再び盛り上がる十年秋の市民レジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)224
再び盛り上がる十年秋の市民レジャー
 秋に入ると、街中に人々が急に出歩き始めたようだ。荷風も「銀座裏通酔漢多し」と日記に記している。映画は別として、盛り上がったように見えるのは官製イベントの影響がある。それでも、大勢の市民は軍需インフレに踊らされているが、まだ自由に遊ぶことのできる余地を楽しんでいるようだ。
 街中の様子は、暮れになっても前年のような暗さがなく、大晦日の銀座を「表通の雑沓を宵の口に変らず。灯火昼の如く酔歩放歌するもの多し」と荷風が記している。
 新聞の論調というか、書く姿勢が明らかに軍国調になってきた。中でも気になるのは、現代の感覚からすれば何とも言えない見出しを連続させている。その例として、連合艦隊等の4万の半数ともなる将兵、「帝都に水兵服漲る 明朗!軍国の秋 力強き海の護り二万の将兵 潮の如く上陸す」「戀しき土の香に 胸躍らす海の子 到るところ歓聲爆笑」「五百の女学生が 日比谷でお接待 市の歓迎会の賑ひ」「神宮球場も開放」、さらに「天高く・・・  二万水兵うち雪崩・・・」と続く。
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昭和十年(1935年)十月、第四回国政調査①、台風で浸水一万数千戸(26)、秋の行楽たけなわ
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10月2日A 上野松坂屋伊藤博文公展覧会、入場者十万人を超えた
  6日a 帝都に水兵服漲る、二万人
  8日a 松竹座エノケンの「大学万歳」他満員御礼
  12日ka この夜土曜なれば銀座裏通酔漢多し
  13日A お会式、人波五十三万、万灯は百十位
  17日a 浅草帝都館「永久の愛」満員御礼
  19日a 帝国劇場・大勝館「結婚の夜」他満員御礼
  19日A 帝都座・富士館「追分三五郎」他満員御礼
  20日a 浅草電気館等「新納鶴千代」他連日満員
  21日A 人出、この秋随一数十万
  25日a 帝国劇場等「ワルツ合戦」他満員御礼
  30日a 早慶戦発売と共に入場券売切れ、六万の観衆
  30日a 神宮外苑競技場で一万二千の精鋭を集め、第八回明治神宮体育大会
                                                
 五日の朝、連合艦隊の「二万の将兵」が芝浦から上陸。歓迎の群衆が見守るなか、銀座・日比谷・虎の門の三方向から宮城に行進、「万歳を絶叫」して、水兵たちは市内に散った。日比谷公園には水兵歓迎会場が設けられ、歓迎会や余興などのもてなし。神宮球場では六大学リーグ戦の外野席を無料で開放。土曜日ということで、市内各所は水兵たちの参加で賑わいを増した。
 お会式は、前年より万灯が少なく110位に減ったが、大半が電化された。人出は20万人減の「五十三万」にしては、かっぱらい33件、スリ6件、賽銭泥棒35件、迷子20件、泥酔5件と事件は多い。
 二十日日曜、絶好の秋晴れ、新宿駅から25万人、上野駅から10万人、両国駅から5万をはじめとして、ハイキングやピクニックに出かける家族連れで電車は満員。市内も、上野は動物園が2万5千、美術館なども人で埋まり、神宮球場早明戦や慶立戦が早慶戦に優るとも劣らぬ観衆、あちこちの運動場では、運動会の花盛り、この秋随一「数十万」の人出となった。
 二十九日、第八回明治神宮体育大会が神宮外苑競技場で「一万二千人の精鋭を集め」開会。この年の特徴は、「事務服を脱いで 女軍の躍進」と、これまでの女子競技は女学生が中心であったが、「職業婦人」の進出が目立った。
 同日、神宮球場では早慶戦、開場と共に内外野席1万1千枚が売切れる熱気。「六万の観衆」のなか慶應の勝利、試合終了後、双方の応援団長が「固い握手」を交わした。が、球場を一歩出ると「つきものの 銀座・早慶打撃戦」。白腕章の慶應、赤腕章の早稲田の学生が、喧嘩の仲裁や交番からの貰い下げに奔走するが手の打ちようがない。バーは学生の出入り禁止のため、ビヤホールやおでん屋などは、遅くなるにつれ『本日売切』の看板を出して休業する所も多かった。

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昭和十年(1935年)十一月、明治節・帝都空前の人出、華北武装地帯に冀東防共自治委員会成立(25)
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11月2日a 上野祭、明治大帝上野公園行幸六十年記念式典
  3日a 帝都座・麻布日活・神田日活・富士館、入江たか子の「明治一代女」他満員御礼
  4日A 結婚式場はどこも大繁昌
  4日Y 帝都空前の人出、明治神宮だけでも百七十万
  4日Y 多摩川園の菊花天国、六万人の入場
  4日ka 夜半より酉の市なりと云う
  13日a 国技館、菊花大会カルケットデー、60銭
  16日a 帝都座等「大菩薩峠」満員御礼
  17日a 浅草帝都館等「せめて今宵を」他満員御礼
  19日Y 巨人軍最終戦万連勝す、月曜にもかかわらず観客は相当につめかけた
  23日a 浅草電気館等「暁の麗人」他満員御礼
  27日Y 多摩川園の菊花天国、福引デー大繁昌
  29日a 新納御誕生奉祝、二重橋前には旗行列の波
  
 景気の改善を反映して、結婚式が増え、東京駅から新婚旅行に出かける人も「数字的記録」。映画の満員御礼広告が増え、市民のレジャー気運は高まっている。明治節は、「明治神宮だけでも百七十万」、近郊に押し出した「ハイキング組も五十万を突破」、「上野の人出は卅万」など、「帝都の人出実に三百万と注される今秋の最高記録」となった。この風潮を荷風は、「二三日来花火の響終日絶える間もなし。昭和以来暗殺提灯行列祭礼など騒がしきことのみ流行する世となれり」と日記に記している。
 また、この年からはじまった多摩川園の菊花天国に「六万」の入場。国技館の菊花大会に加えて、菊人形の名所が遊園地に出現した。園内には、菊人形館3館、演芸場では十八段返し、パノラマなどが遊具の中に配置された。以後も、菊花天国では福引デーが催され、大繁昌であった。
 明治神宮体育大会は、入場券を値下げ「野球が一円と五十銭だったのを、五十銭と二十銭、競技場が一円と三十銭だったのを五十銭と二十銭、その代わり今迄無料だ柔道や排球等を二十銭均一にしたところ柔、剣道、排球などは例年になく人気を集めた、今年は野球が減って陸上が多かった」A④。用意した各競技の入場券は、「十八万枚、招待券十二万枚、計三十万枚」。その他に各運動協会からの招待券などが17万枚程度あった。観客面でも学生中心から一般市民の参加が増えてきたことがわかる。

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昭和十年(1935年)十二月、日劇地下にニュース短編映画専門館開場(30)、年越しソバ一般家庭に流行(31)、軍需インフレで盛り場は「金が降るばかり」の大景気
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12月5日a 御命名の儀・御浴湯の儀(皇室の儀式)、二重橋前に奉祝旗行列、火の海
  8日a 浅草電気館等「暁の麗人」他満員御礼
  15日a シネマパレス「アスファルトファウスト」他満員御礼
  15日A 浅草帝都座等「箱根八里」他満員御礼
  26日Y 銀座八丁、人出六十万の大賑わい
                                                
 十二月に入っても映画の満員御礼広告が続く、レジャー気運は暮れになって落ち込まない。荷風の十一日の日記に、銀座の「歳暮の夜店賑やかなり」と、活気のあることがわかる。松屋向いの井上ラジオ商会が街頭ラジオを設置、ニュースや歌謡曲を流していた。まだ庶民には高嶺の花のラジオ、歩道には人溜まりができ、歳末の賑わいを盛りあげた。
 この年の暮れは、前年のような暗さがなく、活気が伝わってくる。クリスマスの銀座は、「恒例の歳末露店がズラリと百八十軒」並び、「ヘベレケの放歌高吟」する紙帽子をかぶった酔っ払い、デパートから大きな買い物包みを抱えて歩く男女、「人出ざっと六十万人」の大賑わいであった。三十日に、日劇の地下にニュースと短編映画を専門に上映する、第一地下劇場という新しいスタイルの映画館が開場した。大晦日の銀座は、「表通の雑沓を宵の口に変らず。灯火昼の如く酔歩放歌するもの多し」と、荷風の日記に書かれている