運動会が広がる明治二十年

 

江戸・東京庶民の楽しみ 117
運動会が広がる明治二十年
六月憲法草案執筆開始/十二月保安条例施行、尾崎行雄ら追放
・市民に広がる運動会
 東京市の人口が123万人となり、交通機関の発達もあって、市民の行楽地は少しずつ広がっている。一月、東京府の南端、羽田の穴守稲荷への参詣が盛んになった。三月、葛飾に新設された立春梅園のウメが満開となり、風流な庭園を多数の見物人が訪れた。四月に曳舟四ツ木花やしきが開園。大久保のツツジは再び注目され、年々華やかになった。五月、堀切のショウブ園などへ多くの人が出かけていった。夏の風物詩、入谷の朝顔市は、華族から庶民まで続々と来訪し繁盛した。九月には、秋の七草で有名な向島百花園だけでなく、柳島の萩寺にも多くの人が出て賑わった。秋は、各地の菊人形に加えて、品川・海晏寺の紅葉も数十本植えましたこともあって見物客が多かった。このように江戸時代からの行楽活動を楽しむ人々がいる一方で、新しい行楽活動をする人たちもでてきた。
 それは、新たに東京に住みはじめた人々や新しい教育を受けた人たちの活動である。これまでの遊びとは異質な組織や集団で行われ、庶民の遊びにも明治の形態が成立する。その代表格が学校を中心に形成された運動会であった。二月に、東京商業学校が飛鳥山で大運動会を開いた。三月にも、京橋の婦人洋服女学校が向島八州園で運動会。第一高等中学校は、午前五時に軍装出集合し、本所から鴻ノ台まで学生行軍を四月に挙行。品川の御殿山では、麻布・赤坂の公立小学校の連合運動会が開かれた。その規模は、生徒が2千人、見物客は父兄を除いても3千人にものぼった。この頃は、あちこちで運動会の開催が流行し、小学校から大学まで、さらに職場にも広がった。
 運動会をする場所は、華族の邸宅の庭の場合もあるが、公園や練兵場などの広い場所へ出かけて行われることが多かった。そのため、運動会が生徒たちの遠足をかねている場合があり、体を鍛える行事という一面もあった。たとえば、十月におこなわれた築地の尋常中学校の運動会では、生徒の多くは午前五時に家を出て、七時半に上野教育博物館前に集まり、三時間かけて飛鳥山まで歩いた。さらに付近の滝野川へも足をのばし、その後に綱引きを行い、昼食を食べて帰宅している。
 五月、第一高等学校が飛鳥山で、職員と生徒の運動会を開催した。慶応義塾でも、前年から開催し、遊戯会という名称で運動会を開催している。十一月、帝国大学は第一回陸上運動会を開催し。当初、学生たちがおこなっていた運動会はスポーツが中心であってたが、観客が多くなるにつれて競技に人気が集まり、行楽の要素が加わっていった。また、競技種目は、相撲や綱引きといった従来型の日本的な競技、さらには仮装行列やダンスなど見世物的な要素が強くなった。
 運動会は、アッという間に市民にとって未曾有の大イベントに発展し、祭礼同様、年中行事化し、スポーツというより行楽活動そのものになった。そして、春と秋の季節に年2回開かれる運動会は、我が国特有の学校の恒例行事として今日も続いている。運動会が人気を博したのは、子供を中心とする行事のため、貧富や身分などにとらわれないで誰でも気軽に参加できたことが大きい。また、その大半が無料で、お金をかけずに楽しめるも大きな理由である。さらに、東京に新しく住みはじめた若い人々が、花見や遠足の気分で容易に参加できたこともある。運動会は、明治二十年代には市民の一割以上の参加が見込まれる一般的な行楽活動に成長している。
 もっとも、運動会は、誰もが自由に催すことができるかといえば、そうではなかった。二年前に東京府は、運動会を許可制にしている。そのため、学校行事の運動会はほとんど関係ないが、労働組合が行う運動会にはお上の目が光っていた。十月には、上野公園での日本壮士大運動会が治安妨害を理由に解散させられている。また、活発化する自由民権運動を押さえ込むため、十二月の末には保安条例が公布された。
 五月、木挽町でボクシング・レスリングが興行され、初日は三千人もの見物人があった。六月には、京橋の南小田原町で国際角力が開かれた。晴天7日間、入場料は一等8円、二等50銭、三等30銭、四等15銭であった。スポーツは、徐々に市民に身近なものになってきた。しかし、貸し自転車の流行でもわかるように、遊びとしてで、身体を真剣に動かすには至らなかった。四月の帝大ボートレースにしても、運動会にしても、見世物のように見て楽しむものであった。
・浅草に人造「富士山」が出現
 十一月、浅草公園六区に高さ32m、裾回り270mの張り子の人造富士山が1万6千円をかけて完成した。正式名は「富士山縦覧場」、裾野の登り口から螺旋状に十周回り、登り約360m、下り約414mで、年寄り子供でも容易に登れるものであった。頂上には、望遠鏡を設置し、そこから富士山はもとより足柄山や鹿野山など関東一円が見渡せた。料金は、大人五銭、子供三銭である。この料金設定から、年間の利用者数は20~30万人を想定していたものと推測される。まだ当時、富士山を信仰対象とする富士講が各地にあって、浅草の人造富士山にも完成後に信者が大勢つめかけ、混雑がひどくて登山できないという大騒ぎが起きた。ピーク時には、一日6千人程度の登山者があったことから、年間20万人以上の利用者数があったと思われる。
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明治二十年(1887年)の主なレジャー関連の事象
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1月H初日の出、上野公園・湯島天神神田明神などの人出、前年よりかなり多いと/郵便報知
1月H羽田の穴守稲荷参詣盛んとなる
1月Y藪入り、浅草公園新富座等が大賑わい/読売
1月Y義太夫の入場料相場、人気の竹本越路太夫で15銭
1月 木挽町厚生館でフランス俳優六名の演劇が行われ四百余名の観客にて盛会
2月Y春木座大当たりで興行延長
2月Y新柳亭で人気の越路太夫、来月は本郷若竹・芝の玉ノ井へ出演
2月H東京商業学校、飛鳥山で運動会
3月Y木挽町の相撲、好況で3日間日延べ
3月H工科大学の「活人画」盛会/読売・郵便報知
3月H京橋の婦人洋服学校、向島八州園で運動会
3月Yチャリネと交換したトラの子、上野動物園で人気
3月Y新富座、入場料が格安で俳優も総出演で近年にない繁盛ぶり
3月Y市村座、29日の大入りで定価の三分の一、二日目半額
4月Y上野のサクラ満開、日曜と共進会とが重なり曇天ながら大賑わい
4月H上野黒門口、車坂口等4ヶ所に電気灯点火、夜桜見物多く付近の料理屋盛況
4月H第一高等学校、午前五時に軍装で集合、本所からこおのとり鴻ノ台まで学生行軍
4月 曳舟四ツ木花やしき開園
4月O首相官邸仮装舞踏会/やまと新聞
4月 帝大のボートレース、以後毎年行われる
5月Q秋葉原下谷の貸し二輪自転車が流行する/毎日
5月H木挽町でボクシング・レスリング興行、初日3000人の見物
5月Y堀切のショウブ園、本所四つ目のボタン、人出多し
5月Q浅草公園の旧勧工場跡にて、曲乗り水上自転車の興行
5月 浅草の道化踊興行許可される
6月H京橋区南小田原で国際角力、晴天7日間、一等8円、二等50銭、三等30銭、四等15銭
6月H日枝神社大祭、花車練り込みなかなかの賑わい
6月H柴又帝釈天、堀切の菖蒲見物を兼ねて参詣者多し
7月H回向院の大相撲、5月十日間で2446円、税金122円、一月は3423円
7月Y両国の川開き、遊船宿満杯、料亭貸し切りなど盛況
7月Y肥船が筵を敷いて見物船に、客は臭い大弱り
7月H四万六千日、一夜を明かす連中多く、店深夜まで開き相応の賑わい
7月H藪入り、浅草仁王門の楼上見物下足代1銭、公園・緞帳芝居大入り
8月Y入谷の朝顔市が繁盛、華族から庶民まで続々来訪
8月Y向島百花園秋の七草で賑わう、柳島の萩寺も人出
8月H日本橋中州、夜興行の許可願い20名出す
9月H日本橋中州、地獄極楽(迷路)・辻講釈・大弓・楊弓・氷店・浴場・軽業など月見方々納涼
9月H柴又帝釈天、祖師堂開帳中で朝参り群集し非常な賑わい
9月Y神田の祭礼、万世橋近辺は身動きできぬ雑踏
10月Y船宿が盛況、釣り舟・網船の予約多く好景気
10月H池上本門寺会式が非常な賑わい、堀之内祖師堂の会式も繁盛
10月Y上野公園に日本壮士大運動会と称して壮士集合するが、治安妨害を理由に解散
11月Y上野不忍池畔の競馬、天皇も出席して大層な人出
11月E中村座で「因幡小僧雨夜噺」を上演、菊五郎が評判をとる/日本演劇史年表
11月H浅草公園六区で高さ32m、裾回り270mの張り子の富士山が望遠鏡を備えて興行⑨
11月H二の酉、浅草大鷲神社、一の酉より一層賑わしき景気、飲食店・人力車も相応の賑わい
11月 帝国大学、第一回陸上運動会開催
11月Y品川・海晏寺の紅葉、数十本植え増し見頃、見物人で賑わう
12月Y深川歳の市、夕刻よりすこぶる繁盛する
12月Y浅草歳の市、出店者390程度で前年より100程減少で相応の景気
12月H薬研堀の歳の市、例年どおりの商人並ぶが小雨振りだすと投売り模様に