20世紀に入るも変わらぬ庶民の娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 132
20世紀に入るも変わらぬ庶民の娯楽
二月福沢諭吉死去/五月社会民主党結成も2日で禁止/六月星亭暗殺
・二十世紀を迎えるエリートの祭
 明治三十四年は、イコール西暦2001年と、ここからは二十世紀を迎える。慶応義塾では、「十九世紀・二十世紀送迎会」が催された。運動場では五つの大きなかがり火が焚かれ、カンテラが並べられ、「官尊民卑」「守銭奴」「階級制度の弊害」「妾の悪習」などの十九世紀の風刺画と、「独立自尊」「文明の光」「四海を照らす」「社会の灯(トモシビ)」など、二十世紀に期待する言葉を大写しした四角の灯明台が設けられた。〇時になるや否や、学生たちは風刺画に向けて一斉射撃し、十九世紀の諸悪を燃やし尽くそうかというかのように勢いよく点火した。続いて、仕掛け花火に火がつけられ、「二〇センチュリー」との大文字が空高く写しだされた。万歳三唱が続くなか、午後八時から始まった「19世紀・20世紀送迎会」は、〇時二十分頃閉会となった。
 これは、学生が主催した送迎会ではあったが、福沢諭吉をはじめ五百人もの人が参会するという、非常に充実したイベントであった。式典の口演は、若手教員によって十九世紀から二十世紀への展開が雄弁に語られ、慶応義塾らしい内容であったという。式典後の晩餐会では、食堂で立食形式という学生主催の会ならではの新しいスタイルが採られ、希望とすがすがしさが伝わってくる。新世紀の祝いは、二十一世紀では大衆をも巻き込んで盛大に行われたが、二十世紀を迎えた明治時代は慶応義塾の選ばれしエリートの手によって行われた。
・労働者大懇親会の盛況
 もつとも二十世紀に入ったといっても、庶民は二十世紀の展望を考えるような生活レベルにまで達していなかった。明日の生活に不安を抱きながら働いていた大衆にとって、当然ながら労働問題にこそ関心事があった。三月の「二六新報」が労働者に対して、四月三日(水曜)、向島白髭前の広場における労働者大懇親会への参加を呼びかけた。その主旨は「日本労働者大懇親会ほとんど無意味にして、長閑(ノド)けき春の日に諸君が一年中の鬱(ウサ)を晴らす遊びごとに過ぎない。けれどもこの未曽有の大懇親会は、一面より資本家、労働者の長夜の眠りを覚ます一大動機たるやも知れぬ」というものであった。会費は十銭。午前九時に煙火を合図に開会され。プログラムは、奏楽、祝声、演説、昼飯、遊戯、福引、酒讌、散会となっている。
 労働者大懇親会に対して警察は、電話にて発起人を呼び出し、治安警察法第八条に基づきいて、集会の人数を五千人と制限し、酒類を与えることの禁止などを命令した。懇親会への圧力は、小石川の砲兵工廠や印刷局からもあって、出席を禁止し、出席者の免職処分があることも示唆している。その一方で、懇親会への寄付も多数あって、日本鉄道、東京瓦斯、石川島造船所、松屋、松阪屋、渋沢栄一西村勝三等から続々と寄せられた。
 懇親会当日は、午前二時頃から参加者が集まりはじめ、午前五時頃には開場が埋まり、それ以後も会場に押し寄せた。参加者は一万五千人を超え、天気もよく花見頃であったので、閉会後には三万人にふくれあがった。警視庁は、混乱を気遣い深川や小松川などの各署から警官を一千余名配置し、憲兵も出張するという厳重な監視下で行われた。広い会場は大混雑であった、演説は、スピーカーがないので日本最初といわれた大きなメガホンが使用された。終了後も、相撲や芝居などの余興が催され、飲食店などもひき続き利用されるなど、盛況ではあったが大きな混乱なかった。
・春の行楽は花見に潮干狩り
 一方、庶民の花見は、花曇りの日曜日(八日)、十時頃から上野へむかう人が広小路あたりからどっと列をなした。満開のサクラを求めて大勢の人が出歩いたらしく、市内の鉄道馬車の売り上げもうなぎ登りだった。この年、花見時の天候は恵まれなかった。向島では、午後から雨となった日には、雨宿りのため飲食店が大繁盛で売れ切れが続出した。なお、上野の花見茶屋では、掛台料2銭、菓子3銭、ゆで卵2~3銭、ラムネ2銭5厘、酒小瓶8~10銭、麦酒小瓶10~12銭などの協定料金を申し合わせていた。春の行楽は、潮干狩りも盛んで、三味線や太鼓を持ち込み、馬鹿囃子や滑稽踊りを演じながら品川沖に押し出す者もあった。獲物が少なかった割には、幾百隻もの船が出て賑わった。
 五月からは祭が多く、靖国神社大祭をはじめ、浅草三社祭、小石川牛天神祭礼など。六月も日枝神社、浅草浅間神社、鳥越町鳥越明社、芝崎町感応稲荷、四谷須賀神社などの祭が続いた。七月の草市は、銀座、尾張町、南伝馬町、両国広小路、上野広小路人形町通、今川橋、明神下、小川町、茅町、雷門前、吉原、四谷大横町、牛込神楽坂、麹町五丁目横町、青山久保町、板倉四辻、本芝、小石川柳町、本郷追分、根津八重垣町などで催された。まだ、盆を迎えるという伝統行事がしっかりと続けられており、新聞にあげられた以外の場所でも盆用品が売られていた。相場は、灯籠30銭、牛馬25~30、笹5~6銭、蓮花12~3銭、同葉5~6銭、鎗ン棒5銭、酸漿12銭、瓢箪15銭、真菰25銭、間瀬垣23銭、苧売8銭、禊萩15銭位であった。
・自転車が流行
 六月末から明治座では、米国人ブァンが自転車曲乗りを昼夜二回興行していた。七月になっても大入が続き、興行を延長した。自転車人気は、明治座の俳優はもちろん、囃子や衣装方などの人たちにまで波及し、劇場への往復に自転車を使う人もでた。十月にも春木座で、ダブリュ・シボーン一座が自転車曲乗りを興行した。自転車曲乗りをまねて路上で行う人が出てきたためか、警視庁は自転車の手放し厳禁、二人乗り禁止などの、改正自転車取締規則を発布した。さらに、九段坂や神楽坂など東京の急坂十三ヶ所では、自転車の乗車が禁止された。
 新聞社のイベント企画は、労働者大懇親会だけにとどまらず、十一月には不忍池畔で「十二時間長距離競走」が時事新報社の手で開催された。競技は、午後四時にスタートし、十二時間で不忍池を何周するかが争われた。賞金は一位百円、二位が五十円という豪華なものだったが、一着は七十一周で、あらかじめ定められていた最低標準の七十六周を超えることができなかった。ちなみに、この長距離競走、新聞社が自紙の販売促進をかねて主催した初めてのスポーツイベントだと思われる。                       
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明治三十四年(1901年)の主なレジャー関連の事象

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1月M元日は晴れて、各地の初詣賑わう

1月G慶応義塾で「19世紀・20世紀送迎会」が開催される②/時事
1月M深川初不動、参詣者多い、乞食も多いため30余人を引致/都
1月Y歌舞伎座で豪州演劇の公演は初日より大人気、紅葉の翻案物も好評/読売
2月M成田山の節分会、2万人の賑わい
2月Y梅ほころぶ向島、令嬢の自転車隊現れる
3月Y深川で女剣舞者の剣先で見物の少年が軽傷
3月M上野花見茶屋、掛台料2銭、菓子3銭、ラムネ2.5銭、酒8-10銭、麦酒10-20銭
4月X向島白髭前広場にて、第一回労働者懇親会が参加者三万人余で開かれる④/二六
4月Y花曇りのなか、今を盛りの花見客どっと繰りだす
4月F大久保のツツジ園に加藤清正の花人形などがでる/国民
4月 歌舞伎座、大入でも団十郎の容体悪化延長なし
5月M市ヶ谷新坂下に釣堀開業、一日30銭
5月M靖国神社大祭、九段坂より富士見町に見世物や露店等ならびなかなかの賑わい
5月G浅草三社祭りは例年どおり行われる
5月 回向院の五月場所、八日間で二万二千人の観客
6月 米国人ブァンが明治座で自転車曲乗りを昼夜二回興行する
6月M日枝神社大祭、山車や踊り屋台等が出て盛況、花傘が人目を引く
7月M草市、銀座・尾張町・南伝馬町等21ヶ所、灯籠30銭、牛馬25銭、蓮葉5銭、間瀬垣23銭、苧売8銭等
7月M入谷の朝顔、一面火の海になる奇観等、見物一層の賑わい
7月F市が、路上での見世物を禁止する
7月Y明治座の自転車乗り、大入で興行延長
8月M両国川開き、午後3時半頃に航行中止、大屋根船8円、大伝馬船5円、乗合船10-25銭
8月 米国人ジョーダンス一座が歌舞伎座で曲芸を昼夜二回興行、市村座で好評であったため
8月M芝浦海岸の花火も盛況
8月Y鎌倉の避暑客2千人余、貸し別荘繁盛
9月Y魚河岸の水神祭、新趣向の飾りつけが圧巻、夜間まで人出
9月M芝三田春日大社、小石川小日向神社、牛込赤城神社の祭礼
9月 赤坂演技座で教育活動写真会、昼夜上映
10月 浅草公園内の花屋敷で六十種の菊人形を開催する
10月Mダブリュ・シュボーン一座が春木座で自転車曲乗りを昼夜二回興行する、8銭
10月Mベッタラ市、市の繁盛推し返されぬ人、70本詰め一樽2.5~3.5円
10月G春木座で教育活動写真会
10月Y改正自転車取締規則改正を発布
11月M靖国神社大祭、隣接する遊就館にも1万人を超える入場者
11月 不忍池畔で十二時間長距離競走を行う、賞金一位百円、二位五十円
12月 花房清十郎が真砂座で漫才芝居を行う
12月Y浅草公園で骨なし娘の見世物、春木座では土佐の犬相撲を興行
12月G慶応義塾ラグビーチームが横浜の外国人と初の国際試合を行う
12月M深川の歳の市等盛況、浅草では喧嘩81、迷子36、幼老保護28など