戦時体制でも減らぬ人出の昭和十四年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)240
戦時体制でも減らぬ人出の昭和十四年秋
 防空訓練は「焼夷弾や毒ガスの猛訓練」と、まるで戦時体制だ。しかし、まだアメリカとの戦争は始まっていないし、中国から日本本土への攻撃もないにもかかわらずである。この時点で、東京市民は、やがて空襲され、本当に逃げまどうことになるとは思っていなかったであろう。だからであろうか、政府や軍部がレジャーを引締めようとしても、その効果はあるはずがない。
 九月から始まった「興亜奉公日」、国民精神総動員運動として毎月一日に行なうことになった。興亜奉公日の趣旨は、戦場での労苦を忍び、自粛自省の生活をするようにいうこと。国旗掲揚、宮城遥拝、神社参拝、勤労奉仕をするようにと。その上、食事は質素、一汁一菜。児童生徒の弁当は日の丸弁当とするよう。これに伴い、飲食や接客業は休業となった。
 勤労者層の生活は、十一月の米価や煙草の値上げを受け、苦しさを増しているはずと思われる。十二月には、木炭が配給になり、節米運動が始まり、百貨店の御歳暮の大売出しと配達が廃止され、さらには門松も全廃となった。しかし、東京市内の人出は、政府に当てつけるかのように多くなっている。

───────────────────────────────────────────────
昭和十四年(1939年)十月、防空訓練(24)~(30)、盛んにレジャー自粛を訴えているがイベントがあればドッと押し寄せる市民
───────────────────────────────────────────────
10月2日A 羽田空港命名式、参観者「無慮五十万」
  2日A 日曜の奉公日、靖国神社遊就館へ昼までに一万人など、郊外にも「素晴らしい人出」
  3日t 国技館の菊花大会、初日から非常な賑わい
  13日a お会式御逮夜 万灯は一人持ちに制限 雨天となって午後二時までに自粛の参詣者三万
  14日A 靖国神社臨時大祭 見世物に代わって聖戦パノラマ
  15日a 富士館日活系「土と兵隊」満員御礼
  16日T 「秋晴れに人出百万!」
  19日A べったら市
  21日a 早慶戦 徹夜組は三百名 内野席は五分、外野席一万二千枚は八時半に売り切れ
  23日T 後楽園で凱旋ニッポン感謝報告会に会衆五万人
  29日a 浅草帝国館等「残菊物語」他連日満員御礼
  30日A 明治神宮体育大会開催、銃後四万の若人参加
  31日a 明治神宮奉拝式「若人五万の行進」

 一日は奉公日、「各自、居所で自粛と緊張の一日を」と内閣情報部の指示があった。たが、日曜の秋晴れに誘われるように、「野に山に鍛練の徒歩を目指す人々は各駅のホームを埋め素晴らしい人出」となった。
 二十四日から三十日まで防空訓練、その間は演芸放送を全て中止など、レジャーは自粛させられた。訓練中の市内は、「街上車なく人影なく粛然として夢の如し」と。二十六日の夜、虎の門付近を歩いた荷風は日記に記している。また、ロッパは二十九日、「灯火管制最後の夜、月明るし」と東中野から自宅までテクテクと歩いた。
 焼夷弾や毒ガスの猛訓練からホッと我に返った三十日の夜、月曜でデパートが休みであるのに、銀座の人出は普段の二倍。「懐かし銀座の灯」の見出しで、三百数十軒の夜店が並び、雑沓する写真が掲載された。

───────────────────────────────────────────────
昭和十四年(1939年)十一月、タバコ値上げ実施⑯、レジャー自粛が浸透してきたようだが人出は盛ん
───────────────────────────────────────────────
11月3日y 電気館等「長脇差団十郎」他連日満員
  3日A 世田谷等々力のゴルフ場「時局転向」
  4日a 明治節 正午までに二十六万一千名の明治神宮参拝者
  6日A 羽田空港命名式、海鷲「卅万観衆」を魅了
  7日a 代々木の明治神宮奉拝式、「感激・五万の若人」
  9日Y 一の酉、「五十年来の景気」熊手屋250軒、人波「ザッと百五万」迷子12、スリ2、不良行為3
  13日A 浅草東本願寺仮入仏式、集う信徒五万人
  17日Y 大リーグ戦閉幕、覇業に輝く巨人軍
  20日ka 昨夜より二の酉にて人出おびただし

 十一月になっても、人出は盛ん。二日も、明治神宮体育大会で神宮競技場のスタンドは大観衆で埋められた。三日明治節は、明治神宮国民体育大会閉会式、帝都音楽大行進などの催物もあって、大勢の市民が出かけた。
 八日の酉の市は、「五十年来の景気」とあるように物凄い人出。二の酉も荷風の日記から混雑したことがわかる。
 ロッパの有楽座は、『若様ロッパ』『戦時のガラマサどん』などを公演。週末は満員となるが平日はいま一つ。浅草国際劇場広沢虎造の人気が凄いと、十一日の日記に記している。

───────────────────────────────────────────────
昭和十四年(1939年)十二月、木炭の配給統制実施(25)、全市をあげて節米運動(28)、百貨店の御歳暮の大売出しと配達を廃止、門松も全廃となったが、市内の人出は大賑わい
───────────────────────────────────────────────
12月2日Y 日活映画上映の13館一せい休場、直営更改で大捫着
  5日A 雪に走る“景気”スキー列車の中止にもかかわらず 宿屋は早くも満員
  10日t 日本劇場「乙女と兵隊」他満員御礼
  14日a 電気館等「岩に咲く花」他満員御礼
  16日Y 「溜め息が出るデパートの景気」
  18日A 浅草観音歳の市、夕刻からの人出二時間で約三万、夜半までに「ざっと十二、三万」
  19日A 有楽座「吉本爆笑実演会」金語楼・虎造他人気沸騰満員御礼
  21日a 日比谷映画劇場「格子なき牢獄」満員御礼
  25日ka 銀座「歳暮遊歩の人織るが如し」
  29日t 「売切れ売切れで上気する初芝居」
  30日Y ホーム入場お断り、乗客激流に東京駅悲鳴
  31日Y 銀座八丁は人の波

 「銀座食堂にて晩飯を命ずるに半搗米の飯を出したり。あたりの客の様子を見るに、皆黙々としてこれを食い毫も不平不満の色をなさず。国民の柔順にして無気力なること寧驚くべし」と、荷風は一日の日記に書いている。また、三日は「日曜日にて市中雑遝甚しく芝口の牛肉屋今朝日本橋の花村二軒とも客留の有様なり」と。
 歳の市では、前年より三倍から四倍に値上がりした注連縄が売れている。「興行ものベラボーな当たりで、十二月中旬以後、有楽座でやっている金語楼など・・二円八十銭とりて連日大々満員の由」と、二十五日のロッパの日記にある。さらに、二十七日には、有楽座「正月の前売、午前九時から長蛇の列」とある。晦日は、市内のどこも大混雑したようだ。