大恐慌四十二年の娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 140
大恐慌四十二年の娯楽
四月種痘法公布/十月伊藤博文ハルビンで暗殺
大恐慌下の市民レジャーはさほど変わらず
 東京は大恐慌である。市内の人口は寄留人口を整理して53万人と、約25%も減少し163万人になった。これは、帳簿上の整理で人口が減少しただけではなく、実際にもかなり減っている可能性がある。演劇や寄席の観客数はそれぞれ408万人から347万人へ、456万人から396万人へと、5%、13%減少した。また、見世物は逆に521万人から732万人へと40%も増加している。演劇、寄席、見世物の三者の総観客数は、90万人増加している。それまで演劇を見ていた人が料金の安い活動写真を複数回見る、また、寄席の客もほぼ同額の活動写真へと、大まかに見れば、演劇や寄席の観客が活動写真に移行したと考えられる。
 東京から出ていった人々は、地方の農村から入ってきた下層の労働者であった。彼らの主な居住地であった京橋区浅草区などでは、人口が実に40%以上も減少している。彼らは、人口の密集した土地に住み、中小・零細企業で、休む時間を惜しんで連日長時間働いていた。冬場に出稼ぎに来る農民と同じように、稼げるだけ稼いら故郷に帰りたいと考えていて、都心に住んではいても永住する気持ちはなかった。演劇や寄席に出かける時間もなかった、それよりも遊びに金を使うことなど考えもしなかっただろう。失業して食べられなくなったら、故郷の農村に戻る。そして、再び上京しようとする人々がいた。つまり、東京市民の何割かは、芝居や寄席などの娯楽にまったく関心を示さず、ただ黙々と働く日々を送ってた。
・祭の主役は、山車から神輿に交代
 この年、注目すべき娯楽関連のできごとに、祭の変化がある。江戸の祭といえば天下祭に代表されるように、美しく飾られた山車などの行列をゆっくりと味わいながら見るものであった。伝統と歴史に育まれた江戸時代からの祭を見てきた人は、八月に催された深川八幡の大祭にさぞや驚いたであろう。それは、「ワッショイ、ワッショイ」のかけ声とともに、大神輿42、小神輿12、計54の神輿が町々を練り歩くというものであった。祭の主役は、完全に山車から神輿に変わり、それと同時に祭自体もスピーディで、エネルギッシュなものになった。以後、東京の祭は、このスタイルが中心となる。
両国国技館のオープンで高まる相撲人気
 もう一つは、六月に警視庁の厳達によって開館前夜に大混乱をきたした両国の国技館である。それまで、雨が降ると相撲をとることができず、興行期間が伸びるという江戸時代そのままの状況が続いていた。取組も今のような個人間の争いではなく、東西に分かれた団体戦で、十日間の通算の勝ち星の数で争われ、勝った方に優勝旗が授与された。また、それまでは最終日には、幕内の主要力士は勝負がないことが多かったのが、この年から全幕内力士が十日間続けて出場することになった。立会いまでの間に、何度でも「待った」ができるために、延々と続くこともあり、そのため打ち出し時間は決まっていなかった。どうやら当時の相撲愛好者たちは、日延べになっても見に行くというかなり気の長い人種だったようだ。また、茶屋を通して桟敷で見るという点では芝居と同じように、金のかかるシステムであったから、貧乏暇なしの下層者は容易に観戦できなかった。
 国技館ができたことによって、収容人員が1万6千人と大幅に増加、国内はもちろん東洋一の収容力を誇った。これまでの相撲観客数は、会場が狭かったこともあって一日の最大でも1万人を超えることがなかったが、これで大衆にも相撲を見る機会が増えるものと期待された。この場所、最大入場人員は九日目の1万2571人、十日間で9万人余であった。七月、浅草公園仲見世福寿館跡で素人相撲が催され、毎夜非常に賑わったように、大衆の間で相撲人気は一層高まった。
国技館の菊人形に市民が殺到
 国技館は、今でいう東京ドーム球場のようなものであった。相撲興行が終わった後は、劇場では収容しきれないくらいの人数の人々を収容できるイベントが可能であった。八月には、英国人ヒッポドロムが国技館で曲馬を興行している。十月の国技館は、名古屋黄花園(コウカエン)が40日間にわたって、電気応用仕掛けの菊人形(経費4万円)を興行した。開園は朝8時から夜の11時までと長く、入場料は大人20銭、小人10銭と安くはなかった。当時菊人形は、名古屋からわざわざ興行に乗り込んでくるくらい人気のある見世物であった。それも、一業者だけでなく、浅草の東京菊花園でも、名古屋花屋敷の園主が国技館と同様の菊人形の興行を手がけていた。もちろん、東京では団子坂をはじめ各地の植木屋が江戸時代から培ってきた様々の技術を駆使して、菊人形ブームを巻き起こしていた。
 団子坂では、最も人気の植木屋、種半(タネハン)が、舞台がせり出し、七段八段もと場面を替え、義太夫の出語りまでつくという大仕掛けの菊人形をだした。それに対し名古屋から来た黄花園は、国技館に「天の岩戸」「三国志」「雪月花五段返し」「雪の吉野山」の菊造り、舞台がせり上がると毛剃九右衛門の船になり、これを廻してその背面には、船の中央が割れて「近江八景」があらわれ、大津絵巻の人形たちがせり上がる。さらに、フジの造り物が見物人の頭上近くまで落下する趣向、館内は数千もの電灯が菊人形を照らし出すというスケールの大きなものであった。当時の菊人形ブームは、花の善し悪しなどわからないような子どもにとっても、五段返しや八段返しでドンヂャン、ドンヂャンと鐘の音に連れて舞台が変わる面白さがあり、文字どおり、老若男女、幅広い層に支えられた。この年、東京で菊人形を見た人は20万人を優に超えるだろう。 

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明治四十二年(1909年)の主なレジャー状況
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1月M初水天宮、人出20万人、御札15万枚売切れ/都
1月Y亀戸の初卯、境内に420余軒の繭玉屋や見世物7-8軒出店、江東、木の下梅園、臥龍梅探梅へも人出/読売
1月 米国人エルジット夫妻が明治座で自転車曲乗りを昼夜二回興行、大入に付景品一等自転車
1月 岡本小美根一座が宮戸座で源氏節芝居を興行、余興に梯子乗り、活動写真もあって満員
2月M亀戸、深川、浅草等で様々な追儺式催す
2月M憲法発布二十年祝賀会、日比谷公園に10万人余、山車や仮装行列、住吉踊りや娘手踊り等が出る
2月M開盛座や演技座などで都新聞連載の天狗太郎を興行
3月M都新聞の女義太夫投票で竹本綾乃助が19万票を獲得
3月M三越子供博覧会
3月Y仁左衛門義太夫明治座で大入り祝い演芸会   
3月 曽我の家一座が新富座で喜劇を興行、初日25銭均一
4月M上野・向島からの花見客で浅草公園は身動きもならず
4月Y隅田川汽船が花見の臨時航路を運行
5月M靖国神社大祭に武者行列等で盛観、参拝兵等3.5万人余
5月M日比谷公園ツツジやフジ見物などお祭のような賑わい
5月M根岸競馬入場者3万人
5月Tピンポン大会、帝大などの学生により開催③/東京日日
6月G両国に、相撲常設館「国技館」が開館、16,000人収容③/時事
6月M警察署許可の水泳場15ヶ所、月謝1.5円、束修50銭、日謝10銭
6月M山王祭日枝神社、鉾だし神輿でる
6月 目黒の競馬二日目、晴天で入場者倍増、電話賭博を取締る                   
7月Y暑い藪入り、大森海岸賑わい、浅草公園も賑わう
7月M浅草公園仲見世福寿館跡で、素人相撲を催す、毎夜非常に賑わう
7月Y横浜の開港記念祭、初日の電車4万人以上の乗客で新記録
7月I活動写真の常設館が70以上の流行ぶり/万朝報
7月M英国人ヒッポドロムが国技館で曲馬を興行
7月 歌舞伎座で活動写真大競争会を昼夜開催
8月M川開、屋形船15円、両国橋下は交通禁止、昼間から賑わう、迷子8、喧嘩632、酔漢保護370
8月Y深川八幡の大祭に大神輿42、小神輿12、計54の神輿がでて盛況、大神輿に200人の縮緬揃いにて付添い練り歩く
8月M活動写真、仮設観覧場の制裁で打撃
8月 浅草公園パノラマ跡で、三国合同大曲馬の興行、大人50~10銭小人軍人学生半額
9月M芝春日神社、芝神明大神宮で大祭
9月Y彼岸中日、雨でも人出、六阿弥陀西新井大師など賑わう
10月Y名古屋黄花園が両国国技館(大人20銭小人10銭)、名古屋花屋敷園主が浅草東京菊花園で菊人形興行
10月M対米野球入場料収入、早稲田大学戦1166円(2日)、慶応義塾戦815円(4日)
11月 二六新聞「社告」として国技館の割引券を演をする
11月 左団次が有楽座で「自由劇場」の旗揚げ公演をする
11月 伊藤博文国葬に数十万人が官邸より日比谷会場まで見送る                   
11月M酉の市、四谷では熊手70軒・縁喜店50余軒、都踊・剣舞・活動写真等、その他各地でも賑わう1
12月 山手線開通、十五分間隔で発車⑰/東京日日
12月Y愛宕の市に人出はどっと出たが、手堅い買物ばかり
12月M浅草市、人出は多いが飲食店など閑散、楽隊も空景気
12月 神田錦輝館で京都芸妓の踊りを興行、一等一円~四等25銭