再び盛り上がる十一年秋の市民レジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)228
再び盛り上がる十一年秋の市民レジャー       

 十月四日「オリムピツク本隊帝都へ凱旋」と見出し、「入京の雄姿」と東京駅前行進など3枚の写真を掲示している。日の丸の旗を先頭に、まるで軍隊行進の様相を伝えている。昭和十一年の年初から、建国祭奉祝式大行進、満州出征や凱旋など、戦争がじわじわと忍び寄るも、市民は何ら心配なく遊んでいる。十一月には「日独防共協定」に調印、やがてファシズムの道を進むことになる。
 十二月に西安事変(張学良らによって蔣介石軍が拉致監禁される)か起きる。事件は日本の陰謀との疑惑もあったらしいが、日本が直接関わるということはなかった。この事件、不可解なことが多く、どのように収束されたか、その真相はいまだ不明とされている。ただ、この事件後に、共同抗日と国共合作が進むことになり、その後の中国との戦争に大きく影響する。また、西安事変がなければ共産党は、ほどなく消滅していたとの見解もあった。
 年末の市内の様相は、軍需景気により「ボーナス袋一斉爆発」とあるくらいで、歳末景気が盛り上がった。

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昭和十一年(1936年)十月、国民唱歌放送開始「海ゆかば」⑬、お会式に七十万の人出など市内のレジャーは活気を取り戻す
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10月2日a 川越競馬場で馬券販売数を守らず閉場
  4日a 電気館等「風流小唄侍」他実演で満員御礼
  12日Y 日米国際庭球大会第二日、田園調布読売大庭球場に観衆約一万四千
  13日A お会式大交響楽、人出七十万
  17日A 日本劇場「新婚レジャー」動物曲芸団他満員御礼
  20日A 「雨にベッタラ 大根の客待ち顔!」
  26日Y 日米国際庭球大会最終日、観衆一万六千
  31日ka 晦朔両日は浅草より玉の井あたり最も賑なりと云う。この夜雷門仲見世の辺大に混雑す
 
 競馬は1万人以上の観客を集める事は稀であるが、そこそこのファンを集めている。馬券は一レースに付き1人1枚しか買えないことになっていた。しかし、現実には窓口に二回以上並ぶなど、必ずしも守られていなかった。ところが川越競馬場では、観客数が少ないため一人に4・5枚売ったことがばれ、直ちに閉場させられた。観客は怒って、電車賃を返せと迫った。
 「紅葉列車はいかが 三十万の遊山客を目当てに、秋に意気込む東鉄」3aと、行楽シーズンである。市内の人出は多く、一日、荷風は「向島終点に花電車の停留するに会う。見るもの堵をなす」を見ている。三日には東京駅にオリンピック選手を出迎える群衆。また、多摩川京王閣でトタン屋さんの運動会、市内のプール(芝・上野・日比谷・大塚・井之頭)を釣堀として公開(半日50銭・一日1円)、日比谷公園で公園祭、文殊院で「蟻の市」、深川衛生会の五十周年祝賀会、その他にも花月園などの知らせや広告がある。
 十二日の池上のお会式は、「七十万」の人出。その割には、万灯が42・高張18と以前より少ない。また、迷子も21人、賽銭泥棒25人とやはり少ない。十六日付aで「どこへ出かけよう二日続きの休日を楽しみに」と、各地の行楽便り。
 十八日はロッパの日記に、「有楽街の人出は大変なもの」。二十二日から二十四日まで靖国神社秋の大祭。恒例の国技館多摩川園の菊人形、展覧会などが催され、また四日から二十五日の千秋楽までロッパの有楽座『ハリキリボーイ・河内山』が満員。市民レジャーは九月より活気を取り戻したが、前年ほどの盛り上がりは感じられない。

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昭和十一年(1936年)十一月、国会議事堂完成⑦、日独防共協定締結(25)、明治節等久しぶりのイベントに市民レジャーは盛り上がる
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11月1日a 日比谷公園の菊大会、二十三日まで
  2日A 早慶戦、その後の銀座では検束騒ぎ早大26人対慶応8人で早大連勝
  2日A 鎮座記念祭、二十万を超えた
  4日Y 多摩川園“菊花天国”未曽有の人気四万五千人
  4日A 靖国神社の体操祭「無慮一万人の偉観躍動美」
  7日a 豊島園で松竹少女歌劇大運動会、水之江他3百名
  11日a 帝国劇場等「巨星ジーグフェルド」他満員御礼
  11日a 国技館「今が菊の真っ盛り」
  12日A 大賑わいの一の酉、人出十五万、迷子6掏摸2
  18日A 三千円の夢を追って「何と三万人」
  21日a シネマパレス「サイレント週間」満員御礼
  22日ka 二の酉「参詣の群集亦甚しく雑遝せず」
  30日Y 職業野球、第二次東京リーグ戦第一日、洲崎東京球場内外野超満員

 十一月に入り、明治節には、陸上競技大会などに加えて、靖国神社の体操祭、日比谷公会堂の記念講演会、奉祝音楽行進が賑やかに行われた。多摩川園の“菊花天国”には4万5千人も入場、その他にも日比谷公園で菊大会(1千3百鉢・切花五千余)、上野で第五回日本犬展(百頭を超える名犬)、市内学校の運動会などが各地で催された。
 翌日四日、市内主な繁華街の通行人調査が午前十一時から午後九時まで十時間行われた。その結果は、翌年三月十六日付の朝日新聞に、銀座が24万人・新宿が21万人・道玄坂が12万人・上野広小路が12万人・神楽坂が6万2千人・亀戸が5万7千人・高円寺が5万人とある。銀座のその他の交通量は、自転車3万7千台・自動車1万6百台・バス4千7百台、他にサイドカー・トラック・リヤカーの順である。
 一の酉の人出は、象潟署が十一万五千、坂本署が六万七千、日本堤署が二万一千で、合計では二十万人を超えるのを「十五万」としている。珍しいことである。十七日、第二回割引勧業債権の売出しに、一等富籤3千円に惹かれて前日の午前四時頃から並びはじめた。午後六時に3千人を超え、勧銀前から帝国ホテル、さらにガードと「約三万」人の行列となり。午後九時頃には、一枚20銭の菰売りが出現、パン屋が繁昌、中には将棋を差しながら夢を求める市民がいた。

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昭和十一年(1936年)十二月、西安事変⑫、軍需ボーナス袋一斉爆発 すさまじく駈ける歳末景気(30)
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12月6日a 浅草電気館等「伊達競艶録」他満員御礼
  7日Y 職業野球第八日、洲崎東京球場内外野共超満員
  10日A 歳の市、出店の景気よし
  10日a 有楽座「歌う金色夜叉」他連日満員
  10日a 松竹館「人妻椿」大好評につき五週続映
  15日A 高輪泉岳寺義士祭、午前中だけで五万人
  25日A 銀座、もみくちゃXマス・イブ
  29日a 寝台車は売切れ、初詣客に終夜運転、臨時列車も増発
  30日A スキー列車あて外れ、二百人で3両切離し
  30日A 「勃興相撲熱」春場所売切れ

 師走に入っても映画館や劇場の満員広告が続く。「大入り“阿呆劇”」Y⑭とあるように、エノケンやロッパが人気、ロッパ日記には八日から『女夫鎹』『歌う金色夜叉』が大受け、有楽座は二十七日の千秋楽まで満員が続いた。
 義士祭は二百三十五年目、高輪泉岳寺には十四日の午前零時から参詣者が訪れ、午前中だけで「約五万人」で賑わった。日比谷公会堂で「赤穂義士追録の集い」が催され、本所東両国の昔吉良邸があった松坂史跡公園でも義士祭が催された。
 歳の市は軍需インフレを反映して、十三日の深川八幡は420余軒、浅草は612軒を突破する店が並ぶ景気。歳末の市内は賑わっており、Xマス・イブの銀座は大混乱。寝台車は売切れ、初詣客に終夜運転がなされ、年内中に春場所の切符が売切れた。大晦日は、「街上を酔漢多ければ地下鉄道にて浅草雷門に往く・・・仲見世広小路到処雑遝せり・・・再び銀座に戻り久辺留の店口を過ぎりしが知る人もなく、酔漢のみを多きを以て直ちに去る」と、荷風は日記に書いている。市民のレジャー気運は高まったまま年を越しそうである。