新しい時代に入り娯楽は自粛

江戸・東京庶民の楽しみ 147

新しい時代に入り娯楽は自粛
 1912年は、日露戦争が終わって六年目だが、戦争による国民の疲弊はまだ残っていた。それでも東京は、首都として日進月歩の勢いで変化していた。市民は日々の生活に追われながらも、変わり行く街の中で楽しみを求めていた。
 この年の正月はまだ明治時代、前年からの市電のストライキに翻弄されながらも、市民のレジャーは、初詣をはじめ活発なスタートを切った。藪入り、節分と行楽活動は月を追って盛んになっていた。明治四十五年の大きな事件としては、三月に深川洲崎の大火(1,140余戸焼失)、五月に衆議院議員選挙、七月に米価が急騰など。流行は、桃中軒雲右衛門の浪花節、フランス映画「ジゴマ」などがある。日本流行歌史(古茂田信男他 社会思想社 発行)によれば、「春の小川」「村の鍛冶屋」などが流行した。また、米価高騰のため焼き芋屋が繁盛。馬肉専門の鍋屋が300軒(上等一人前7銭、最下等3銭)を超えた。
 七月三十日、明治天皇崩御し、大正時代となる。天皇崩御とそれに続く乃木大将の殉死は、社会に大きな不安と混乱を生じさせた。反面、明治時代の終焉は、市民にとって悲しみだけではなく、新しい時代への期待感を感じさせたに違いない。それは、明治四十年代から国産自動車の製作、山手線の運転、飛行船や飛行機など新しいものが次々に出現し、新聞などを通じての様々な知識や情報が人々に伝わっていたからである。
・七月「あらゆる興行物の遠慮」二十二日付讀賣
 七月に入ると、米価が高騰、株価は大暴落し、東京の町には重苦しい空気が漂った。レジャーの自粛は、明治天皇の容体が悪化した七月の中頃から始まった。例年なら盛大に花火が打ちあげられる川開きも、二十日朝刊(讀賣)には「本日川開き」と出たものの、警視庁からのお達しで結局中止。三十日付の新聞で、「天皇陛下崩御」が伝わると、すべての娯楽場が休場。さらに八月に入ると、一日から五日まで音曲停止。それが解けてからも、盛り場の賑わいはなかなか戻らなかった。この年の芸能関連の利用統計(東京市統計書)を見ると、興行数および観客数は前年に比べて明らかに少なくなっている。
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・八月「釣客増える おとなしくして楽しむ」十二日付讀賣、「向島と目黒の秋草」十四日付讀賣
 天皇崩去以来、新聞のすべての頁に黒枠(九月十七日まで続く)、街はむろん自粛ムード一色、レジャー関連の記事はほとんど見られない。ただ、市民も少しは息抜きがしたかったのであろう。盆栽の展示会、釣りや秋草の観賞(虫放し会は中止続く)など、地味なレジャーはけっこう楽しんでいたようす。十一日に再開した浅草の映画館などは、久しぶりで大入りであったが館内は物静か、仲見世の飲食店も実入りが少なかった。もっとも八月の半ばを過ぎるとドイツ観光団が東京を訪れ、あちこち見学して歩くなど、外国人の遊びについては寛容になってきている。月末には、オペラ館上映の「ジゴマ」が連日満員になるなど市民のレジャーは徐々に復活してきた。
・九月「非風粛々 御粛々と大葬当日の東京」十四日付東朝
 九月一日に市内を暴風雨が襲い、大きな被害が出てレジャー気運は再び停滞。また、すべての新聞は十三日の大葬関連記事で埋められ、市民は娯楽を控えざるをえないようなムードの中にいた。東京市長は、十三日の大葬に、市民は葬場殿の方向に向かって三分間稽首遥拝の礼を行うと提唱。また、御葬当日の祝詞を宣する時刻と拝礼の時に、二回、市内すべての電車を三分間停止。
 十三日から三日間は、飲食店から湯屋・葬儀屋まで皆休業。吉原や浅草なども三日間休業のため、前日の十二日は近来にない賑わいであったという。大葬は青山葬場殿(神宮外苑)で全市をあげて行われた。小学校でも午前八時に全員整列し遥拝を行い、玉串を捧げた。御通路に沿った日比谷公園には午前九時頃からギッシリと人が詰まり、それ以降も後から後からと押し寄せてきた。こうした様子を十四日付朝日新聞で、「・・・地面の上に炭俵、蓆、毛布、新聞紙思い思いに敷き詰めてその上に座って居る・・・電車のない中から出掛けた連中は朝の中からヘトヘトになって膝を崩して座った儘前後も知らずに寝込んで居る・・・十二時頃になると各自携帯弁当を開く・・・手回しの可い連中は毛布の上で割り子を開いて麦酒の栓を抜いて居るのもある・・・」と伝えている。二ヶ月近くレジャー自粛を強いられていた市民のなかには、大葬をレジャー感覚で楽しもうとする人が大勢いたようである。さらに十八日には乃木大将の葬儀が続いた。この時の沿道の混雑は、御大葬の時以上であったという。しかし、二十二日からの豪雨と月末のコレラ発生とで、またもやレジャー気運は衰退してしまった。
・十月「秋晴れの日曜日 各遊園地の雑踏」九日付讀賣
 それでも十月は行楽シーズン。秋晴れの日曜日には、上野・浅草をはじめ、青山葬場殿・乃木家墓畔などへ多くの人々が出かけた繰り出した。池之端で一日より開催されている拓殖博覧会は、正午過ぎには満員の札が張られ、大変な混雑ぶり。中でも人気を呼んだのは、「蕃地村」と称する「アイヌ生蕃樺太人の住居」を再現したもの。また、浅草六区の混雑も著しく、大勝館の活動写真「新ジゴマ」は満員。青山行きの市電はどれも満杯、四谷信濃町通りも乃木大将の墓前へお参りしようという人の群れでごった返していた。
 池上・堀之内の御会式や両国国技館・浅草国技館・百花園などの菊人形等が、例年と同じように催された。池上の御会式は雑踏のため、万灯が燃え上がり川に落るというような椿事があったものの、迷子17件、スリ2人、喧嘩3件と事件は意外に少なかった。世情全般としては、人気の「ジゴマ」が、警視庁の厳命で終了させられたように、市民は喪に服すべし、という雰囲気は依然として続いていた。こうした中で、娯楽色のつよいレジャーが、新聞に掲載しにくかったのに対し、「文展」(文部省美術展覧会)はたびたび批評が紹介されるなど注目を集めた。そのためか、入場者が一日1万人を超える日もあるほどで、十一月の最終日までには、約16万人を超え前年の二倍近くにもなった。
・十一月「芝公園をはじめ至る所で人の群れ」四日付東朝
 十一月三日の国民記念日は良く晴れた行楽日和。森鴎外も妻と三人の娘たちを伴って拓殖博覧会見物に出かけている。この日は、市内はどこも行楽客で一杯であった。
 中旬に、風紀取締りにあって閉鎖状況であった向島遊園地(明治四十二年頃できた一万坪ほどの歓楽街)が復活したという記事が出ている。なお、当時の遊園には、芸者屋31軒、待合25軒、周囲に一品料理、小間物店、大弓場、活動写真の天遊館、寄席の遊楽館・天満館、それに女達が「チョイト、チョイト」を連発する86軒のいかがわしいサービスを行なう飲食店、さらに盆栽や草花などを綺麗に陳列した成趣園・錦華園が並ぶ、というようなところであった。
 浅草大鷲神社の二の酉は、一の酉が雨のために出そこなった人が一挙に訪れたためか、御守りや福袋が飛ぶように売れ、賽銭も千円近くに達するだろうと書かれている。ただこの年は三の酉まであるため、熊手は控える人が多いとか。2円50銭の熊手を値切って25銭と言ったら、負けてくれたという話もある。お酉様の影響で浅草公園は好景気。また、吉原はその前日が職人の給金日に当たったために、千束町の通りは身動きの取れないほどの雑踏となった。続く三の酉は、二の酉の半分ほどの人出しかなく、寂しい師走を予感させるものとなった。
・十二月「深川歳の市・・店も例年の三分の一位・・近年になき淋しさ」十五日付東朝
 歳の市は、浅草ではまずまずの賑わいだったものの、愛宕の市や深川不動尊納の縁日では例年のようには盛り上がらず不景気な年の瀬であった。それでも劇場はそこそこ賑わっていたようで、本郷座で演じられた曽我廼家一座の芝居(喜劇)は七分の入り。歌舞伎座の「雲入道」の浪花節は大入り続きで日延べ。帝国劇場も、女優劇を興行して相変わらずの人気。なお当時、まだ、クリスマスは一般市民には浸透していなかったようで、二十六日付の新聞(東朝)には「クリスマス」という見出しで番町教会の写真だけが掲載されている。


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  大正一年(1912年)・・・8月友愛会結成/12月第一次護憲運動始まる
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8月1朝 一日より五日まで音曲停止
  3夏 漱石、鎌倉で海水浴、子供達は浮き袋を背負ってボチャボチャする
  4夏 漱石、寒いのを我慢して海に入る。日曜で 帰りの汽車は中等席が一杯、一等に移る
  6時 上野動物園にオランウータン来る        
  7万 不忍池畔の納涼博覧会再開する       
  10万 深川八幡、十四日からの祭り中止      
  12朝 十一日より浅草など映画・演劇興行の復活  
  12読 釣り客増える、おとなしくして楽しむ   
  14万 川施餓鬼、数十の講社信徒が団扇太鼓勇ましく漕ぎ寄す
  14読 向島と目黒の秋草、見頃に           
  19都 新子安海水浴場、大いに賑わう1万人       
  29万 オペラ館「ジゴマ」連日大入り       
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9月5朝 宮戸座、大入りに付き十日まで日延べ    
  14万 青山葬場殿(現神宮外苑)で大喪を挙行  
  15朝 十六日より各演芸全部開場         
  19万 乃木大将の葬儀、葬に会するもの20万人  
  21万 帝国館、奇術の天勝嬢一座、連日満員    
  22朝 川崎・西新井の大師、午後から人出     
  23万 オペラ館「ジゴマ」連日大入り         
  23読 ジゴマの奇術を真似する人多く死者出る     
  27都 新富座の勤皇劇大評判連日満員御礼       
  29森 鴎外、妻と子供らを連れて多摩川にゆき鮎漁  
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10月3万 有楽座で米国ハートマン一座の喜歌劇    
  7万 真砂座「灯」連日満員             
  7読 秋晴れの日曜日、拓殖博覧会や遊園地など賑わう 
  9朝 本郷座「真田幸村」の初日、満員       
  13万 池上・堀之内の会式、雑踏する       
  18朝 十七日の上野の文展入場数1万3千人     
  14万 福和館新派劇「高橋お伝」他上演        
  17森 鴎外、妻と子供らを連れて展覧会へ       
  18万 帝国劇場、ロッシーの無言劇「犠牲」他上演   
  20朝 ベッタラ市、近来にない繁盛、上物一本10~20銭
  21読 「ジゴマ」の最期、浅草六区など賑わう   
  25万 錦輝館「リニア」大好評           
  25万 有楽座「ヘッダ」日延べ、一等1円・三等40 銭  
  27森 鴎外、妻と子供らを伴い上野動物園に往き、展覧会へ
  28読 散歩遠足・紅葉等に人出、飛鳥山では花見時の三割
  29読 不動の縁日、呉服橋・業平・黒江町に出商人350余軒、参詣人多し
  31万 市村座「勇将の妻」評判            
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11月3森 鴎外、妻と子供らを伴いて拓殖博覧会に往く
  4朝 国民記念日、芝公園をはじめ至る所人の群集   
  4朝 歌舞伎座、切符制に改め、初日は大分景気付く  
  6万 一の酉、例年に比べて人出少なく不景気     
  8万 靖国神社本祭り、不景気            
  13読 上野公園、文展・動物園・博物館に遊覧   
  14都 国技館の菊花、大入り御礼(大人10銭・小人 5銭)
  16都 神田神社の七五三、境内には猿芝居や生人形の太鼓音高く相応の賑わい
  18朝 二の酉、人出は多いが売行きは今一つ     
  18万 文展、三十六日間で169,031人
  20読 向島遊園地が復活                  
  22万 富士館「忠臣蔵」好評
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12月3~4夏 新富座で越路太夫を聞く        
  11朝 亀戸遊園地に天満座開場            
  15朝 深川歳の市、店も例年の三分の一位、近年になき淋しさ
  16都 歌舞伎座、雲右衛門の浪花節大入りで日延べ
  16朝 帝劇、女優劇で相変わらず一杯の好景気
  18都 浅草歳の市、諸商人1890名、初日盛況
  19都 雨でも浅草の活動写真は混雑
  20都 歌舞伎座で憲政擁護連合大会4千余名、木戸前は入場できぬ人で一杯
  22朝 淋しい神田明神の歳の市
  24万 浅草国技館で東西浪花節大合同、30銭
  24万 愛宕の市、雨上がりで人少ないが夜に入って賑やか
  29万 深川不動尊納の縁日、例年より盛り上がらず

・出典が複数ある場合は代表的な資料をあげる。新聞の日付は発行日。日記は記載日。
 朝│東京朝日新聞          │報│郵便報知新聞          │芥│芥川龍之介
 万│万朝報         │時│時事新報             │夏│夏目漱石
 中│中外商業新報      │都│都新聞          │森│森鴎外
 読│読売新聞         │日│東京日日新聞       │永│永井荷風
 国│国民新聞