多様化が進む娯楽に三十二年頃から取締

江戸・東京庶民の楽しみ 130
多様化が進む娯楽に三十二年頃から取締
三月義和団事件勃発/七月明治天皇東京帝国大学卒業式で銀時計授与
・盛んになる行楽活動にしのび寄る取締り
 東京の町は、日清戦争から五年たって、ようやく落ち着きを取りもどし、庶民も正月らしさを味わえるようになった。たとえば安政の大地震以降絶えて久しい、隅田川七福神めぐりが復活したという記事がある。七福神めぐりは、幕末の頃流行したが、明治になって徐々にすたれた。それが三十年以上経って再び流行のきざしを見せ、以後年々盛んになった。初詣に託つけて遊ぶという風潮は江戸時代から見られたが、明治二十年代中頃からは信心よりもむしろ遊びのウエートが高くなっていく。
 一月の浅草では、明治十六年に寄席での興行が禁止されたカッポレが盛んとみえて、住吉一座、天光の女、松坊主一座が興行。また、玉乗りも人気があったようで、青木の玉乗り、江川の玉乗りと二つも興行がかかっていた。他にも、八木一座の都踊り等を興行。当時の東京では、浅草だけでなく、神田雉子町日本新聞脇の空き地や、麹町平河天神境内で日本チャリネ一座が曲馬の興行を行った。続いて三月には、回向院境内でも日本チャリネ一座は、曲馬を興行。曲馬はたいそう人気があったと見えて、英国帰りの村松曲馬も神田三崎町の勧工場前で、興行していた。
 二月半ば、雪が続いたものの21日は晴れ、初庚申の柴又帝釈天や亀戸の臥龍梅を見ようとする人で賑わった。次の日曜日は穏やかな日和だったため、各地の梅園などにさらに人が出た。花見の人出が多くなるにつれて、警視庁の取締りも厳しくなり、三月、異様な仮装行列や大騒ぎなどが禁止された。しかし、いざ花見シーズンに入ると、警視庁の訓示もどこえやら、どの行楽地も大変な賑わいで盛り上がっていた。たとえば、東京魚商組合は、大旗を押し立て、股引き半天に打ち扮した若者数十名が楽隊を連ねて上野公園に乗り込んだ。なかには、英国の議員が選挙に用いる魚形の紙帽子を冠る者もいて、禁止令に反発するかのように盛大な花見を繰りひろげた。警察はなぜ黙っていたのか、それは大勢の市民が至る所で実に様々な方法で花見を楽しんでいるため、どの段階から取り締まればよいのか迷っていたというのが実情ではなかろうか。
 上野は、四月に不忍池の弁天様が開帳され、池畔では国際自転車競争会が開催された。五月にも、不忍池畔で一高生徒38名による13マイル(約21㎞)競争が行われた。大衆は競技に参加することはできなかったが、観戦を楽しんだことは間違いない。上野動物園には、一月にジャガーが、五月にカンガルーとフクロギツネ等、六月にアライグマ、十一月にハリモグラディンゴ等が来園。当時の入園料が大人2銭、小人1銭と安いこともあって、この年は85万人もの来園者で賑わった。
 五月、浅草神社の祭に「悪癖」という記事。何かと思えば以下のような話し。祭になると、手拭いを配り、揃いの衣服を新調すると称して氏子に金を出させることが慣習になっている、警察署の署長はこれを見合わせるように説諭した。氏子たちにとって迷惑なこの習慣、いったい、いつごろから始まったのだろうか。おそらく、明治初期にはなかったものと思われるが、この年は自粛したとしても、翌年からはまた元通りになったのではなかろうか。
・国産映画の登場
 六月、歌舞伎座で初の国産映画が興行された。人気芸者の舞踊や銀座、日本橋、浅草などの街の風景などで、好評を博した。また、神田錦輝館では「西南戦争活動大写真」が上映。当時の活動写真は、まだストーリーのあるドラマではなく、断片的な映像を見せるもので、見世物の一種として受け入れられていた。人々の活動写真への関心は高かったが、フイルムや映写機が少なかったから芝居や寄席観客の一割にも満たなかった。この年の劇場観客数は431万人、寄席観客数は491万人、合わせて922万人とそれまでの最高値を記録している。活動写真の観客数は、見世物163万人の中に含まれ、まだ50万人は超えないだろう。
 七月、大磯の海水浴場が海開き。開場にあたって、水泳競走、曲泳数種、花火、大神楽、芸者の手踊りなどが催され、なかなか盛大であったようだ。当時の東京付近の海水浴場としては、金沢、横須賀、三崎、逗子、鎌倉由比ヶ浜及び七里ヶ浜、片瀬、江ノ島鵠沼茅ヶ崎、大磯、国府津、小田原、熱海、戸田、稲毛、館山、保田、白浜、犬吠埼、大洗などがあげられている。各地にあったので、庶民も出かけたかと思うが、大磯までの汽車賃が往復1円20銭、宿泊料(休息?)は昼食付きで一人安くても35銭~50銭というから、家族揃って海水浴ができるのは、ほんの一握りの人にすぎなかった。
・新橋にビアホール初お目見え
 この夏の話題は、ビヤホールの開店。日本麦酒㈱が新橋の煉瓦立ての二階を借りて、ビールの一杯売りをはじめた。一杯500㏄が10銭、250㏄が5銭という値段の手頃さもあって、100㎡余の店には一日平均800人もの客がつめかけ、満員の日が続いた。つまみは、本場ドイツのビヤホールにまねて大根の薄切りを出したがこれは人気がなく、フキや海老の佃煮に変えたとか。一日の売り上げは、120~30円にもなったので、市内に似たような店が次々に開店。神田小川町、本郷元富士町と春木町、京橋北詰のほか、浅草や上野にも計画中だていう。また、話題と言えば、十月に浅草公園の水族館が開館、木戸銭は大人5銭、子供3銭であった。
 八月、後に日比谷公園となる日比谷原界隈には、飴菓子などを売る露店が12軒も軒をならべていたが次々に立ち退きを命じられた。夕涼みやくつろぎにくる庶民相手の小店は、公園となる場所には「いかにも不体裁」との理由からであった。その東側にある帝国ホテルでは、条約改正祝賀会が開かれた。総理大臣をはじめ各界重鎮、各国使臣など五百余名が参加、舞踏が行われ、散会になったのは夜中の二時頃。また、帝国ホテルでのパーティーは、十一月の天長節にも開かれ、各国公使らを招いて大夜会が催されている。
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明治三十二年(1899年)の主なレジャー関連の事象
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1月 日本チャリネ一座が神田雉子町の空き地、麹町平河天神境内で曲馬を興行する
1月M初卯と臥龍梅、混雑したが売れたのはくず餅、天神橋・両国間の早船、3銭で18艘が往復/都
1月G安政地震より途絶えていた、隅田川七福神めぐりが復活/時事
2月Y初庚申や江東梅園、柴又帝釈などに人出/読売新聞
2月 大相撲、不景気で食料と給金など半額に
3月 日本チャリネ一座が回向院境内で曲馬を興行する
3月M寿座の活動写真、新声館で大喝采を博したものを打ち揚げ次第
4月Y警視庁は異様な花見の扮装を取り締まると
4月Y不忍池畔で国際自転車競争会、弁天開帳と重なり大勢の見物客
4月M不忍弁天の開帳、4艘の船に乗る人多い
4月Y向島や上野の花見、警視庁の訓示もどこえやらの賑わい
4月M歌舞伎座勧進帳」大入り日延べ
5月 不忍池畔で、一高生徒が13マイル競争を行う
5月M亀戸の藤細工人形、団十郎の弁慶や福助義経など
5月M宮戸座「五寸釘」大当たり⑮
5月M三社祭、夜に入って一層の賑わい⑮
5月M烏森神社大祭、下谷神社祭典
6月 歌舞伎座、初の日本映画を興行、上等50銭、土間20~30銭
6月M新声館の源氏節手踊、大道具の使用禁止、ほとんど演劇だと
6月 神田錦輝館で「西南戦争活動大写真」を上映する
7月M回向院の嵯峨清涼寺の開帳、雨天と酷暑でさんざん
7月 大磯の海水浴場、水泳競走、曲泳数種、花火、大神楽、芸者の手踊りなどで開場する
7月M浅草の四万六千日、玉蜀黍7軒、酸漿53軒、麻殻灯心28軒
7月M上野のパノラマ、黄海大激戦
7月M藪入り、浅草公園午前11時には賑わい始め午後は非常な賑わい、楊弓場や飲食店等も客止めの景気
7月Y浅草公園に一丈を超えるワニが見世物に
7月G日比谷の露店、立ち退かされる
8月Y隅田川上流で、水府流太田派と横浜ローウィングクラブと競泳会
8月M深川八幡の大祭、山車38台など出る
8月H新橋に恵比寿ビールのビヤホールが開店し、大繁盛する/郵便報知
8月Y両国川開き、人出の割に割烹など不入り
8月Y帝国ホテルで改正条約実施祝賀会が開かれる
9月M芝大神宮の大祭、説教源氏節、西洋手品曲芸、剣舞等あり
9月M向島牛島神社の大祭、山車17台に番外8台、仁和賀や手踊りなどが出る
10月F浅草公園の水族館が開館、大人五銭、小人三銭/国民
10月E市川左団次明治座で「悪源太」上演する/日本演劇史年表
10月M池上本門寺の会式、降雨で前年の半分の景気
10月M団子坂の菊人形、回り舞台迫り出し強盗返し舞台一面釣り上げ山別れ等の大仕掛け
11月J帝国ホテルで天長節に各国公使を招き大夜会を催す/日本
11月U上野動物園にカンガルー、ハリモグラディンゴが来園/上野動物園百年史
11月Y三の酉、参詣人繰り出し、各地とも大賑わい
12月Y歳の市、神田明神薬研堀・両国など人出盛ん
12月 浅草歳の市地代、一等3円・二等80銭・三等50銭・四等30銭・五等20銭