に博物館(日曜5銭平日3銭)動物園(日曜2銭平日1銭)が開園/上野動物園百年史
3月Y竹沢藤治が浅草奥山で曲独楽興行し、大評判をとる
3月 開店や大売出しに景品を出すことは、富籤類似行為と取締り
3月Y本郷の春木座、総幕が出揃い大入
4月 浅草本願寺で、観古美術博覧会(3~7銭)、天覧を賜る
4月H回向院の灌仏会、甘茶50石用意し、売上げ午後四時で30余円、賽銭百円内外か
5月T日本橋区新よし町寄席大鉄、カッポレが人気で大景気、演劇類似で中止に⑨/東京日日
5月Y浅草公園地の花屋敷で、盆栽に正札つけ、縦覧者に景を呈し、購入者に景品を出す
5月G日本橋箱崎町で曲馬興行、初日が三千余人の大入りにて、15日間が10日間日延べ
5月Y浅草公園でヤマガラの芸が大評判、2000円稼ぐ
5月 富籤の売買再度禁止される
6月 新富座は経営難から猿若座と改称し、桟敷一間4円50銭の高値になる
6月H両国の大花火、川開きより早く、賑わい少なし
6月Y本郷の春木座、大入り御礼に「馬切」を中幕に一幕追加
7月H川開きの大花火、途中から雨で中止⑮
7月H本所の舊壽屋跡へ常盤座という操り人形芝居できる
7月H再度の大花火、人出ずい分多く賑わう⑳
7月○東京府、コレラ発生のため歌舞伎などの興行が全面禁止
8月Y警視庁、吹き矢取り締まり
9月H府下の六阿弥陀、各寺院で大施餓鬼法会、西新井総持寺で弘法大師開帳⑭
9月H市ヶ谷八幡、若宮八幡などで山車や手踊り等を出しコレラ退散の祝いを兼ね祭を賑やかに/郵便報知9月Y春木座初日、桟敷3円15銭、平土間2円60銭
9月H日本橋魚市場の水神祭、縁起直し旁々山車3本引き出し、仁和加踊りなど催し賑やか
10月 千住南組天王社で大曲馬興行/諸芸新聞
10月Y浅草奥山の花屋敷は造り菊見物で、日曜日の入場者が約5千人の人出
10月T浅草・上野間に鉄道馬車開通③
10月T上野公園で第一回内国絵画共進会を開催
10月○警視庁、床店、葦簾張り、軍談、軽業、たこあげ、独楽などの街路取締り規則を改定
11月Y品川天王社内の菊花展催す
11月H初酉、諸商人所狭しと店を張るが、思ったより群集ならず、上がらぬ景況
11月T銀座2丁目の大倉組前で、4千燭光のアーク灯が点灯、夜賑わう④
11月H二の酉、天気よく土曜日の午後から一層の賑わい、参詣の割に銭が落ちない
11月Y隅田川で海軍省が短艇競漕と水雷発火演習、天皇台臨
12月○三河万歳の市中での門付け不許可
12月H薬研堀不動の歳の市、好天気だが人出例年より少なく、市商人も減少
12月C浅草の歳の市は、年々不景気になる