江戸・東京庶民の楽しみ 158
盛り上がりが続く大正七年前期の東京庶民
大正七年、インフレは戦争が終結に向かってもおさまらず、特に米価の高騰は著しく、七月から全国で米騒動が発生した。このような国内の経済混乱に対し、政府は新聞報道を禁止して軍隊まで出して治めるという無策。米騒動で寺内内閣は総辞職し、原敬が首相となり政党内閣が誕生するが、物価の値上がりは止まらない。原内閣は経済施策にはまるで無関心のようで、不況から失業増加へと社会不安を導いた。
全国的には不景気が始まっていたが、まだ東京では、成金の遊びにつられるように映画はもちろん観劇などもレジャーは活発であった。米騒動も一時的で戦争による好景気のムードが持続していた。そんな市民の気持ちを反映してか、「ノンキ節」「女心の唄(リゴレット)」などが流行った。もり・かけ蕎麦の値段、6銭に値上げ。かき氷3銭。
・一月「泰平の群れ 深川不動賑う 郊外では穴守」二日付讀賣
大正七年の元日、宮中では、「除夜の鐘撞き納めて東の空暁を帯びる頃より宮中にては四方拝の御儀を初め各種の御儀式あり殊に午前十時頃より正殿并に鳳凰の間において拜賀式行はれたれば午前九時半前後より皇族方は申すに及ばず元帥国務大臣、大臣禮遇、樞密其他の文武百官何れも燦たる大禮服に威儀を正し……」(二日付東日)と、例年とほぼ同じく、しめやかにスタートを切った。なお、四方拝とは宮中の儀式で、元日に天皇が伊勢の内外宮、天神地祚、天地四方山陵を拝し、宝祚の無窮、天下太平、万民安全を祈る儀式である。
そこで、今度は一転、正月の街の風景を見ると、都心の大店はみな戸を占めて閑散とした街に、市電は満員で走り、停留所には数えきれないほどの人が立っている。逆に店が開いているのは浅草で、観音様に詣でる人、劇場などに向かう人などでごった返していた。その他には、上野、宮城前、日比谷公園、川崎大師、深川不動なども賑わっている。その中で興味を引いたのが、宮中へ参内する皇族や大臣らの文武官を見物するための行列ができていることである。まるで大名や旗本たちが登城する江戸時代の情景、「東都歳事記の元旦」の絵と重なって見える。
初日の出が二年ぶりに期待されるなか、薄い雲がたなびくなか昇った。吉例の初日を迎える場所は、品川八ツ山、芝の愛宕山、芝浦海岸、州崎、麹町の山王台、湯島天神、九段などが挙げられ、これは江戸時代と変わらない。この年の恵方は、羽田穴守・川崎大師などで、例年にまさる人出があった。市内では麹町方面より芝の愛宕さん・虎ノ門の金比羅さま、京橋方面よりは築地の波除稲荷、日本橋以北神田方面よりは水天宮・深川八幡。特に深川は初不動にあたり格別の景気を見せた。境内から界隈にわたって繭玉屋などの露店が隙間なく軒を連ね、参詣人が未明から大勢押しかけて賑わった。
藪入り。半年に一度、大ぴらにお金を持ってゆっくりと遊べる日とあって、お女中さんはお芝居に、大憎小僧さんは達は九段の相撲場へと流れ込んだもよう。九段は、焼けた国技館と違って二階三階がないので、小僧さんの中には一等席に陣取って得意気に収まっているものもある。三等席の後ろから眺めると張り幕の下から小さな足や大きな足がコンがらがって、それがまた藪入り気分を漂わせている。
また、九段で相撲があっても浅草はかき入れ時の大繁盛、雷門口も田原町口も大混雑である。取締令の影響で少し参っていた活動写真も、電気館をはじめ富士館・キネマ倶楽部など多く、乙種興行の札を掲げて各館とも満艦飾に飾りたて、大憎・小僧・女中さんたちを吸い寄せていた。もっとも、公園境内のテント張りの露店飲食店は思ったほどの入りがなく、赤毛布に腰掛ける客もない寂れ方。ただ汁粉屋はかなり賑わっていた。これは、小僧さんたちの食べ物が贅沢になってきたこと、また衛生思想が進んだためだろう。また、時代後れの大道蓄音機から出ている管を耳にあてて聞いている光景は何とも浅草らしい。小僧さんらは花屋敷や映画を見物して、あちこち浮かれ歩き、中にはバーから真っ赤な顔をして出てくる不埒なものもある。景気の良い女中さんの中に、高嶋田などを艶艶しく結い上げ、花簪だの櫛だの買っている人もあった。
藪入りは人通りが多く、18名の交通取り締まり巡査が出て、午後からはさらに1名増員し交通整理をする。銘酒店は取締公布当時の848戸2156名が、現在ではわずかに269戸407名に減じている。それでも店は、正月を当て込んでいるから、20名の臨時取締巡査に警戒させ、学生や小僧の踏み込む客があればこれを説諭している。映画館には昼夜4人の巡査を出した。近頃は藪入り連中も利口になって向こう見ずの遊びをするものが少なくなったとある。なお、下屋万年町の特別小学校(働きながら学ぶ)では、奉公している卒業生の藪入り慰問を催したようだ。
・二月「きのう日曜の梅日和 各所の賑い」二十五日付讀賣
三日は節分会。浅草観音では十俵もの豆をまいて好景気。亀戸天神では赤鬼青鬼の問答で大いに笑わせた。豊川稲荷では河合武雄や釈迦ヶ獄、常ノ花の年男が人気を呼び、各地とも大いに賑わった。四日の初午、羽田穴守稲荷は早朝から参詣者がことに多く、境内では曽我の家の奉納芝居、里神楽などが演じられ、沿道の飲食店は大層な繁盛。その他、赤坂豊川・王子・笠守・鉄砲州などの各稲荷も参詣者が引きも切らず賑わいを極めた。
十一日、「憲法発布三十年祝賀会」が上野精養軒で催された。会費50銭、参会随意というのに三木武吉ら約千人が集まる。終了後、二重橋に向かおうとしたが中止させられ、群集と警官隊とが衝突し重軽傷者十数名、17名が検束された。
二十四日、梅の見頃には1週間も間があるものの、日曜の梅日和とあって各所が賑わった。大森・蒲田への電車は満員。向島百花園には浅草公園から足を延ばした連中が大勢訪れ、土産の梅干しが売り切れるほどの大繁盛であった。また上野公園は、動物園の呼び物であったライオンが死んだにもかかわらず、正午までに4千人が入園する有様。市民は、まさに行楽の春のまっただ中にいた。
・三月「浅草公園役者の鼻息 愈猛烈な争奪戦の事」四日付讀賣
それまで長らく“まま子扱い”されてきたオペラダンスという演し物が日本館で大当たりをとり、学生たちが大勢公園に足を向けるようになった。前年の景気が良かった事もあって、浅草公園の劇場はどこも満員という状況。大劇場も二つ三つできたが、それでもまだ急にふくれ上がった観客を収容しきれない。そうした結果、浅草の興行界にかつてないいざこざが現出した。それは、芸術座を再び脱走した武田正憲一派の旗揚げにはじまり、本郷座による井上一派の引きぬきなど、激しい俳優争奪戦の様相となった。例えば、原信子の給料は月三千円という破格の待遇となり、“新劇万歳”となった。劇場が増えるたびに、芸役者はあちこちから引っ張られ、中にはとんでもない役者が千二千円という給料を踏んだ食ったという話もある。まあしかし、新劇俳優の争奪戦によって、それまで貧乏にあえいでいた新劇俳優たちもようやく人間らしい生活ができるようになったと喜んでいた。
また、「新舊劇壇ホクホク」との記事(四月二十三日付讀賣)がある。米の値段を皮切りに諸物価が沸騰したため、生活が苦しくなったというのが大方の民衆の声。にもかかわらず、演劇・寄席・音楽会の類はこれと反して、どこもここも大入り満員であった。まだ、景気が良かった前年の秋、浅草の活動写真に5円札で払う職人がいるといって驚いたという話もあったが、景気が悪くなってもその傾向は止まらない。初春興行はむろんどこも盛況、三月あたりから客足が落ちるかと思われたが、ふたを開ければこれも満員。吾妻座や明治座ではあまりの混雑で二階席から人の落ちるという事故まで起きてしまった。
また、一時下火になっていた新劇も芽を吹き返した。坪内逍遙の「ハムレット」が成功を修め、イプセンものも成功、さらに「ロメオとジュリエット」を企画、新作物舶来物の上演が次々に計画されている。この年は、演劇界が最も繁栄した年であろう。劇場入場人員も大正年間で最も多い653万人。興行一日平均が1032人、これは大正・昭和時代を通じても最高である。23ヶ所の劇場が6335日興行(一劇場は年間275日興行)した。そうすると年間一劇場あたりの平均入場数は、28万4千人となる。これだけ入ると経営効率は良く、収入もかなりの額になったと推測され、劇場経営者だけでなく俳優たちも潤ったことがわかる。なかでも浅草公園の吾妻座は、年間364日興行とほぼ年中無休、一日当たり2476人、年間90万人の入場者数となっている。ちなみに同座三月の演し物は、小山内薫作・喜劇「金儲の器械」、徳富蘆花作・悲劇「不如帰」などである。
彼岸明けの日曜日は、格好の行楽日和で市内電車各線は朝からいずれも満員の札を揚げ、公園や盛り場は大変の人出だった。特に上野の電気博覧会は、ことのほか人が集まった。また上野では、太平洋画会・諸展覧会や博物館、動物園などが相変わらずの人気であった。浅草もかなりの人出で、映画館や各座劇場へなだれ込む人の群れで付近の飲食店なども賑わった。市民は郊外にも出かけて、松田(観梅)や江ノ島・鎌倉まで遠出した人も多かった。
・四月「飛鳥山は恐ろしい人気・・・まるで変装博覧会」八日付讀賣
新聞は恒例のサクラ便り、七日の飛鳥山はまだ五六分の開花、春雨が降りだすという天気でも花見に押し寄せる人あまた。花見酒に酔って、変装してしまえば治外法権の世界、高歌乱舞にケンカ、まるで変装博覧会のようであったと。翌日は、朝の内は晴天で絶好の花見日和であったが午後に入り花曇り、サクラもちょうど見頃で、上野はその年一番の騒がしさであった。なかでも、博物館の前では、ある会社がきれいに着飾った雛妓に縄跳びをさせていて、その周辺は子犬も通れないほどの混雑だったという。
また、十四日の飛鳥山は、春雨続きのためサクラは色あせたが、思い思いの仮装を凝らした男女が電車を下りた時から、酔ったような様相で次から次へと山に流れて行った。山はそれまでの花見客による狼藉で戦場跡のような無残な光景を残しているが、その上でまた箍を外した花宴が開かれた。荒川の花見は次の日曜。小台の渡しでは船頭が向こう(東側)に渡ろうとする人々を「押すな」と制止、土手には大勢の人々。千鳥足の大名、雲助、按摩、狐の嫁入りの輿をコンチキチと担いで行ききする仮装のグループなど多種多様だった。
「活動も値上 浅草の興行主連の申合」(二十二日付讀賣)と、映画料金の値上げをしたらしい。その前に浅草公園内の劇場や映画館は、盛況で定員以上に客を入れているため、所轄の象潟署が取締を強化した。定員を守り収入額を維持するには、今まで10銭であった観覧料を15銭に、7銭を10銭に値上げすることを興行主らが申合を行ったと。東京の演劇と映画は、正月以降どこも近来にない入りで、四月も「金色夜叉」を上映しているオペラ館は、満員御礼の広告が続いている状態。五月もなお「続金色夜叉」(長田幹彦作)が「又々満員御礼」の広告を出している。六月に入ると特別写真「父の涙」がすこぶる好評だった。値上げといえば、芸者の玉代も五月から値上げ。
────────────────────────────────────────────
大正七年(1918年)前期のレジャー関連事象
────────────────────────────────────────────
1月2読 泰平の群れ 深川不動賑わう 郊外は穴守
6読 初水天宮、夜の明けぬ内から人絶えず開門と同時に幾万人
6読 キネマ「マチステの義勇兵」大好評
6読 初卯、繭玉屋50軒、柳島など混雑
7読 出初式、梯子40台に池の周囲に人垣
15永 荷風、市中両国辺を散歩す
16読 藪入り、小僧さんたちも景気が良い
21読 九段の大相撲、千秋楽は客止めの盛況
21読 富士館「日本一雲月」満員御礼
23読 遊楽館の三大写真「名古屋山三」他連日満員
30読 九段招魂社、太刀山の引退相撲3日間満員
2月4読 浅草観音では十俵の豆を撒く、各所賑わう
5読 初午、恵方の穴守をはじめ各稲荷、参詣者引きも切らず
8永 荷風、午後歌舞伎座に立ち寄る
12読 探梅回遊ホーカーデー往復50銭
12読 憲法発布三十年祝賀会、警官と衝突
14読 富士館「乗合馬車」大入り続く
20読 オペラ館「毒煙全編」他好評
20読 吾妻座、中村福圓七役好評湧くが如し
20読 遊楽館、松之助の「通力太郎」他盛況
21読 梅日和、各所の賑わい
24森 鴎外、杏奴・類と上野に往き伊豆栄で昼食
3月3読 府庁の野菜市、炭五千俵が一時間で売切れ
4読 有楽座「十郎」満員御礼
11読 陸軍記念日、九段の賑わい
12朝 歌舞伎座「不如帰」連日満員
14読 オペラ館「二人娘」大好評日延べ
20読 上野で電気博覧会開催
25読 彼岸明けの春の行楽、各公園・盛り場大変な人出、電気博に人気
31森 鴎外、子供達を率い小石川植物園に往く
4月4朝 銀座・上野・浅草の人出、花屋敷が一番人気
8読 春雨の花見、飛鳥山はまるで変装博覧会
13朝 飛鳥山人出8万人、学生連中の花見風俗悪し
15朝 新富座の喜劇楽天会一座、満員御礼
20森 鴎外、妻・子供達と電気博覧会に往く
20永 荷風、采女町三笑亭で小さん等を聴く
15読 雨上がりの日曜、花見客ドッと押し寄せる
21読 オペラ館「金色夜叉」連日連夜満員の大景気
22朝 荒川の賑わい、土手一杯に続く人
28読 靖国神社の春季大祭
28森 鴎外、子供達を率い小石川植物園に往く