大正十三年中期 徐々に復興 市内の娯楽も

江戸・東京庶民の楽しみ 177

大正十三年中期 徐々に復興 市内の娯楽も
 九月で関東大震災から一年となる。関東大震災からの復興は徐々に進みつつあり、娯楽も少しずつ賑わいを取り戻しつつあった。人心の混乱を発生させないように、メーデーを包囲するように制御し騒ぎにならないよう抑えた。その一方で、落ち込んだ人々の気持ちを盛り上げるため、御成婚奉祝会を東京市は大々的に催した。市民30万人もを動員するイベントとし、奉祝気分を盛りあげ、人々の落ち込んでいる気持ちに潤いを挿した。
 このような手法によって、市民を誘導することができることを確信した為政者(曖昧な表現?)、次の段階へと進むことになる。
・五月「大相撲初日、大入り場さえ四分のさびしさ」十七日付讀賣
 メーデーも参加人員が少なかっただけでなく、二日付(讀賣)の見出しでもわかるように「検束者もあったが 無事に解散した メーデーの行列」と至極穏かだった。それもそのはず、赤坂山王台では2千余名の警官が、3千余名の労働者たちを人垣で囲み手も足も出ないようにしていた。また、前日の夜に、リーダー格の人物は検束した上、会場の入口で問題人物を拘束するなど万全の体制を取った。演説が終わって行進が始まり、途中多少小競り合いはあったが、警官に見守られながら上野両大師前へ集結した。こうして2万人の労働者を集めた第五回メーデーは、事故がなく警視庁は大喜びであったと。
 五月は本来なら行楽シーズンのはずであるが、市民に際立った活動はみられない。一日、大伝馬船7艘に僧侶が20数名分乗した柳橋の川施餓鬼。三日四日と目黒競馬が賑わい、46万円もの馬券の売上げがあったとあるが入場者は6千人余。スポーツも四月からテニスや野球など盛んに行われてはいるが、注目された拳闘選手権試合の観衆が数千足らず。十六日から始まった大相撲、しかも震災後はじめての東京での相撲、国技館は三十万円もかけて改装され、木の香りも香ばしく、復興気分を大いに盛り上げると期待されていた。ところが、初日は、大入り場でさえ四分の入りという淋しさ。もっとも日がたつに連れて徐々に客が入るようになり、十日目は大入りとなった。なお、映画はどこも盛況だったみえて、帝国館が上映した「大乱舞劇舞姫悲し」などは満員御礼の広告が出されていた。
・六月、御成婚の奉祝「夜の浅草の雑踏 芝居も活動も皆客止め」四日付讀賣
 御成婚の宮中饗宴は四日間にわたり、六月四日に終了した。東京市の奉祝は、四日の午前十時半から二重橋前広場で公民3万人、朝野の名士3千人を招じて挙行された。御成婚奉祝会場に3万3千人、この他丸ノ内一帯から日比谷にかけて30万人を超える人出。式後は3千人の立食、日比谷音楽堂で大音楽、花電車、提灯行列と、日比谷を中心に夜まで賑わった。明けて五日は、御成婚奉祝日。午後になって人出はますます増し、夕方からの小雨で花電車は中止となったものの、奉祝気分は盛りあがった。上野付近では、市主催の奉祝実況の活動写真、山下交番前の広場では下谷芸者連の余興、不忍池畔では花火、広小路付近には露店が並び、その人込みを押し分けるように提灯行列が幾組も通った。花電車はなくても、日本橋と京橋には余興場、また銀座まで続く露店は押すな押すなの大盛況。五日の人出はどこもかつてないほどもので、特に浅草は朝から夥しい人で埋まった。芝居も活動も皆客止めになるという大入り、夜になるといよいよ身動きもならないほどの賑わいとなった。
 「この七月で円太郎お廃止 お次に現われるのは 高級円太郎君」(五日付讀賣)との記事がある。円太郎とは市営バスで、この年の一月から震災後の交通を補うため運転されていた。が、電車が復旧するにつれて、当初800台で一日12~3万人乗車を見込んでいたのが5~6万人にまで落ち込んだ。そこで十六人乗り・二十五人乗りの高級車を運行することとなった。ちなみに、円太郎バスはその後十月に料金を市電なみの7銭に値下げ、十二月には「赤エリ嬢」と呼ばれる女性車掌が乗務するようになり、再び市民の人気者となる。以後このバスは、市民の足として親しまれ、レジャーにも欠かせぬものとなった。
・七月「めっきりふえた 婦人の水泳ぎ」二十六日付讀賣
 七月に入り、国技館の納涼園がはじまった。第一日目に早や1万3千人が入園、はじめての日曜日には3万人を超えた。三保の松原より富士の遠望をきかせた大パノラマ、500坪のプール、大小三つの余興舞台などで構成されていた。入園料は大人50銭・小児30銭。この時期、大きなイベントのない東京では、讀賣新聞社の主催、東京大角力協会の後援ということで、大々的に宣伝もされたらしく八月の末までにかなりの客を集めた。
 暑くなるに従って、海や山へ出かける人が増え、「休み続きで汽車は満員」(十三日付讀賣)とあるが、乗客の多くは学生で占められていた。二十一日付では避暑客が前日の日曜でも例年と比べると遥かに少ないと、震災が影を落としている。両国の花火も「ゆうべの川開き 賑ひの客に漂ふ哀愁」「水の上も三百余艘の乗合船で一杯だ」(二十日付東朝)と、新聞の見出だけでは、人が多いのか少ないのかよく分からない。全体的に人出は前年の三分の一も減少したようだ。水上署の発表では乗合船だけで5万人が乗船したが、陸上の人出が例年より少なかったのだろう。ただ、讀賣新聞では、花火見物の賑わいを伝えるとともに、自社の主催しているせいか、納涼園がことのほか繁盛していると書き立てていた。
 この頃、女性の水泳者が増えたことを報じている(二十六日付讀賣)。月島東南の岸壁には20余の水泳場があり、二十日は約2万人が泳いだという。女性が最も多いのは龍田会水泳場で「男千人に対し女三百人の割合」と。前年は多い時でも53人であったというから、この年急激にふえたことがわかる。二十七日は、大勢の人が泳ぎに出かけ、海水の濁っている月島三号地の16ヶ所の水泳場には、下町方面から午前中に6千人、午後二時頃には1万人がやってきて、海面はまるで芋の子を洗うよう。水泳場は、王子・小松川・品川・大井・子安・千住・多摩川など58ヶ所あって何れも賑わった。また、羽田や大森には山の手方面の家族連れが訪れ、3万人を超えた。この年は、近場の海辺や川筋に出かける人が多く、全体では前年の三割以上も増加したという。
 水泳が盛んになると、海水着の流行も気になる。六月二十二日付の新聞(時事)によると、この年の水着はだんだら模様がすたれたとある。当時、女性の水着は国産で1円80銭から7円、舶来品で10円前後。男性は、国産で80銭~3円、舶来品は婦人物とほぼ同じということであった。
・八月「涼を追うて海へ山へ 流れ出た二十万人」十一日付報知
  八月に入り、徐々に海や山へ出かける人が多くなった。十日の日曜、上野・東京・両国等の駅は、日帰り避暑客であふれた。行き先は湘南地方が減って、震災の影響の少なかった東北線信越線沿線が増加した。房総方面も遠い所は賑わいを失い、近場の稲毛や千葉海岸などが人気で、家族連れが3万5千人も出かけた。また、京浜方面の新子安や穴守などの海水浴にも子供連れが5~6千人出かけるなど近在の海水浴場はどこも人気があった。避暑はかなり市民に浸透しているようだが、震災の影響や不景気もあってか、下町の人より山の手の勤め人が多く、全体としては避暑客は少なかった。なお、同日の讀賣新聞に、海上納涼東京湾遊覧船の記事がある。午前十時に出て四時半に帰るコースで、会費は4円50銭であった。
 「泡を食った 房州の避暑客」(十七日付讀賣)との見出しで、十五日の早朝、地震が発生、震源九十九里方面という噂が立つと、大勢の人が早々に引き上げた。例年なら二十五日頃から帰り始めるというのに、地震のせいで8万人程いた避暑客が十五日1万1千人余、十六日に約1万人と、ぞくぞくと東京へ戻っていった。おかげで、駅員は手荷物の激増にてんてこ舞いであったとか。
 「人と思えぬ 空の放れ業」(二十五日付讀賣)が、会費10銭で鶴見汐田海岸で行われた。それは国民飛行協会主催・讀賣新聞社後援による「民間飛行殉難者弔意大会」で、冒険飛行家の日野敏雄が、空中での縄梯子の昇降やパラシュート降下などを披露した。このイベントを見ようという人々の行列は、鶴見駅から海岸広場まで続き、3万人を超える盛況であった。
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大正十三年(1924年)中期の主なレジャー関連事象・・・5月アメリカで排日移民法成立/6月護憲三派内閣成立
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5月4読 競馬三日目、雨でも大盛況
  4読 柳橋の川施餓鬼
  5読 競馬五日目、いずれも大入り満員6千4百人余馬券46万9千円余
  6日 帝国館「大乱舞劇舞姫悲し」他満員御礼
  8読 海へ海へ、この春の修学旅行の傾向
  8読 新富座「正チャンの冒険」他満員御礼
  11日 遊楽館「乃木将軍」大好評連日満員御礼
  17読 大相撲初日、大入り場さえ四分のさびしさ
  26読 大相撲十日目、さすが日曜日これまでにない大入り
  31永 この夜銀座通雑踏甚しく、日比谷霞関の辺巡査憲兵手に手に提灯を携え路を警しむ
6月5読 御成婚奉祝会、日比谷を中心に人の波、灯の海
  6読 御成婚の奉祝、上野から銀座に人出、浅草は芝居も映画も皆客止め
  9日 米国映画を上映せずと映画会社が決議
  10読 早大球場で稲門、三田を破って優勝、観衆約2万人
  12朝 米国より独・伊の映画がおもしろい
  13読 市内ダンス場撲滅運動、帝国ホテル舞踏場を閉鎖させる
  13時 築地小劇場白鳥の歌」などオープン公演
  30日 米国映画ボイコットの足並みくずれる
7月2読 国技館の納涼園第一日、早や1万3千人
  7読 納涼園、3万人一寸出る
  13読 12日の松方元首相国葬、休み続きで汽車は満員
  20朝 川開き、乗合船は五万人、人出三分の一も減り漂う哀愁
  21読 避暑客、前日の日曜でも例年より遥かに少数
  21読 玉川の納涼花火二十三日
  26読 めっきり増えた婦人の水泳、男子の三割に
  27読 大江戸名残り隅田川の灯籠流し
  27読 池之端実玖稲荷の臨時大祭でガス中毒
  28朝 きのう夥しい 海への人出
8月11報 涼を追うて海へ山へ、流れ出た二十万人
  11読 海上納涼東京湾遊覧船、会費4円50銭
  12読 本郷座で柔道拳闘懸賞試合、特等2円一等1円50銭二等1円三等50銭
  17読 地震で房総方面から避暑客逃げ帰る
  21読 運だめしに納涼園の賑わい
  23永 日中金星顯るるとて人々騒ぎあえり
  25読 鶴見汐田海岸で冒険飛行、3万人の人出
  25読 常盤座、沢村源之助等の「女団七」他連日満員御礼
  31読 避暑客の引揚げで忙しい各駅
  31読 浅草松竹座新声劇「血染の瀑布」好評満員

 

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