大衆レジャーとしての演劇

江戸・東京市民の楽しみ275
大衆レジャーとしての演劇
 大衆レジャーであるとされる演劇も、その芸術性が問われ、論壇や新聞などでは盛んに言及されている。では、その芸術性とはどのようなものなのか、歌舞伎について見てみよう。歌舞伎は、当初から大衆を相手にした演劇で、芸術性が求められたとは言い難い。演劇は、江戸時代から続く芝居見物であったころから、大衆レジャーの中心であった。
 それが時代と共に、歌舞伎が贅沢なものとなり、上演時間が10時間を超えることもある、一日がかりのレジャーになった。となると、金のない庶民は、歌舞伎を簡単に楽しむことが容易ではなくなる。ではどうしたかと言えば、一幕だけ見るということで我慢する鑑賞になる。それだけではなく、下層の人々は、手の届かぬ歌舞伎に代わり小芝居、宮芝居を寺社境内などで見ることも少なくなかった。そこでの芝居は、常設の大芝居(公許三座)を真似たり、泥臭い出し物が演じられた。そして、小芝居の役者が大芝居に出ることもあって、観劇はさらに盛んになって行った。
 たとえば、大正四(1915)年に書かれた『硝子戸の中』(夏目漱石)には、明治時代の芝居見物の様子が描かれている。漱石の姉たちは、芝居を開幕から見るために、皆夜半に起きて支度をし、まだ暗いうちに自宅(高田馬場)を出発して、船に乗り、お茶の水通り越して柳橋隅田川に出たら川を上って今戸で下船し、芝居茶屋まで歩き、劇場に入り、ようやく席に着いた、とある。観劇の幕間には、楽屋に案内され、贔屓の役者に扇子に画などを描いてもらうことを自慢にしていた。帰りも、船でもと来たとおりに戻り、船を下りると、日はとうにくれていた。そして、朝送ってきた下男がまた迎えに来ていて、家にたどり着いたのは夜中になっていた。このような、まる一日をかける芝居見物は、大正時代になっても続いており、芝居の途中で食事をするのも楽しみで、幕間に服を着替えて見る女(ひと)も珍しくなかった。
 日本の芝居見物は、演劇を観賞しながらという形態の中で、ふだんの生活ではできないこと、すなわち、おいしいものを飲んだり食べたり、着飾って出かけたり、桟敷ならではのお喋りや社交、さらには自分をまわりの人々にアピールするというレジャーなのである。そこでは観客が中心であって、当時は劇場や役者、芝居のストーリーなどは、すべて観客のレジャーをより効果的に演出するバックグランドミュージックのようなものであった。したがって、演技する役者は、訪れたお客に精一杯のサービスをする、それが「芸」であり、笑いや悲しみなどを誘い、話の種を提供することが求められた。また、脚本家や演出者などは、通の観客にしかわからないような演技や逸話を芝居に挿入し、常連さんに優越感を味わせることも心得ていた。
 ただ、劇場の経営を考えると、芝居というものは一部の金持ちの観客だけを対象にしていては成り立たない。そこで、時間やお金に余裕のない人にも、劇場に足を運んでもらえるように、安い料金で芝居の一部分を観賞させる「一幕限り」というシステムがあった。これは、芝居は見たいが金や時間に余裕のないという庶民にとって好評で、また、上流階級の芝居見物風景を横目に仲間入りした気分を味わうこともでき、かなりの人々がこの「一幕限り」で観賞した。明治三十年(1897)代初めの頃は、一幕限りの観客が4割以上もいて、最初から最後まで「通し」で見る「木戸客」を凌いだ。小さな劇場では一幕限りの客が木戸客より多い年もあった。


 明治時代になると、新富座のように開演時間を夕方の5時、終演時間を夜の11時に設定して、従来の公演時間の「まる一日」をかなり短くした。また、一幕限りの客の増加などによって、演劇の大衆化が進んだ。大正時代は、一幕限りしか見なかった客が「木戸客」へと移ることによって、演劇の大衆化がさらに進んだ。大正元年の「木戸」と「一幕限り」の観客割合は、2対1で、まだ「一幕限り」の観客がかなりいた。なかには、蓬莱座のように、「一幕限り」の観客の方が多いという劇場もあった。しかし、明治の末(1911年)に開場した帝国劇場のように、「一幕限り」のない劇場が多くなると、演劇は全幕を見るものであるという感覚が定着していった。これは、演劇そのものを観賞しようとする人々が多くなったこと、さらに近代的な演劇が理解され始めたためであろう。
 大正時代の演劇は、どのような人々によって、どのような形で楽しまれていたのだろうか。上演された演劇の内容からではなく、劇場の数や観客数(「東京市統計年表」の資料)などを中心に見てみたい。大正元年(1912)、東京市内には20程度の劇場があった。当時の劇場は、毎日上演しているわけではなく、最も多い劇場(常磐座)では357日ということもあったが、平均では55%しか興行されていなかった。劇場は、一年の半分くらいしか公演しないという、現代から見ればかなりのんびりした経営だったと思われる。
 劇場の客席は、300人程度の小さい所から約2000人も入る歌舞伎座のように大規模な所まであった。東京市十五区内にある劇場の入場者数は、一日平均で約1万人(木戸客)であった。この入場者数から劇場経営や客席の稼働率を考慮して、東京の総観客席数を推測すれば、2万席程度あったものと推測できる。観客数の変化を見ると、明治末には年間400万人を越えていた入場者数は、大正時代にはいると100万人も減少し、300万人を割ってしまった。この減少した100万人に当たるのは、余暇時間の少ない、所得の低い大衆層の人々であったと思われる。それは、歌舞伎座や帝国劇場などの入場料金の高い演劇よりも、安い大衆向けの蓬莱座や開盛座などの劇場入場者がより顕著に減少していることから見てとれる。
  大正三年(1914)に、「大正博覧会」が開催された時、歌舞伎座、帝国劇場、市村座の三座は、地方からの見物客が多いと見込んで、ついでに東京の演劇を見てもらおうと、「歌舞伎十八番ノ内、勧進帳」を競演した。この企画は、明治天皇崩御によって沈滞していた演劇界のムードを一気に払うような出し物という好意的な評もあったが、観客数には反映せず、その年は前年よりもさらに少なかった。人々の関心は、博覧会だけに向いていて、演劇にはそれほど足を運ばなかったのだろう。
 観客数の減少は、演劇、特に歌舞伎は、明治時代に隆盛をはせた団十郎菊五郎・左団次というスターを失ったことが最大の原因だと思われていた。また、歌舞伎に対して新しい形式の史劇や舞踊劇をと考えて生みだされた新派や新劇は、「人形の家」「夜の宿(どん底)」など意欲的な作品を上演していたが、観客はさほど動員することはできなかった。明治時代から叫ばれてきた演劇の改良運動による、文芸協会、自由劇場などの試みは、観客の裾野を広げるということに必ずしも貢献しなかった。
 その原因は、演劇を制作する人たちが西欧の演劇に目を向け、同じような芸術性を求めたことによって、日本の大衆が求めているものを無視する傾向があったからだろう。その上、既存の演劇を程度の悪いものと決めつけ、それを是正することによって演劇を盛んにできると信じていたのだろう。まず、演劇の脚本の重要性を訴えたが、観客である大衆の観賞レベルがどの程度であるかということはほとんど考慮されなかった。演劇のあり方は、少数の観客と演劇界という狭い枠のなかでしか論じられなかった。したがって、演劇の改革が叫ばれ、新派や新劇など多様化したにもかかわらず、大衆のニーズには応えられず、結局、多くの人々の足を劇場に向けることはなかった。
 大正時代に入って、東京の人口は約280万人(大正元年)に達し、劇場観客数とほぼ同数になった。これは、東京に住む全員が一年に一回、演劇を見たということになる。もちろん、すべての人が演劇を観賞したわけではなく、愛好者は多く見積もっても人口の3割(現代でも2~3割)程度であっただろう。したがって、同じ人が一年に複数回(3~4回)観賞していることになる。この頃の演劇事情や観客などについては、『新聞集録大正史』(大正元・二年)の「演劇」の見出しを見るとよくわかる。「今秋の劇壇 戦国時代の新劇界」「歌舞伎よみがえれるか」「文芸協会の改革 抱月ら脱会」など、演劇界は大衆とは関係なく動いている。マスコミが注目したのも、歌舞伎、新派、歌劇、新劇などに片寄り、観客の多数をしめる大衆演劇の記事はほんの少ししか見られない。

 明治の末と比べて観客数が減少したのは、映画に大衆観客を取られたためである。つまり、大衆が劇場から離れたのは、演劇が彼らの心をとらえることができなかったためだと言える。劇場入場者数はさらに少くなった。したがって劇場には毎度お馴染みの人が集まるという状況がみられた。熱狂的な演劇ファンだけが座席を占めたため、場内の雰囲気はいやが上でも高まり、観客の芸術的な観賞レベルはかなり高まっていっただろう。そのため、こうした演劇のファンは、劇場に通う頻度が減るどころか増加したものと思われ、そのためか、東京の年間観客数は全体としてみれば著しく減少しなかったのだろう。
 明治末から大正初めにかけて、演劇界は舞台の出し物だけでなく、興行形態まで、様々な改善や改革が行われた。歌舞伎では新たなスター、芝翫梅幸、二代目左団次などが出現し、古典と新作を並列して上演することが試みられた。歌舞伎の新しい時代への模索は、作品だけでなく、帝国劇場の全席椅子席、切符の前売り制度、茶屋の廃止などとっいた興行体制の改革にもおよんだ。さらに大正二年(1913)、松竹が歌舞伎座を入手し、その初興行を契機として、直営案内所の設置、席券は一人でも場所割表を見せて、随時に前売りをするという方法など、関西人的な感覚で運営され、近代的な興行へと導かれた。演劇界が旧習を打破する積極的な対応を続けた裏には、演技者がどんなに熱演しても、観客が増加するどころか、年々緩やかではあるが減少していたことに危機感を持ったためと思われる。                          
 このような演劇界の対応が実ったのか、大正四年(1915)から観客数が増加しはじめた。この時、観客を動員したのは、小難しい新劇や伝統的な歌舞伎ではなく、喜歌劇とか浅草オペラと呼ばれる出し物であった。観客の増加は以後大正七年(1918)まで四年間も続き、その数は大正三年の観客数の2.3倍、653万人にも達した。ところで、この頃、国内の景気は悪化し、物価の高騰著しく、特に庶民の生活に直結する米の価格は暴騰していった。富山県下の寒漁村からはじまった、「米よこせ」をスローガンに掲げた「女房一揆」は、全国に波及し、未曾有の混乱を生じさせた。そして、この騒動によって全国中等野球大会(今の高校野球大会)が開催できなくなるなど、大衆の娯楽にも大きな影響を与えた。東京でも日比谷公園をはじめとして、米騒動は数日にわたって起きたが、その年の劇場観客数は、減るどころか90万人も増加し、それまでの最高記録を樹立した。
  こうした大正六・七年の観客増を導いた演劇館は、「金龍館」「常磐座」「三友館」「日本館」など浅草の劇場群であった。これら劇場での大入りを記録した出し物は、なんとオペラで、大半が初演という「女軍出征」「サロメ」などであった。しかも、観客の大半は、これまで演劇とそんなに縁のなかった人々であった、興味半分で劇場を覗いたら、意外におもしろいかったのだろう。当然、観客は本物のオペラを知らないから、自分たちの理解できる部分だけを「浅草オペラ」として楽しんだ。当時の流行歌に「コロッケの歌」というのがあるが、これは浅草オペラで歌われていたものである。なお、「浅草オペラ」が成立した下地には、イタリア人、ジョバンニ・ベットリオ・ローシーが私財をなげうってまで本物のオペラを日本に根づかせようと貢献したという事実があったことを触れておきたい。ここでも、彼の期待した芸術性の高いオペラは、大衆に理解されず、当時の日本では本物のオペラとは程遠い軽演劇に発展していった。


  新国劇が旗揚げされたのも大正六年であるが、こちらも当時はまだ大衆の人気を得るところまではいたらなかった。これも、大正九年(1920)の「月形半平太」あたりから人気がでて、「チャンバラの新国劇」として定着し、大衆を劇場に向かわせて足を運ばせた。劇場の入場者数は、大正八年より多少減少したものの、400万人を下回ることはなかった。大正十二年(1923)の関東大震災による影響は大きかったが、翌々年の十四年には再び500万人のラインを超え、演劇観賞はその裾野を広げていった。大正時代の劇場入場者数の増加は、演劇が大衆の娯楽として楽しまれるようになったことによるもので、演劇界で論じられていた「芸術性」というものが大衆に理解され、共感を得られたためとは言えないだろう。