盛んに遊ぶ四十三年

江戸・東京庶民の楽しみ 141
盛んに遊ぶ四十三年
五月大逆事件検挙開始/八月日韓併合/十一月白瀬中尉南極探検に出発
・金のかからぬレジャーが盛ん
 市内の人口は、全人口の一割以上にあたる18万人が増加し180万人になった。しかし、劇場や寄席などの観客数は増加せず、むしろやや減少した。増えた人は、前年東京を脱出した人々と同じように、地方からの出稼ぎにやってきた人たちである。景気はやや持ち直したが、大衆の懐具合はほとんど改善された様子はないようだ。それでも、お金のあまりかからない行楽には、非常に多くの人々が出かけている。
  二月の節分会は、十余箇所で催された。浅草田圃の鷲神社では、午後五時、拝殿の太鼓とともに始まり、神前にて祝詞を奏し、神楽師が赤青鬼となり、上下の年男が現れ豆を撒くと鬼は退散し、午後六時をもって式は終了した。浅草観音堂では、式が終わった後も、商人たちが「観音の豆」と称して豆を売り出すなどして、公園内はごった返した。市内のほかにも、成田山、川崎大師などでも盛大な節分会が催された。
 花見は、お金のかからないレジャーの代表である。花見に関する新聞記事は、一月の末から亀戸天神、江東梅園、吉兵衛梅園、次郎梅園などのウメの便りを皮切りに、三月には墨田堤が7百余本の八重桜に2千基のガス灯が設置されるなど、続いた。四月になると、「気の早いサクラを求めて」と「さくらだより」が紹介され、「向島では六分~八分咲き」と大衆の行楽気分を盛り上げている。十日の向島隅田川方面は、赤白の幔幕を張った花見船が四五十艘、言問団子屋下に繫がれた船では「手拍子揃えて花やかに・・」と、団子の売れ行きは一日5万個を超えるとか、賑わいを伝えはじめた。
 また十日は、上野行きの市電が数十輌増発されどれも満員、「花を妬み春雨にも 花見の人の大群集」とある。精養軒では、芸者の余興つきという観桜会が会費二円で催されていた。大衆には、縁台の使用が茶菓子付きで一人10銭、三人以上は5銭、子供が半額、ラムネ小玉壜3銭、氷水コップ3銭、ビール大壜30銭、酒小壜12銭、鮨15銭、弁当20銭などの茶屋が待ち受けていた。しかし、万事倹約のとの時世に、割高な弁当などはあまり受け入れられなかったと見えて、実際には芝生の上でお弁当を食べる人が多かった。したがって「茶屋は不景気」との見出しのように、人出の割には、茶屋の売り上げはのびなかった。
 十七日の飛鳥山は、神田の「のん気連」を始め、浅草西鳥越の中村登鯉治社中が娘美園一座の女優以下弟子を数十名引き連れて踊り歩いていた。また、仮装の武者行列には、干瓢で蓑を作って児島高徳に扮した人、干鱈で甲冑を作った男は、鯣を三枚で兜と鍬形、小魚鎧の袖は餅網、槍の穂先にはサンマの干物というような奇想天外な出で立ちだった。花を見る人、またその見物人を見る人でごった返し、喧嘩は一件もなかったが迷子は63人もでた。不景気とはいうものの、江戸時代からの花見の名所が大衆の行楽地として賑わっていたのは確かで、この時期に東京市民の半数以上が出かけている。
ツツジやボタンの花見も行楽として定着
 人出は花見だけではなく、潮干狩りも佃島や月島付近から300艘余も出て賑わった。サクラが散っても、ツツジの日比谷黄花園や大久保、ボタンの本所四つ目や蒲田の菖蒲園、フジの芝公園の苔香園や亀戸など、行楽地の賑わいが報じられた。なかでも、最も混雑したのは、四つ目の牡丹園らしく、4千人も訪れた日もあり、この牡丹園のシーズン中の入園者数は4万人以上(最大集中率を10%以下と想定)あったと推測できる。また、九月の水天宮も、信者にとって一代に二度と逢い難き戌年戌の日ということで、開門の十二時には黒山をなす人だかりであった。あまりにも多くの人々が押し寄せたため、大混乱となり重傷者9名もでるほどであった。
・浅草にルナパーク開園
 九月、浅草公園にルナパークが開園した。二十年近く続いた日本パノラマ館は、活動写真が始まると、見渡すだけで動きのないパノラマの人気は落ちた。市内には常設の活動写真館が続々と開業、スペクタクルの映画の魅力には勝てず、前年に取り壊された。その跡地に、帝国館(オペラ館)と遊園地風な娯楽場ルナパークができた。ルナパークは、米国コニーアイランドにある遊園地ルナパークを参考にして造られた遊園地で、自動機械館(当時珍しかった電機諸機械等)、海底旅行館、天文館木馬館(メリーゴーランド)、汽車活動館などのほか、中央庭園の築山から滝を落とした約16.5mの大瀑布や温室、それに海外諸外国の物産販売店や東京及び地方名産販売店が一体となっていた。
 ルナパークのなかで目を引くのは、汽車活動館と木馬館であろう。汽車活動館は、客車の形をした部屋、その前方にスクリーンがあって、機関車の前にカメラを据えつけて撮影した風景写真を見るのだが、映写が始まるとガタガタと客車が揺れ、臨場感があった。景色は、御殿場線で撮られたらしく、畑のなかに二本のレールが続くだけの単調な風景が大半で、たまに鉄橋やトンネルがあった程度らしかった。それでも、当時の人々にとっては非常にめずらしいものだったのだろう、休日には座席が満員だった。木馬館は、翌年、洋行帰りの寺田寅彦夏目漱石らとルナパークを訪れ、子供たちで満員の回転木馬に割り込んだという話もあり、アメリカ式の遊園地をイメージさせるものだった。ルナパークは、アメリカ直輸入とのふれ込みだが、人々の気を引きそうなものを寄せ集める浅草ならではの雰囲気を呈していた。目新しさで多くの人々が遊んだと思われるが、翌年五月の火災に遭って一時の夢のように消えてしまった。
 十一月、専売局第二製造所の職工、1750余名が穴守の大運動場で慰安会を催した。このような官系の慰安会は、一月にも陸軍被服廠で、職工家族など1万数千人が集め盛大に行われてた。

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明治四十三年(1910年)の主なレジャー状況 
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1月M初水天宮、雨中でも午前中に御守札、7万枚出す/都
1月M観兵式、青山付近の小料理屋など賑わう
1月M陸軍被服廠職工慰安会、家族など1万数千人の賑わい
1月M都新聞、国技館で1万三千人の大娯楽会、使用料1500円
1月M深川不動、雑踏にて粟餅屋・金鍔屋など大繁盛
1月M天一一座、新富座で大成功、大入り
1月 京山小円新富座で佐倉義民伝等口演、一等1円~五等20銭 
2月Oやまと新聞、国技館で学生相撲を催す/やまと
2月M節分会、浅草や深川など十余ヶ所、人出で賑わう
2月M真砂座「女四人」連日満員⑮
2月M宮戸座「寛政曾我」大入り⑳
3月Y国技館の花相撲、吉原連の総見で大景気⑭/読売
3月M彼岸、上野、浅草、西本願寺等に人出
4月Y米国から婦人多数の第二観光団750名到着し、市は歓迎会
4月Y桜田烈士50年祭、靖国神社で甲冑行列
4月M灌仏会、回向院で甘酒60樽24石飲み干す
4月Y品川沖の潮干狩り、佃島や月島付近から300艘余の賑わい
4月Y飛鳥山の花見、仮装や踊りの一団等が出て盛況、喧嘩なく迷子63人
4月 東京フィルハーモニー会が第一回演奏会
5月Y本所四つ目の牡丹園、日曜日に四千人の入場者
5月Y堀切の菖蒲園、四ツ木の吉野園などそろそろ見頃
5月M神田神社の大祭、神輿の下敷きで気絶1人
6月M日比谷公園赤十字総会、2万5千人集まる
6月Y玉川の螢狩り3万匹放つ、運賃は3割引き
6月 浅草公園の鈴本亭新築し、昼は柳連、夜は三遊連の昼夜二回興行を始める
6月 米国のニコラ一座が有楽座で、鉄錠抜けやカバン抜けなどの奇術を興行する
7月Y入谷の朝顔、各園入場料5銭、各所の草市賑わい1組8~12銭、夜に入り4~5銭に
7月 牛込高等演芸館で、清国人の奇術曲芸とセルビア人ルボーフ嬢の舞踏を興行
7月M藪入、活動写真は大人気、安物飲食店は下駄の山
7月 米国女優ケンボール一座が明治座で最新式電気応用雲間の大演技を昼夜二回興行
7月 有楽座で電気水道蒸気応用大仕掛けの十二景世界楽園を興行、特等一円~二等35銭
7月 風俗取締令公布
8月M両国の川開き盛観、乗合船大人10銭、小人5銭
8月 寄席の切符制度、浪花節派より起き実施
8月M日韓併合祝賀提灯行列、日比谷公園周辺賑わう
8月M大雨で隅田川等決壊、新富座等水害義援公演
8月 貸し自動車の広告、一日30円運転手付
9月 シカゴ野球チーム来日し、早稲田・慶応と対戦する
9月Y玉川の花火大会、正午から観客詰めかけ大盛況
9月Y浅草公園にルナパーク開業する
9月F御船千鶴子千里眼(透視)/国民
10月Y雨の池上本門寺の会式、希有の不景気
10月M団子坂周辺の飲食店を菊人形開園を待って、暴利と淫売婦の取締り
10月M堀之内の妙法寺祖師のお会式賑わう
11月Y両国国技館で大菊花、電気応用の菊人形が興行される
11月M珍しき好天で初酉、賑わい景気立つ
11月M靖国神社祭典、押し返されぬばかりの人出
11月 水天宮縁日で戌年戌月戌日の御利益に群集し、重傷者9名
11月M専売局の職工、1750余名、穴守の大運動場にて慰安会を催す
11月 白瀬中尉壮行会が日比谷公園で挙行
12月M納の金刀比羅、午後より人出、夜に入って一層の賑わい/都
12月Y納の深川不動、富岡門前町付近は縁日で雑踏
12月M柴又の帝釈天、臨時列車が出て賑わう
12月 有楽座でゴーリキーの「どん底」初演
12月M浅草観音等の歳の市、夜も人が出て賑わうが不景気