大正十一年中期 不安を示す庶民娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 171

大正十一年中期 不安を示す庶民娯楽
 世界的な軍縮を受け、陸軍・海軍とも軍縮計画を進めることになった。前年からのワシントン会議で海軍軍備制限条約が締結され、それに対処するものである。世界に不況ながらも平和な陽ざしがさしこむようになると期待されだが、イタリアではファシスト党ムッソリーニ内閣を組織し、独裁政権によるファシスト化への動きがはじまった。
 国内では、緊縮財政策をかかげ、健康保険法、未成年者禁酒法等が制定された。高橋首相はさらなる改革を目指し内閣改造を目論んだが、総辞職に追い込まれた。軍人首相が成立し、普選法は否決された。政局は混乱とまでいかないが、中途半端な状況を呈した。
 東京の庶民は、不景気の中でも遊ぼうとする気持ちを持ち続けている。

・五月平和博「人気盛り返しの福引は二十一日に決行」十五日付讀賣
 「模範遊園地の開園」(三日付讀賣)、王子電鉄による荒川遊園が開園した。面積は2万坪(6.6ha)余り、狭いながらも一応の遊園地的施設が整えられていた。園内には、山から幅約50mの滝をはじめ大小多数の滝が流れ込む、7千坪(2.3ha)余の池があり、ツツジやサクラ、モモなどの樹木で修景されていた。池ではボート遊びもでき、テニスコート三面、運動場を備え、それに多数の動物が飼育されていた。中でも最も人気を呼んだのは、百畳敷きの大広間で、毎日そこで、何かしら余興が演じられていた。なお、荒川遊園の周辺には温泉旅館や料理屋などの歓楽街があり、ここにもやはり浅草的な匂いが色濃く残っていた。
 六日、被服廠跡グランドで第23回全国自転車競走大会が開かれる予定であったが、「喧嘩でお流れ入場料五十銭払戻し」との記事(東日)。当日詰めかけた観客数は約5千人であった。
 九日付の新聞(讀賣)には「平博の納涼施設 十三日から又夜間開場(曲乗り、拳闘、螢狩りなど)」「福引は十日目毎」など、入場者増加対策に余念が無い。市民のレジャー気運が低調なのかといえば、大相撲は三日目に初めて満員、芝浦球場の三田対稲門の試合は3万人の観衆など、そこそこの賑わいを見せていた。二十一日、平和博の入場者が20万人を突破、「福引の注射がてき面の平和博」(東日)と、まだ市民を呼び寄せる可能性はあった。
・六月「御国座の安来節60日間大入満員」三日付讀賣

   「死に物狂いの福引デー」二十四日付讀賣
 六月から日曜日の入場料80銭から60銭に、小人の夜間入場料を30銭から15銭に値下げするなど、平博の入場者を増やそうと躍起である。しかし、「平博欠損 約百五十万円」(九日付讀賣)、そこで、増加対策に何でもよいから色々な福引デーを連発することになった。が、「平和博の損失は二百万円に上るだろう」(二十六日付讀賣)と改善される見通しはないと書かれている。
 世間は不景気に違いないが、映画はもちろん演劇や演芸も意外と盛況であった。また、平和博にしても1103万人も入り大正博覧会(大正三年)の746万人より357万人、五割近くも増え決して少なくなかった。(当時の人口は、東京市が247万人、東京府が398万人、全国が5739万人。)当時の景気や交通条件などを考慮すれば、1千万人もの人をよく動員できたと評価すべきであろう。「窮民の子春治・・・平博に憧れて憐れな出来心」(四月二十二日付讀賣)のように、市内に住んでいても、窮民の多くは平博へは入場できなかった。
・七月「慰安の市中湧返る 晴やかな日曜の藪入り」十七日付東朝
 十六日付(東朝)「外れた川開き 飛行機も景気を添へた 船は昨年の四分の一」との見出しで、賑やかさに欠けていたことが報じられている。例年なら、新大橋や厩橋では花火を見ようとする人で混雑し、電車が運転を一時見合わせるのだがそれもなく、この年は人出が少なかったのだろう。それでも花火を見た人は、陸上で数十万人と書かれている。川開きは、海水浴などと比べて、年々盛んになっているようには感じられない。
 その翌日、一転して市中が湧返るような賑やかな藪入り、「浅草公園の賑わいと言ったら大変なもの、普通の日曜に公休日の第三日曜、そこへ又盆の十六日と重なったから堪らない」(以下十七日付東朝)。その人出を当て込んで雷門付近に交通道徳会が宣伝にあらわれた。午後からにもかかわらず、通行人に配った小旗は、日中2万余、夕方から1万5千であった。
 芝公園では、大隅銅像前には憲政擁護の演説に1万人の盛況、増上寺山内の「商工徒弟従業員の慰安デーがベーヂェント劇」は大賑わいだったようで。上野公園では、「開場には二時間も前の六時頃から正門前には大憎小僧から家族連れの者や女中さんの一隊が押しかけ」、平和博に17万6千人が入場。「汽車電車で海へ山へ 上野駅からは日光へ 東京駅は正午三万」と、市外へと出かける人も多かった。また、「大磯人の波で賑う・・・海水浴場は開場以来非常な賑わいで約一万人余・・・人出は昨年の約三倍以上に上るけれ共何れも腰弁当旅行が多い」(十七日付讀賣)と報じている。
・八月「避暑に行くのか 蒸されに行くのか 湘南も房総地方も」十四日付讀賣
 「房総の海辺は大賑い」(五日付時事)、東京から泊まりがけで海水浴に出かける人々が多かった。数万が訪れたために、海辺の各旅館は満員で泊まる所もないというありさまで、近来にない賑わいであった。「海へ行く列車は鮨詰め 苦熱の都会を免れる人で大混乱の両国駅」と続く。平日でも1万人以上の乗客があり、前年の倍以上とのこと。
 稲毛から先の避暑地には2万人前後滞在しているが、旅館はがら空きで、皆貸間や貸家を利用していた。さらに「避暑に行くのか 蒸されに行くのか」と続く。湘南地方は上流階級の人々、房総は中流以下の人々や書生達で混雑していると、東京の人々のレジャー動向を報じている。
 海水浴は市民にかなり浸透していたが、低所得者層には手が届かないあこがれのレジャーであった。暇のない民衆には、市内の月島や国技館の納涼園などに家族連れで出かけるのが精一杯だった。
 「月島の遊泳デー」(五日付以下讀賣)は、六日から五日間にわたって遊泳大会、余興に海中の宝探しや大福引きなどを企画。国技館では「納涼福引デー」(二十二日付)。夏の楽園と人気のある納涼園は、日本三景随一・安芸の宮島のイメージしたテーマパーク。一階はプールと「美人十数名が宮島八景音頭を踊る」迫り出し舞台、「二階三階は生き人形を配しらった・・・宮島の模型、太平楽、神殿前の舞楽、千堂の内面、厳島の夜合戦、清盛夕陽返し・・・」。なお、プールには「卅五万馬力の扇風機が台風を巻起す数十の扇風機も盛んに旋って相当の風邪を起す花氷柱は何本も」との趣向。入場料は大人50銭、小児30銭、と比較的安いが、窮民にとっては国技館の納涼園も高値の花。
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大正十一年(1922年)中期の主なレジャー関連事象・・・6月加藤友三郎内閣成立/7月日本共産党結成
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5月4朝 夏めく縁日気分(京橋清正公前)      
  5朝 ダンス大流行、警視庁取締り開始        
  9読 神田祭り、大鳳輦や神輿大太鼓などを10万円で新調
  9読 本郷座「加茂川堤殺人」連日満員御礼      
  15朝 大相撲夏場所三日目初めての盛況        
  22日 「福引の注射がてき面の平和博」入場者が20万人
  22朝 大相撲夏場所千秋楽大入り満員       
  22朝 芝浦球場、台覧で3万の観衆、三田軍稲門に勝つ
  25朝 蔵前高工の記念祭、吉例で凄まじい人気    
  28朝 第一回女子総合競技大会お茶の水高師トラックで開催
  28朝 平和博で蛍狩り、当日4万4千人入場
6月1朝 不入りの平和博値下げ、休日80銭を60銭・夜間小人半額等
  2読 有楽座の東西名人会満員御礼
  2朝 賑やかな鮎の初漁、人と竿で埋まった多摩川 
  3読 明治座「悪魔の鞭」初日満員          
  3読 御国座の安来節60日間も大入り満員        
  16読 明大五年振りに早大を屠る 観衆数千        
  21永 荷風小山内薫等と明治座を見る        
  26朝 平和博、福引デー10万人を突破しそう     
7月10読 草市、真菰14・5銭、籬垣12銭、蓮葉 2・3銭
  15読 千代田館「腕白少年」他満員御礼
  16朝 外れた川開き 飛行機も景気を添えた 船は昨年の四分の一 
  16永 荷風、露台の上より始めて博覧会場の雑踏を眺め得たり、帰途電車満員にて乗るを得ず
  17読 大磯人の波で賑わう 海水浴場は1万の人出 
  17朝 晴やかな日曜の藪入り 慰安の市中湧返る 平和博は正午に10万
  26読 二十七日から成田山大祭、三日間は参詣人が非常に多かろう
  27読 平和博売店が不況で困り夜店の露店で捨売り 
8月5読 月島の遊泳デー余興に宝探しや大福引き   
  5読 オペラ館「女訓導」連日満員で日延べ    
  5読 品川に海水浴場三州亭開設         
  8朝 海へ行く列車は鮨詰め           
  22読 国技館で納涼福引デー           
  22読 湘南も房総も福引デー           
  24読 避暑に行けぬ児童の慰安会、月島本願寺に2,500名 
  24永 新富座、千秋楽に当りしが風雨の為閉場
  24読 外濠の観月舟遊夜間許可、納涼で賑わうだろう
  28読 満員の一高グラウンドで三高遂に零敗