明治の遊び・娯楽を考える

江戸・東京庶民の楽しみ 146
明治の遊び・娯楽を考える

 欧米の文化を積極的に取り入れ、文明開化を押し進めた明治時代、東京市民は、はたして江戸の庶民より幸福だっただろうか。遊び・娯楽から見ると、必ずしも文明開化の恩恵を受けたとは言いがたい。特に下層階級の人々は、江戸時代よりも楽しみを奪われてしまったようだ。
 明治時代は、五箇条の御誓文をもとに文明国をめざして近代国家を形成した時代とされている。国会や憲法、鉄道や道路など、新しく出現したものによって、人々の暮らしは便利に、豊かになったと思いがちである。しかし、それらのものは、大衆の生活を本当に楽しく、ゆとりがあるようにするため作られたのであろうか。明治時代に誕生したもので、大衆を第一に考えてつくられたものは意外に少ない。
 新しく生まれた娯楽は、映画を除けば大衆にまで広まったものはほとんどない。欧米のスポーツにしても、ごく少数の人々にしか普及しなかった。明治時代の大衆レジャーは、江戸時代からの活動を受け継いだものが多く、大衆のために新しく誕生した遊びはなかった。大衆は、遊びを創作するエネルギーを奪われてしまったようだ。
 明治時代の中頃に活躍した人というのは、江戸時代に生まれ育った人である。天保年間(1830~44年)に生まれた人は、四〇才代の中年である。その中に、大隈重信板垣退助岩崎弥太郎渋沢栄一などがおり、時代の中核として活躍していた。このような先進的な人々は、新しいもの全てに理解を示し、自ら挑戦することができた。しかし、大衆は容易に対応できる状況ではなかった。大多数を占める大衆の生活感は、しっかりと江戸に根を下ろしていた。寄席や生人形などを楽しんだ遊びは、明治になっても基本的に江戸時代と変わらず、政治的に混乱していた幕末期より盛んであった。江戸時代生まれの大衆の開帳に祭り、寄席などを楽しむ姿は、東京市民というより江戸っ子そのものであった。
 幕末に訪れたルドリフ・リンダウは、「日本人ほど愉快になり易い人種は殆どあるまい。・・・そして子供のように、笑い始めたとなると、理由なく笑い続けるのである」(『スイス領事の見た幕末日本』森本英夫訳)と述べている。江戸時代の日本人は庶民でも、自分が楽しい気分でいられる遊びを知っていた。
 またオイレンブルクは「ほかのアジア人たちは、生活のためやむを得ず仕事をした後では、何時間もしやがみこんで煙草を吸い、蒟醤を噛んだり。または完全に無感党に空を眺めているのに反し。日本人の休息は常に活発なものなのである。歌の好きなわれわれの別当ですら厩舎で将棋を指している。活発なことを好むということは、確かに生活力。若々しい精神、さらには高い文化の可能性を証するものである。年齢により、また身分によりそれぞれの娯楽があり、その魅力は精神の沈静や弾力、熟練などを発達させることにあるのである。」(『オイレンブルク日本遠征記〈上〉』中井晶夫訳)と記している。江戸時代の庶民について、オイレンブルクの様な感想を持つ人がいたことからも、当時の日本人は積極的に遊んでいたと言えるだろう。
 まだ江戸時代の延長としか思い浮かばなかった大衆に対して、明治政府は、大衆から遊ぶ時間を取り上げるだけでなく、大衆に勤労を押しつけるために江戸時代の遊びを排除するように仕向けた。明治になって、人々の心を癒す環境は変化していった。まず、明治政府が行った「廃仏毀釈」は、市民に少なからぬ影響を与えた。廃寺はもちろん、残された寺院は、江戸時代のような勧化ができなくなり、日課としていた朝参りや日々のお参りも、一時的に以前より行いがたくなった。
 近代化を目指す産業革命によって、東京でも工業化が進み、大衆の多くは、工業労働者として低賃金で長時間働かざるを得なかった。仕事に追われる生活から、お参りや遊びに使う時間が減少し、娯楽の形態や質にも影響をおよぼした。
 なお、長時間労働、休日が少ないこと、これは江戸時代から続くものと思う人がいるが、決してそうではない。江戸時代の農民にしても、職人にしても、明治・大正から昭和中頃迄に比べれば、働く時間は短く、ゆとりがあった。江戸時代には、いつも慌ただしく働くことは、決して好ましい事ではないと思われていた。それが、いつのまにか、忙しいことが善で、暇な時間があることは悪、と言うようなムードが浸透してしまった。
 この遊ぶことに後ろめたさについて、江戸時代にも感じる人はいることはいたが、暇な時間を否定するものではなかった。遊びに後ろめたさがあるのは、道徳的な善し悪しを鑑みてのことで、遊ぶこと自体を否定するのではない。
 そもそも、江戸時代の庶民は、仕事と遊びや参詣などをきちんと分けるようなの生活形態をしていなかった。それが、明治になり正確な時間を決めて働くことになり、労働が生活の大半を占め、余った時間に遊ぶというふうに変わっていった。労働を優先する生活が当たり前になると、市民の中には、レジャーは無用なものとして仕事に励み、余暇のない忙しいことを自慢するような人が幅を効かす風潮も生まれた。
 大衆の多くは、低賃金のために少しでも多くの収入を得ようと働き、遊ぶ時間を増やすより労働時間を伸ばす努力をした。そのため、暇があることは好ましいことではなく、苦しくても働いている方が望ましいと思った。だが、人間は体力的な疲労には耐えることができても、精神的なストレスは必ずしも対応できるものではない。
 明治になってからは、社会全体が急激に変化しており、生活様式は、個人の嗜好や習慣などとは関係なく変化せざるを得なかった。生活形態を自分から刷新しようと挑む場合、多少の障害は、乗り越えようとする気持ちによって克服できる。しかし、外圧によって変えなければならない場合は、ストレスとして重くのしかかる。明治になっての生活様式は、衣食住に加えて暦、断髪、時刻制度の変更など、大きく、それも急激に変化させられた。生活様式は非常に保守的で、時間をかけて形成されるものであり、短時間に変えようとすれば、その反動が大きく精神的な疾病に陥りやすい。
 そのようなストレスを解消するには、体を休めるだけでは解消せず、精神的な鬱積を晴らすための気分転換となる娯楽が必要である。明治時代の余暇活動として多かったのは、江戸時代から続く参詣・縁日、寄席、観劇などである。大衆は旧来からの娯楽にストレスを解消しようとした。ただ、娯楽の場や様式は江戸時代のスタイルであるが、内容は明らかに異質なものも出現した。落語でいえば、人情噺よりナンセンスな笑いを誘う芸が喝采を浴び。高い感興や義憤を起こさせる浪花節などが一時的に人気を博した。観客は、感情の捌け口として訪れているため、幕が明けるだけで、また演者が登場すれば、即座に反応し、歓声を上げ、熱狂するような場面も見られた。
 その一方で、大衆が求めた楽しみは、江戸時代を懐かしみ、失われつつあるものを追いかけるようなものばかりであった。この嗜好を反映する娯楽は、落語・義太夫浪花節であり、疲れた体を休めるものである。大衆娯楽は、時代を反映するもので、当時大衆がどのような状況に置かれていたかを示している。明治なってからクローズアップした、文明開化ならではの欧米レジャー、スポーツなどには、仕事一筋という真面目な大衆は目もくれなかった。肉体労働で疲労した大衆は、労働後の時間に体力をさらに消費するスポーツなどをしようとは思いもしなかった。 
 明治政府は大衆レジャーにも、風紀や治安維持という名目でさまざまな制約や禁止を行った。また啓蒙的な指導も試み、国威発揚・富国強兵・健康増進などの普及浸透を目指したスポーツ振興策、運動会が奨励された。確かに運動会は明治の中頃から盛んになり、アッという間に大衆にとって未曾有の大イベントに発展した。この運動会は、学校の恒例行事として催され、子供を中心とする行事のため多くの人が参加した。とは言っても、子供を含めて大人も、スポーツを行うというより、誰でも気軽に参加できる行楽活動になっていった。それは、当初はスポーツ・体操を主としていたが、観客が多くなるにつれて相撲や綱引き、パン食い競争といった競技、さらには仮装行列や踊りなど見世物的な要素が強くなった。結局、運動会は参加して体を動かすより、応援して楽しむ行楽活動、スポーツするというより見る娯楽となっている。明治の大衆が余暇時間で選ぶのは、体を鍛える運動でなく、見て楽しむ娯楽であり、昭和の半ばまで日本人レジャーの主流であった。
 また政府は、大衆の余暇を富国強兵や国体の高揚などに向けようと、戦捷祝賀会などの官製イベントを積極的に催そうとした。また、娯楽の中に政府の意向を組み入れることも行われ、大衆は娯楽を楽しむにも警察の顔を見ながらということになっていった。それでも大衆は、政府が許した娯楽に満足し、楽しみを求めて行くより方法が無かったと言えそうだ。
 明治時代になり、自主的な遊びを、自主的に行うこと難しくなり、大衆は為政者が管理しやすい娯楽をするように導かれていった。江戸時代には花見に世相批判を茶番で試みたりしたが、明治時代には異様な扮装というだけで取締られた。また、公園内で物品の販売や音曲を弾きながら銭をもらう行為などを禁止、不体裁なる見世物も差し止められた。一見、道徳厳守や不敬回避、犯罪防止などを建前にしているが、政治批判をさせないためである。
 この政府が許す範囲内で遊ぶことは、さらに強化され、世界大戦が終わるまで続いた。なお、大衆は、制約された娯楽に不満を感じながらも楽しんでいたことは確かである。現代でもそうだが、それなりに満足して入ればそれで良いではないか、という考えも説得力がある。大衆が制約を受けたと感じなければ、何ら問題はないとの考えもある。
 為政者は、大衆に不満を感じさせないようにし、満足感が得られる最低限を維持しようとするだろう。そのためには、不満と満足のバランスを巧みにコントロールする。日露戦争時では大衆に、花見や祭などの自粛を要請し、戦捷祝賀会や祝勝会を催し、厳しい現実の生活を一時でも忘れられるお祭気分を提供し、娯楽として受け入れざるを得ないようにしている。このような手法は、以後世界大戦が終わるまで巧みに行われた。