明治時代の庶民の楽しみの変遷

江戸・東京庶民の楽しみ 145
明治時代の庶民の楽しみの変遷

 明治時代に入り、江戸っ子は東京市民になっても、そのままのびやかに遊んでいた。特に行楽活動は、憂さ晴らしのようなストレス解消ではなく、心を晴れやかにする「延気(きのばし)」、心の皺を伸ばすものであった。明治初期の人々は、花見や納涼に徒歩で行ったのだから、決して安易な行為ではなかった。ハスやアサガオを見ようなどと思ったら、早朝から家をでなければならず、かなり気合を入れて行った。このような早朝からのレジャーは、朝参りに通じるもので、当時の人々は、現代のレジャーより前向きで、積極的に行おうとするする人が多かった。
 また、初詣、開帳や縁日などの参詣が宗教活動からレジャー色が強くなり、市民の大半が行っていた。宗教活動である参詣が行楽活動に移行したのは、双方とも日常生活から離れ心身をレクリエーションするという共通性のためである。参詣と行楽の差は、精神の開放、不安の解消などを宗教活動に求めるか、それともレジャーで行うかの違いにすぎない。また、宗教活動には、将来へ期待や祈願を託し、現状で満たされなくても良いという部分があるのに対し、レジャーはその時点で満たされることが不可欠である。さらに、お参りには、穢を払う、厄除けがあるのに対し、レジャーでは快楽を求め、やや現状逃避の傾向があるという違いがある。
 時代が進むにつれて、参詣よりも行楽を選ぶ人が多くなった。また、節分の追儺(オニヤライ)、日蓮聖人の忌日の御影供(報恩会式)法会などは、レジャー的な色彩が強まり、行楽イベントとして盛んになった。宗教活動のレジャー化は、江戸時代からの傾向で、信心に託つけて人々は遊んでいたが、明治時代になってそれが一層顕著になった。なお、宗教とは一見無関係のように見える潮干狩りですら、その発生は宗教儀式と浅からぬ関わりがあった。川開きにしても、はじめは船頭が花火を手に持ってお清めに行っていた。また、隅田川の川施餓鬼は、都鳥形の灯籠流しとして、さらには乙姫を乗せた龍宮城の船を浮かべ、川開きと賑わいを争うような行事になった。かつては武士の参詣が多かった大鷲神社の祭礼(酉の市)などは、参詣というより行楽活動そのものになってしまった。
 市民のレジャーが参詣から行楽へと移行したのは、西洋の合理主義が浸透し、人々の宗教への関心が薄くなったからである。参詣のレジャー化は、信心の希薄化よりも、人々の生活がスピード化したことで、お参りによる祈願成就をじっと待っていられなくなったことも大きい。また、願は他力本願的ではなく自らの力で獲得するという意識変化もあっただろう。功利的に行動する人々の増加によって、参詣の宗教的なウエートが低くなり、リフレッシュするならレジャーを選ぶようになっていった。
 東京市民の参加率・延べ活動人員の最も多かったレジャーは、参詣と寄席である。また、市民の心の変化をよく反映しているレジャーも参詣と寄席であった。特に寄席は、当時の演し物から人々が何を求めていたかがよくわかる。明治前期の寄席は、歌舞伎や見世物、政治や景気などの世間の情報を提供した。また、銭湯と並ぶ町内の社交場でもあった。その寄席で、最初に観客のニーズに合わせて演し物を変えていったのは、落語であった。
 江戸時代の落語(オトシバナシ)には、「落としばなし」だけでなく「芝居ばなし」「人情ばなし」「怪談ばなし」など様々なジャンルがあった。落語の落語たる所以は、筋立てがきちんとあって、オチで話を終えるところにある。なかでも、人気のあったのが、笑いの多い面白い噺であった。明治になっても庶民は、笑うことが好きであった。なお、落語で笑うといっても、現代のように人の頭を叩いて笑わせるというような笑いではなかった。話を聞いて心がなごんだり、意外性に可笑しさを感じて笑うなど、様々な笑いを楽しんでいた。
 ところが、明治14年頃に現れた「寄席四天王」と呼ばれた落語家たちは、衝動的な新たな笑いを引きだした。その笑いには、噺の筋などはなく、円遊などは寄席に着くと高座で演じている者を下ろし、駆け上がって、ちょいとステテコをやる。わずか四、五分で高座を下るというありさま、お客はそれでも大喝さい、ひどい時には、入り口からステテコを踊りながら客席を通って、そのまま裏口へ抜けていくだけであったが、それでも、客は熱狂したという。
 幕末から明治維新期に日本を訪れた欧米人は、着の身着のままで暮らしていた庶民を「貧しいけれど精神的にはゆとりがあり和やかであった」と観察している。江戸っ子は、東京市民になっても良く笑い、いつでも笑みを絶やさなかった。しかし、時代が進むにつれて、観衆は笑ってもよいとのサインがあれば、何もしなくていい、それだけで笑うようになったのである。つまり笑いたくて、そのお墨付きが欲しくて寄席にやってきたのだ。以前のような微笑みや時間をかけて込みあげてくる笑いを楽しむのではなく、見たとたんに笑うという刹那的笑いを求めるようになった。
 一時、ステテコの円遊は、品川の寄席から吉原の寄席へ行く途中の寄席、十何軒を残らず出演したという。そうした落語の流行は、明治の新風俗をギャグをつかって話したり、滑稽落語で観客の笑いを引きだした。新市民には、わかりやすく面白い落語によって、明治二十二年の寄席は250席を超え、絶頂をむかえた。しかし、落語は、落語たる噺が軽んじられ、心理描写やくすぐりといった話芸を無視してしまった。また、はじめは新鮮で型破りであった落語は、マンネリ化し、人情噺を楽しみにしていた観客まで失った。なお、「落語」を「らくご」と読むようになったのは20年代の頃からである。
 とは言うものの、庶民は、ナンセンスな笑いだけでは心が満たされなかった。笑いでは得られない情感を求め、涙を誘う義太夫に向かった。笑いにしても、涙にしても、当時の人々は、まだ人情の機微を知っていた。現代人は、悲しいから泣くと短絡しがちであるが、涙にも様々な涙があって、義太夫はそれを語り分けた。市民は、豊かな情愛や情緒を求め、感情の皺を深めることの楽しさを知っていた。
 明治前期の庶民は、好奇心をもって急激な社会変化に追いつこうとしたが、限界があった。時代に追いかけられるような生活が始まると、人々は、江戸時代に心の安らぎを求めた。江戸時代の楽しみを復活させようとする動きは、明治17年の「遠見の庭」築庭、神田祭りの山車46両の再現などをはじめとして続く。さらに、朝顔市・草市・菊人形などは、江戸時代の規模や内容まで上回る明治のレジャーとなった。
 菊人形は、見世物の新しい試みを追っているように見えるが、本質的には活人形や器械からくり、歌舞伎など江戸時代からの技術や趣向を受けついだものだった。そのため、人々は、菊人形を見ることで懐かしさや安心感を得た。また、キクの花で作られた菊人形は、芝居や活人形などと比べるとリアリティーが低く、そのため体制風刺や残酷なシーンが多少あっても、警察などから大目に見てもらえた。菊人形が市民に受け入れられたのは、明治政府の見世物取締りから逃れた、旧来の見世物を集大成したものであったからである。以後、市民は、菊人形をはじめとする見世物に、明治前期のような先端知識などを期待しなくなった。見世物は、文明開化とは正反対の愚かさ・非科学性・猥雑さなどが求められていくことになる。
 落語家にも『芝浜』など「江戸前の噺」をする人が多くなった。江戸時代そのものの再現ではなく、明治流の「江戸時代」が完成するのが明治後期である。三代目柳家小さんなどのように、夏目漱石が絶賛した落語家が登場した。彼は、大真打ちは長噺か続き噺で寄席のトリをつとめるという従来の落語界の慣習を打ち破って、一席の滑稽噺で寄席を沸かせることに成功した。
 ここで注目したいのは話の舞台が江戸であったことである。たとえば、「長屋の花見」や「時そば」などは明治の庶民生活から生まれた話ではないし、新しい時代に向けた話でもない。これは演劇が江戸時代の歌舞伎を完成させたのと良く似ていて、「落咄」であったものをいわれる古典落語として完成させたのである。
 明治になって、もし庶民の暮らしが江戸よりも楽しいものになっていれば、当然、新しい生活に向けてのレジャーが行われたであろう。懐古的になったのは、東京が近代化するにしたがって、江戸時代の人間関係や社会形態が二度と戻っては来ないことがわかったからである。新しい社会で生きていくためには、時には、一昔前の世界に埋没することも必要であった。
 明治後期、日清戦争の頃を境にして大きく変化した東京市民のレジャーは、日露戦争後さらに変わった。戦争は、国の経済や社会を根本的に変えていく。大衆は、世の中の流れに翻弄され自己を見失いそうになる。そのような時に、人々の心の支えとなるのがレジャーである。現代でもそうであるが、仕事を生き甲斐にできる人は少ない。大抵の人は、仕事を生き甲斐だと信じ、思い込もうとしているのである。明治時代の庶民は、日々食べることができれば、あとは楽しく暮らせればよいと思っていたのが本音であろう。
 ところが、市民の日々の暮らしは、以前にまして厳しく感じるようになっていた。レジャーは、生活のストレスを解消するために欠くことのできないものになる。たとえば、東京の祭は、江戸時代の遊び心を失い、刹那的なエネルギーの発散の場になった。かつての創意工夫の山車行列は、動きの激しいスピーディな神輿に取って代わられた。人々は、鬱積した生活の不満や精神的な抑圧を神輿をかついで騒ぐことによって発散させた。また、そうした盛り上がりを見物することによって、一体化し、一時の無礼講を楽しんだ。時代が進むにつれて、レジャーは、「気散じ」、さらにはその場のうさ晴らしという、現状逃避的な傾向が強くなっていった。
 また、寄席においても、笑いの落語や涙の義太夫だけでは、観客の心をとらえることができなくなり浪花節が台頭した。義太夫には、講談や落語にない高い感興があるものの型にはまっている、が、浪花節は、音楽的声音の美があるとの評論(明治四十一年文芸倶楽部二月号)がある。浪花節の特徴は調べや節を自由に変えられること、落語や義太夫などとの違いは、義憤を起こさせるところにある。軍人、そして大衆に受けたのは、浪花節が社会や政治に対して正義の怒りを唱えているように聞こえたからであろう。
 人々のレジャーは、寄席や演劇から映画に向かいはじめた。明確にあらわれるのは、大正時代に入ってからであるが、枡席で隣の人と話りながら芝居を見たり、出演者に声をかけたりするようなコミュニケーションを失っていく。黙って、隣の人が誰であるかも知らずにレジャーを楽しむ、それも真っ暗な中で。そんな形態で観る活動写真をレジャーとする市民が著しく増加する。また、浅草公園の人の波に漂い、何するとなくあちこちを覗き回ったり、酒を呑むような人々も出てくる。これは、遊んではいるものの心の満たされない現代レジャーの始まりである。