大正時代に衰退する娯楽・レジャー

江戸・東京庶民の楽しみ 186

大正時代に衰退する娯楽・レジャー
・娯楽の盛衰
 時代の変化を感じさせるのは、衣食住であるが娯楽も同様である。その変化は、娯楽の方が早く展開し、顕著であるように思う。生活様式は、なかなか保守的であり、住宅などは耐久年数が長いことから変化が遅い。早いのは、やはり衣服の方であろう。後の人たちが見ると、衣食住の形がアンバランスを感じるのだが、当時の人たちはそれが自然であった。
 娯楽の変化は数年で進むことがある。映画の浸透は著しく、娯楽全体に及ぼす影響が大きく、大正時代ならではの現象であろう。映画は、明治後期、のぞき見式活動写真(キネトスコープ)として始まる。当時の活動写真は、まだストーリーのあるドラマではなく、断片的な映像を見せるものであった。そして、活動弁士という日本ならではの特異な興行が行なわれた。多くの人々を映画に誘った「日露戦争の活動写真」、天然色活動写真の興行、フランス活動写真「ジゴマ」を上映と、映画は娯楽のメジャーとなる。そして、発声活動写真の放映、連鎖劇の興行と、目まぐるしいくらいの、それも日本ならではのスタイルで展開した。映画の浸透は、人々の娯楽に大きな影響を与え、それによって衰退する娯楽も出てきた。

・衰退するレジャー
 明治時代には一世を風靡した寄席は、そこそこの人気を得ていたものの大正期にはかつての勢いを失った。見世物や祭、川開き(花火)なども、どちらかといえば大正時代には停滞気味のレジャーである。
 参詣(参拝)や縁日に出かける人も、時代が進むに連れて少なくなっていった。また、明治時代には参詣(参拝)のついでに縁日を見て回ることは一連の行動となっていたが、大正になると別個の活動として行う人が出てきた。歳の市は、暮れの買い物の場ではあったが、公設市場や商店街の歳末売出しに客を奪われてしまった。明治神宮参拝は、神聖なムードが先行し、出かけたついでに露店を冷やかすような人が少なくなった。従って、江戸時代のように信心に託つけて遊ぶ人が減り、開帳も本来の宗教活動としてのウエートが高くなった。
 大正時代の見世物は、サーカスなどそこそこの人気を保っていたが、江戸時代の名残をとどめた大道芸、明治時代に流行ったジオラマや菊人形などは衰退した。それらに変わって飛行ショーや自動車競走など新しい趣向の興行が登場した。そうなると、国技館樺太展のように納涼園に入場したものの、展示を見るだけではなく自らアイススケートもするという、見世物とは明らかに性格の異なるものに変わっていった。
 祭もレジャーとして大きく変わった。「祭」は、季節の変わり目にあたる日に、神霊を迎え奉る、神に奉仕するところに原義があった。明治時代から徐々に宗教色が薄れ、大正時代には本来の意味すら問われなくなった。明治時代には、「釈迦降誕會」「涅槃會」「彼岸會」など、寺の催す「會(会)」もすべてが祭であった。ところが、大正時代の祭と言えば、浅草三社祭や富岡八幡祭など神社の神輿を担ぐものとの認識が強くなった。また、変わったのは、人々の祭への取り組みかたである。祭にかけるエネルギーは、江戸時代はもとより明治時代に比べても明らかに低下、参加する祭から見るだけの祭に移行している。さらに、外国から入ってきた「労働祭」「復活祭」「巴里祭」などの言葉が生まれた。そして、読み方も、「まつり」ではなく「さい」となった。
 川開きもの花火も、夏のレジャーとしての盛り上がりを欠く年が出てきた。明治時代、川開きの期間は、花火だけでなく舟遊びなどの納涼を行う人々で賑やかであった。特に川開きの最初に催す花火は盛大で、その花火大会を「川開き」と言うようになった。しかし、隅田川の水質悪化で舟遊びは廃れ、花火にしても当日の天候不順などもあって、市民の関心度はそう高くないようだ。明治時代の新聞記事と見比べると、紙面の取扱いが小さくなっているのがわかる。また、川開きに、632も喧嘩があり370人もの酔っぱらいが保護されたというような大盛況ぶり(明治四十二年)を伝える記事も少なくなった。
 市民の関心度が変わったレジャーのなかでも寄席は、その変化が最も顕著である。明治時代のピーク時には年間約500万人もの観客を動員していたが、大正四年(1915)には約250万人と半減。そのため、席数(寄せ場)も減少し、明治の末には、160近かったのが大正十一年(1922)には84箇所に減少している。人気低迷の理由は、映写技術や表現内容が日進月歩する映画に観客を奪われたからである。また、下層階級の余暇が大きく変化し、夕方から寄席に出かける時間だけでなく心のゆとりもなくなったためでもあろう。

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園芸観客の変化

  大正期の寄席は、明治時代と同じように、講談、落語、浪花節義太夫、奇術、音曲など様々な芸が演じられていた。観客は座敷に座って見る(聞く)というスタイルで、観客が少なければ横になっている人もいた。寄席の衰退は落語が顕著で、噺家「オットセイ」こと柳亭左楽の死去(明治四十四年)に続いて、元年(1912)には、当時の第一人者であった、俗に「住吉町」と呼ばれた四代目橘家圓喬が48才という若さで、肺結核で亡くなった。大正三年には、初代三遊亭遊三や二代目蝶花楼馬楽などの人気噺家がなくなり、落語の人気は徐々に下降線をたどっていく。
 そのため、噺家たちは危機感を持ち、勉強会や業界の刷新に取り組んだ。まず寄席の沈滞ムードを是正しようと、三代目柳家小さんや四代目橘家圓蔵などが月給制の「東京寄席演芸株式会社」を発足した(大正六年)。また、小さんが「落語協会」、五代目柳亭左楽が「落語睦会」を結成したものの、仲間同士の離合集散に明け暮れた。落語界は、「落語研究会」のような意欲的な試みをしていたにもかかわらず、効果はあまりなかった。
  低迷する寄席の観客を支えていたのは、むしろ浪花節義太夫の人気によるところが大きい。特に浪花節は、明治末頃から次第に民衆の心を捕らえ始め、浪曲師・桃中軒雲右衛門は、大正元年歌舞伎座で独演会を興行するほどの人気を得た。浪花節が流行し、大正五年(1916)、寄席の観客が底を打つなか、桃中軒雲右衛門は、四十才半ばで亡くなった。にもかかわらず、浪花節の人気は続き、天中軒雲月などの名人を輩出。また、人気の底堅い義太夫の竹本綾昇なども観客を集めた。

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東京市の寄席・映画館の営業数の推移

 寄席の観客数はようやく持ち直し、大正八年(1919)には年間300万人程度に回復した。ただ、観客数の増加は好景気を受けた影響もあって、必ずしも寄席の人気が戻ったわけではなかった。それを証明したのが関東大震災後の寄席人気であった。震災の後、芸能関係で最初に興行を始めたのは、四谷の「喜よし」、牛込の「演芸館」などの寄席。「四谷の喜よしは七時にならぬうちに便所へかよう障子まではずす程大入り客留……」(十二年十月二十日付東日)と、再演まもない寄席は、会場に観客が入りきらないくらいの大入りだった。大正十一年(1922)の入場者数は286万人と下降気味だったが、「このぶんなら・・・」と震災後の大幅な観客増加も期待された。だが、実際には十三年の観客数は、それまでの最低をさらに20万人も下回る233万人であった。震災直後に賑わったのは、災害によって娯楽に飢えていた人々が一時的に殺到したためで、何も寄席の人気が回復したからというわけではなかった。

 

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