新たな楽しみが増える二十三年

江戸・東京庶民の楽しみ 120
新たな楽しみが増える二十三年

七月第一回総選挙/十月教育勅語発布/十一月第一回通常議会開催
・上野は、博覧会にパノラマで大賑わい
 この頃になると、市民の遊び場が続々と作られていく。この年、人々が最も注目したのは、浅草の新名所・凌雲閣であった。別名、浅草十二階とも呼ばれ、十階までは煉瓦造りで、十一階と十二階が木造の建物である。当時の建物としては、最も高く約67メートル、八階まで日本最初のエレベーターが設置され、明治を代表する壮大な建物であった。オープンしたのはずっと後の十一月になってからであったが、新聞にはすでに正月から凌雲閣についての記事が見られる。それに対し、前年完成した愛宕公園の愛宕館(愛宕塔)は、新聞にもあまり取り上げられず、正月の見物人も少なかった。ちなみに、愛宕塔は、当時東京一の高さ約60メールで、登料6銭出あった。
 四月には上野公園で第3回内国勧業博覧会が開催された。博覧会は、花見の時期と重なり、「花の上野より人の上野」という見出しが出るほどの混雑であった。四カ月間の観覧者数は、102万人とかなりの賑わいのあったことがわかる。人気の目玉は電汽車(電車)で、公園の摺鉢山から屏風坂までの四丁(436メートル)程度の距離を往復した。この電車は、東京電灯会社によって試作の車両(乗車人員は50名)を二輌編成で運転したものである。試乗料金は大人2銭、子供1銭だった。
 五月、上野公園の護国院脇にパノラマ館が開場する。上野公園のパノラマは、戊辰戦争、白河戦争の実況を写したもので、小高い場所から実際に現地で観戦しているような気分にさせるものであった。数日遅れて、浅草にもパノラマ館が開場する。浅草のパノラマ館は、上野よりも大きく高さ約十八メートル、周囲約144メートルの十六角造りであった。出し物は、米国の南北戦争を再現したもので、観客はパノラマの臨場感に大喝采を送った。浅草のパノラマ館は、十一月には入場者が20万人を超えるという人気であった。
 六月には、二年前に立てられた五階建ての浅草奥山閣に、蠟管蓄音機が設置された。が、これは、細い管を聴診器のようにして耳にはさむと、歌や三味線の音が聞こえるという程度のもので、雑音も多く、まわりの人にはジージーという音が聞こえるだけの代物だった。しかし、それなりの人気はあったようで、2銭ほどの料金を取って聞かせる商売が縁日などで明治三十年代まで続いた。
・不況に流行るキワモノ見世物
 この年、コレラがまた流行。回向院の大相撲が雨天や力士の病気で人気なく、九日で切り上げた。五月の遊技場取締規則制定。八月の劇場取締規則改正。それらの規則によって、球技場のすべてが違反となり営業停止、寄席の売り物が続出、と市民レジャーにブレーキがかかった。また、この年は、恐慌で都市の貧民層が増加し、十月の本門寺会式は数年来の繁盛との一方で境内には乞食があふれていた。
 景気が悪くなり、見世物の入りが悪くなると、際物的な出し物が人気を取る。中州に八尺を超える大女の見世物が出た。九月の芝神明の祭にも出ている。十一月には、回向院の境内で女相撲が興行され、むずかしい醜名になると行司が手こずり、とばして読むなど大爆笑のなかで進められ大盛況だった。が、始まって約二週間で警視庁から好色の嫌疑がかかり、差し止められてしまった。この女相撲、裸ではなく着衣の上にまわしを締めたもので、18人が東西に分かれて勝負を競った。禁止された後も、力持ち芸として興行が続けられたところを見ると、当時停滞していた大相撲よりも入りが良かったのだろう。そして、それをねたんだ相撲協会がクレームを付けたという噂もうなづけなくはない。女相撲は、東京では興行できなくなったが地方では、昭和になっても続いていた。
 気球が見世物として興行された。横浜公園で千人以上の見物人の前で、イギリス人のスペンサーが気球に乗り喝采を浴びた。十一月には、天皇・皇后両陛下の前で乗り、上野公園では、上等席一人1円、中等席50銭、下等20銭、子供半額で興行された。この時どのくらいの観客が集まったかは書かれていないが、東照宮前竹の台から旧博覧会場内まで立錐の余地がなかったとある。なお、大臣たちは博物館の屋上から、その他の広場にも5・6百人ほどの見物人がいたというから、こうして無料で見た人を含めると、数千人が見物しただろう。1千メートルほど上昇し、「例の傘(パラシュートか?)に乗りて」飛び下り、根岸の畑中に落下したが怪我はなく、人力車に乗って無事上野公園に帰ってきた。
・十二階の「凌雲閣」、浅草の新名所に
 十一月の末には、凌雲閣がオープン。縦覧料金は大人8銭、子供4銭であったが、エレベーター(15~20人乗り)を使用すれば、八階まで一気に(約一分)登れると銘打っている。建物は八角形で、三十二坪(約106㎡)の広さ、二階から八階までに46戸の売店が入り、九階は上等休憩室で美術品の陳列や楽器、電話等が飾られていた。十階は周囲に椅子のある眺望室、螺旋状の十一階を上ると、十二階には望遠鏡が設置してあった。凌雲閣は、いわゆる遊戯施設でも劇場でもないが、多くの市民を引きつけ、明治の浅草になくてはならないシンボルとなっていった。
 十二月の新聞は、七月の第一回総選挙で選ばれた国会議員による初めての帝国議会の会議内容で埋められた。そのため、市民のレジャー情報は、浅草の歳の市程度であった。歳の市は人出が多かったものの、不景気で羽子板が値切られ、スリが20人も逮捕されたように、暗そうな年の瀬であった。
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明治二十三年(1890年)主なレジャー関連の事象                                                  ─────────────────────────────────────────────╴    

1月H上野は例年より人出少なし、浅草は大晦日と引換え賑わい、芝愛宕は新築愛宕館見物6銭で少なし/郵便報知
1月H川崎大師、臨時汽車乗客2021人、397円
1月Y藪入り大変な人出、芝居小屋や演芸場も賑わう、鉄道馬車満員、人力車は強気で値上げ/読売
1月H初金比羅縁日、神酒売は繁盛に見えるが一体に賑わうとは言えず
1月H孝明天皇祭、千門万戸旭旗を掲げ天気よく上野浅草を始め諸所公園は何れも人出多い
2月○警視庁、男女共演の芝居を黙認する
2月Y芝の寄席にイギリス人、西洋事情や各国軍談を講演
2月Y上野へ早朝より各学校生徒、旗を押し立て広場で球投げ・遊技・綱引き・旗奪い等の運動会
3月G浅草富士の取り壊し/時事
3月E桐座(新富座)で「神明恵和合取組」上演/日本演劇史年表
3月M関斎湖一、浅草猿若町文楽座で文明奇観東洋手品明かしを興行/都
3月Y上野・浅草、ヒガンザクラが満開もあって人出
4月Y上野公園で、第3回内国勧業博覧会が開催され、展示した電汽車に人気集まる
4月M愛宕山公園愛宕塔登料を博覧会中4銭に値下げ、約60m東京一の塔
4月Y花の向島、竹屋の渡し、日曜日には1万6千人もの客
4月Y歌舞伎座、寿座の女芝居、ともに大入り
5月 相撲番付に初めて横綱の冠がつく
5月H上野公園にパノラマ館が開場、戊辰戦争の状況展示、浅草公園でもパノラマ館開設
5月H靖国神社祭典、順延の競馬・相撲等催され、軍人など多く雑踏する
5月H川崎大師縁日、臨時汽車乗客1974人、343円
5月Y玉転がし、従来の店はすべて違反・営業止の厳しい警察例
5月H増上寺黒本尊開帳、参詣者山門内立錐の地なき程込むが、見世物・食物屋等はその後の雨で不入り
6月Y浅草公園内の花屋敷内奥山閣で、蝋管蓄音機が設置される/読売
6月H回向院の大相撲、雨や力士の病気で人気なく九日間で切り上げ、三千円程の損失とか
6月H中州町の祝祭、昼花火や見世物、夜には百数十発の花火揚げ、納涼客で賑わう
7月Y松旭斎天一が両国で西洋奇術を興行、11月の浅草で大入り
7月Y浅草公園のパノラマ館が人気、酷暑のなかでも見物人多数、11月までに20万人
8月Y向島花屋敷の七草、雅客の数少なからず
8月H中州町に八尺の大女の見世物、西洋人を驚かす、九月には芝神明に出る
8月Y常盤座、改装で大入が続く
8月○劇場取締規則改正、緞帳芝居を小劇場とするなど、大劇場10、小劇場12に限定
9月Y劇場取締規則改正で寄席の売り物が続出
9月M十五夜が日曜、好天で深川の不動尊参詣人多い
9月H神田祭、蔭祭で軒提灯すら掲げぬ家が多い
10月M開盛座で川上音二郎の書生芝居が大入
10月H本門寺の会式、数年来の繁盛だが乞食が多く、近在農民の老婆や子供も乞食に扮する
10月Mベッタリ市と戎子講、好天気で大いに賑わう
11月Y天長節浅草公園、六区の興行は大入りの盛況
11月Y回向院で女相撲興行、警視庁より差し止め
11月Yスペンサー、上野公園や宮城広場で気球を飛ばす、上等1円~下等20銭
11月Y浅草公園内に十二階建ての遊覧所凌雲閣が開場する
11月M麹町内山下町に帝国ホテル開業(一泊2円75銭から9円)
11月 一高野球部、始めてミットを使用
12月Y中村座藤間勘右衛門の大ざらいは大入り
12月M浅草歳の市、人出多くてスリ20人逮捕、景気は悪く羽子板が値切られる