家族連れの行楽が目に付く三年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)194
家族連れの行楽が目に付く三年春
昭和三年(1928年)
 四月、在留邦人保護の名目にして、ふたたび出兵(第二次山東出兵)、支那駐屯軍五千人の兵力で山東省の要地を占領した。戦争は刻々と近づいているが、東京市民の多くは無頓着といって良い状況。この判断は、後世になってからの我々ならできることである。そして、翌五月には済南事件、済南で市街戦を起した。東京市民の目をそらせるかのように、新聞は事の重大性を記すことなく、いや書けなかったのかもしれないが、家族連れの行楽を報道している。
 春の行楽は、前年にもまして盛大になっているよううだ。五月五日の新聞には、「遊覧と旅館」の広告が電鉄会社(京成電車東武鉄道電車、玉川電車、目黒蒲田東京横浜電車、王子電車)などによって並べられている。千葉方面の汐干狩、館林のつつじ、第一遊園地・玉川児童園・玉川プール、丸子多摩川多摩川園、尾久の温泉地・あら川遊園・飛鳥山鬼子母神江ノ島など、当時の状況がわかる。


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昭和三年(1928年)四月、第二次山東出兵⑲、春の人出は盛況、花見は「仮装乱舞の夜の飛鳥山
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4月2日Y 雨模様でお手近で御大礼博の入場「十万突破」
  4日a 神武天皇祭、市内は雨でも賑わう
  6日ki 往復とも汽車が大混雑
  8日ki 綺堂、庭の花壇に鶏頭、百日草、矢車草、鳳仙花、サルビア等の種を蒔く
  9日A 「潮の如く押し出した、お待兼ねの花見客」
  9日ki 上野駅は花見客で頗る混雑
  10日A 「仮装乱舞の夜の飛鳥山」人出で大賑わい
  16日A 「花の名残の日曜日、百五十万の人の波」この春の最高記録
  29日ki 靖国神社大祭、九段付近は夥しい混雑
  30日ka 招魂社昨日より祭礼にて人出おびたゝし
  30日y 代々木原頭の天長節観兵式、拝観者三十万
                                                
 春を待ちかねていたかのように、一日、三日の神武天皇祭も、雨が降っても市内は賑わった。八日の日曜は快晴、綺堂は午前中草花の種を蒔き、午後から散歩し「どこも定めし賑わったことであろう」と日記に書いてる。その通り、日比谷公園花まつりをはじめ、上野や飛鳥山は夜までもおびただしい花見客で埋まった。また、上野駅の乗降客20万人、新宿駅が18万人など近郊へも人出があり、「人出百万」y⑨市民の大行楽がスタートした。
 翌九日も、綺堂の日記には「上野駅は花見客で頗る混雑」とあり、飛鳥山では恒例の仮装比べの花見。その賑わいは、王子電車の乗客9万人余にのぼるとある。この春、最も人出があったのは十五日で、名残の花を求めて大勢の市民が行楽に出かけた。
 その後も、市民レジャーは活発である。二十九日からの靖国神社の祭礼、神田辺を散歩した岡本綺堂は、九段付近の夥しい混雑を見ている。三十日に靖国神社を訪れた荷風は、天幕を張った飲食店でサザエ焼を売る者が多く、その匂いが充満していたという。なお、見世物小屋の芸人が外に出て食事をしている様をみて、哀れに見えたりと日記に書いている。
 以上の他に目に付く記事は、日比谷公園の植樹祭、昭和と共に開催されたものである。都市美協会主催によるもので、八千人の参加が記されている。A④
 「お釈迦様に甘茶 盛な花祭り」が、和光会によって四月八日に催された。「花祭りをクリスマスのやうに一般家庭の年中行事にまで普遍化させたいと」ある。y⑨
        
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昭和三年(1928年)五月、鈴木内閣辞任③、潮干狩りが盛んになるなど市民の行楽気運は続く
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5月2日a 「強風、空に鳴って メーデーの意気」と芝公園に「一万五千余の大衆」が集会
  4日A 明治座「ムッソリニ」他、連日満員
  7日A 歌舞伎座平清盛」他、引続いて売切れ
  11日a 大相撲夏場所、初日は民衆デーで賑わう
  14日y 根岸競馬二日目、「二万の観衆」未曽有の盛況
  16日A 海軍連合軍音楽隊「勇ましい市内行進」
  19日Y 三社祭の神輿で13名負傷
  20日A 浅草富士館等「地球は廻る」連日満員
  23日Y 日比谷公園「動乱の濟南」他無料上映に二万の観衆
  27日a 大岡山へ移転後、名物の「蔵前気分」の祭賑わう
  28日Y 明治神宮競技場で第一回全日本学生陸上競技大会が開催され、早大が優勝する
  28日Y 大礼博閉会式最後の賑わい、65日間の入場者百七十四万人で、予定の二倍達成
                                                
 五日土曜日の新聞広告Aには、王子電車が尾久の温泉地・あら川遊園・飛鳥山鬼子母神、ピクニックの丸子玉川・多摩川園、玉川電車が第一遊園地・玉川児童園・玉川プール、東武鉄道が館林のツツジ茂林寺のぶんぶく茶釜、京成電車が谷津や稲毛などの潮干狩り、城東電車が浦安沖の潮干狩り、京浜電車が羽田・子安の潮干狩り、王子名主の滝(入場料大人20銭)が舟遊びや楽焼など、行楽情報が満載。大勢の家族連れが、出かけたものと思われる。
 五月は芝居や映画も盛ん、満員や売り切れの広告が並ぶ。ただ、大相撲夏場所は、入場料50銭の民衆デーの初日が賑わったものの、「情けない二日目不入り、正午近くになっても数えるほど」a⑫。その後も満員になることなく千秋楽を迎えた。相撲の不入りは、「野球や競馬の強い影響」a⑳と書かれている。他方、競馬は人気があったと見えて、十三日の根岸競馬二日目は午前中に満員、二十日の三日目は「三万人」Y⑳で売上げ73万円になる。
 二十日日曜、閉会の近づいた御大礼記念博覧会(東京博覧会)で「東京博福引百貨店でー」。福引の景品は、7百貨店が博覧会に出陳した好評の「鶯色地振袖模様着物及帯・色ミネラーゼ縮緬社交服及帯・紋金紗中越模様袷着物及帯など」。なお福引は、空籤なしで全員に景品が出された。また同日、日比谷公園音楽堂では、新交響楽団の「大衆音楽大演奏会」が入場料50銭で開かれた。

 

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昭和三年(1928年)六月、張作霖爆死事件④、田中義一首相襲撃される⑧、不安の兆しで市民のレジャー気運は衰退
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6月10日A 多摩川の二子渡し付近で“ほたる狩”
  12日A 「この夏は何所へ」房総地方は三百八十万人の避暑客を見込む
  14日ki 山王祭の宵宮で強飯
  17日A 混乱の街をゆう然と山王祭りの行列
  24日Y 水泳場、水上署への出願50
                                                
 六月になると、きな臭いニュースが紙面を占めはじめた。市民の行楽に関する新聞記事は少なくなり、鮎の解禁や“ほたる狩”などお決まりの風物詩的なものだけになった。
 「山王祭り」についても写真だけ。荷風の日記⑭には山王祭の様子が「祭礼の挑燈賑なり、見番の傍に踊屋台あり、土地の芸妓半玉出演する由にて群集雑踏せり」、また「山王権現の祭礼にて妓家茶亭一斉に紅燈を点ず」とある。また、綺堂も「山王祭の宵宮で強飯」を作り、「各町内でも小さい神輿を作って、若い者や子供達がかつぎ廻っていた。わたしの横町へも神輿の渡御があったので、賽銭を供える」と日記⑭に書いている。市内では、他でも祭が催され、花菖蒲や荷風の好む紫陽花などの名所で、市民はひっそりと季節の楽しみを味わっていた。