大恐慌もまだ市民の遊びには影響少の四年の秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)200
大恐慌もまだ市民の遊びには影響少の四年の秋
 景気の悪化は、ニューヨーク株式市場が大暴落する前から始まっていたものであるが、暴落は日本を除くものであった。そのためか、国内の反応は遅く、大衆には感じなかったのではなかろうか。とは言っても不景気の浸透は徐々に現れており、市民の遊びにも影響を与えていた。
 ただ目に付くのは、国のスポーツ振興である。スポーツを本当に大衆のもの、遊びとして楽しむことを目的としていたのではないようだ。人々を動員する口実、スポーツに託つけて政府が人々を方向づける意図を感じる。十年後には、恒例の行事として催され、動員が義務づけられ、戦争を前提とすることが当たり前になっている。
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昭和四年(1929年)十月、日比谷公会堂開場⑳、ニューヨーク株式市場で大暴落(24)スポーツ観戦がふえる中、芝居は不景気のため値下げ
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10月2日A 紅葉見物の名所「今月中旬から」と案内
  2日A 朝日新聞社主催の発声漫画「とっくり漁」など、二夜満員
  3日A 遷宮祭のお休みでどこも人出で賑わう、明治神宮は午前中に五千人の参拝者
  13日Y 雨が祟ったお会式、でも人出二十万
  14日A 球場に入れず、日比谷公園早慶戦放送を聴くファン二万人が埋め尽くす
  15日a 早慶戦「応援団実に三万!」
  17日A 御遷宮奉祝運動会「神宮競技場に三万の乙女」都下51校の女学校生徒総出動
  18日ka 酒肆舞踏場の取締厳格となりしため銀座始め市内の酒舗はいづれも景況落寞たり
  22日Y 電灯五十年祭、銀座通りは身動きもできぬ人出
  23日a 「緊縮の不入りに 持ちきれぬ大劇場」
  24日ka 招魂社祭礼にて近巷雑沓甚し
  28日A 神宮体育大会開催、全国8千人の若人
                                                 二日は遷宮祭のため休み、市内はどこも賑わい、明治神宮は午前中に「五千人」の参拝者があった。十二日の御会式は、正午の時点で「二万人」もの人が出ており、800人の警官隊出動。雨天にもかかわらず「人出廿万」もあった。
 人気の早慶戦、切符は、二日間で早慶両校に3万枚、リーグ加盟校に800枚、球場前売りが2万枚となっている。十四日の試合は「応援団実に三万!」とあるように、観客の大半を学生が占め、一般のファンは入手しにくい。そこで、入場券が手に入らなかった人は、日比谷公園のフレヤー・ボールド前に集まり、実況放送を聞いた。なお、その数は「二万人」「ギッシリ集まる」とあるが実際は数千人程度であろう。
 十七日の日独対抗陸上競技は、観客8,639人の中44%が学生。スポーツは盛んになっているが、まだ学生が中心。明治神宮体育大会でさえ、開会式の中央スタンドを埋めたのは一千人足らず。三日目の大会呼び物の蹴球戦、「大人気を呼ぶ」Aとあるが、「冷雨」の中の観客は「一千五百人」。
 不景気のため観劇の観客が減っている。「緊縮の不入りに 持ちきれぬ大劇場」aという記事には、「帝劇先ず半額の大割引断行」、松竹も追随し一階席を50銭に値下げとある。減っているのは中等以下の客で、特等や一等の観客はあまり変わらないらしい。
 同じ紙面に、警視庁は儲かっている「湯屋」の料金を大人5銭から4銭に「値下げさせる魂胆」とある。また、「ふたを開けて 驚いた係員 知識階級失業者の登録に 押し寄せた人の波」との記事もある。

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昭和四年(1929年)十一月、浜町公園東洋一のプール開業⑰、市民レジャーは活発のなかデフレが進む
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11月1日ka 高尾稲荷前三菱倉庫の石垣に腰かけて釣するもの多し
  2日Y 神宮外苑周辺、陸上競技と野球で人出二十万
  3日Y 根岸競馬初日「二万九千人」売上げ45万円
  3日A 「トーキーの犠牲 弁士の失業続出」「生き延びるも もう数ヶ月」
  4日A 明治節「客止めの新宿駅」前日の客二十四万人と平日の二倍以上
  8日a 日比谷市政開館、関東大震災の復興展、一日平均四千六百人の連日盛況で十日まで日延べ
  17日A 「浅草の興行組合 近く一せい値下げ」全市興行物に影響
  20日A 十八日までの帝展入場者二十一万余人、前年より三万五千人増加
  22日A 「映画館入場料値下げ続出」10銭程度
 
 不景気になると金のかからないレジャーが盛んになる。荷風は、一日、中洲を訪れた時、大勢の人が高尾稲荷前三菱倉庫の石垣に腰掛けて釣りをしている光景を見ている。二日には、庭を掃き「菊花紅葉正に佳なり」と日記に書いている。この頃具合がすぐれなかった岡本綺堂は、植木屋を入れたり、花壇の整理をさせるなど、荷風よりもガーデニングに熱を入れた。愛好者が多いのだろう、釣りや園芸はしばしば新聞に紹介されている。
 三日の明治節は日曜と重なり、秋晴れ、市内から日光、筑波、箱根、房総、奥多摩、湘南方面に数万の人々が出かけた。市内は、明治神宮参拝者が「三十数万」や「体育競技最終日の外苑に十万近い観覧者」A④などの人出で賑わった。そのため、新宿駅は夕方に乗降客が集中し、前代未聞の改札口を三回も閉鎖。新宿駅の乗降客は24万人に上り、代々木駅は5万人、原宿駅は14万人、「こんな人出は一昨年諒あん明け後の明治神宮祭以来の事です」と駅長が語った。
 14日付Yで、浅草観音の十月の賽銭が1万6千円、お札と籤で5千円、前年より一割以上増加。増えたのは、苦しい時の神頼み。安価な公衆食堂も市直営11店で6万9千円の売上げ、前年より9%も増加。十七日付で「浅草の興行組合 近く一せい値下げ」の記事。浅草の興行が値下げされれば、全市の興行物に影響が出るのは必然で、「映画館入場料値下げ続出」となった。また、デフレは総てのものにまで進んでいると見え、駅弁までも「いよいよ五銭値下げ」A⑲と35銭が30銭になったと。

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昭和四年(1929年)十二月、東京市電争議おこる③、東京駅八重洲口完成⑯、値下げで前年より活況な映画
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12月7日A 「市電、円太郎罷業で、散々の活動写真街」3~7割減の浅草
  20日A ダグラス入京、警官250名と駅臨時係員100人などを無視し、東京駅は歓迎の群衆で大混乱
  22日A 「雪をめがけて押出すスキー連」で鉄道は大まごつき
  31日A 「いもを洗う 銀座通りの人出」                             31日ka 銀座通夜市雑沓例年の如く酒館は暁二時まで酒を売る                      
 六日、市電とバスがストライキ、そのため浅草への足がなくなり、映画街の観客は3~7割も減少。値下げによって観客を呼ばなければならない時に、興行主は大弱りであった。なお、市内の映画館観客数は、値下げの効果があったためか、前年より2割以上も増加している。
 外国映画の人気を裏付けるかのように、米国スター・ダグラスを出迎えたファンの熱気はすごかった。東京駅構内は、警官や駅臨時係員などで制止していたが、ダグラスが夫人を連れて現われると大混乱となった。このような映画俳優を東京駅で熱狂的に歓迎することは、二月三日付Aの「映画時事」にも書かれている。それには、「何かに熱情を注入したくてたまらない眠らされているところの大衆もまた、いつかは違う意味において動員されるだろう」とある。
 銀座の歳末の状況は、緊縮も不景気もここばかりは影を潜め、いもを洗うような人出。山の手銀座といわれる新宿は、東京で一番の人出。二十九日には12万人もの買い物客、露天商と小売小人が客引きに声をからしていた。浅草は、「商店は例年と変わりないがうす気味悪いこよみ売りが例年になくふえた」。「雷門から田原町通りの夜はカフェーより電気ブランに焼鳥ののれんの方が客が多い」。「流行歌『摩天楼』『恐やサタンの目が光る』がヤケにひびく」と。また、浅草の興行状況は、「安い喜劇館ばかりが満員の盛況だが玉乗りも安来節も無くなった江川はすっかり寄席となって喜劇は『全部精神異常なし』と来た」となっている。
 そのような浅草の変化を象徴したのが、カジノ・フォーリーの爆発的な人気である。川端康成の小説『浅草紅団』が東京朝日新聞夕刊に連載され、浅草が注目されたことに加えて、「ズロース事件」をきっかけに人気を集めた。ズロース事件とは、当時の踊り子は、オペラ以来の習慣で、西洋ダンスといえば金髪の鬘をつけ、晒木綿(さらしもめん)で作った手製の乳当て、膝まで隠れるだぶだぶのズロースというスタイルであった。ある日たまたま、踊っている最中に胸の晒が緩んで落ちかかった。その踊り子は前かがみのまま顔を赤らめて引っ込んだ。それに気づいた観客が、おもしろおかしく話しているうちに、「踊り子がズロースを落とす」という噂が広まった。こうしたこともあって、カジノ・フォーリーの観客は一躍に増加した。