江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)280
大衆演劇を考える
演劇は、昭和十三年頃から観客増が停滞しはじめた。十六年以降は資料がないため断定できないが、おそらく減少していると思われる。それは、十五年に東宝移動文化隊や松竹移動演劇隊などが結成され、地方公演へと俳優が狩りだされているからである。なお、移動演劇は、十六年から敗戦までに約1万回の公演で約1千2百万人の観客を動員したとされている。観客数から見ると多いように思うものの、国策興行なので、観客は自治体や企業などが動員したものであっただろう。
戦前の演劇は、軍部などの弾圧を受け、人間の心理や社会の矛盾というような問題に踏み込むことができなかった。志のある演技者や制作者にとっては、暗黒の時代と言えよう。また、映画とは違う臨場感、舞台と観客が一体となって劇を展開させるということも、制限された。それでも、演劇の大衆化という点では、エノケンやロッパ、ターキーなどのスターを輩出し、その位置は次第に揺るぎないものになっていった。
昭和十年の演劇観客数

さて、大衆演劇のあり方をもう一度考えてみたい。まず、歌舞伎、歌舞伎が一定の観客を集めてこれたのは、なぜだろうか。過去から現在にわたって多くの人々に楽しまれた、つまり「観賞」というフィルターを通っているためである。また、日本の演劇ファンには、歌舞伎役者という俳優を見にくる、極論に言えばストーリーなどどうでもいいというような人が少なくない。
一方演じる側には観客の求めるものを提供するというサービス精神が、大正時代の演劇関係者には乏しかった。昭和に入っても、さし迫る戦争への恐怖や先行きの不安を取り除く、忘れさせてくれるような演劇を人々が求めていることを無視してしまった。戦時下にあって、さまざまな弾圧で思うような芝居ができなかったことは事実だが、その制約を乗り越えようとしただろうか。

反対思想を弾圧するという過酷な状況に、正面から挑んでも力で握りつぶされることがわかっているのだから、裏をかくようにしなければならない。さらに、その演劇が制作関係者にしかわからないようでは、大衆は理解できない。当時の大衆の観賞レベルが低いと居直ってなかっただろうか、確かに、大正から昭和前期という時代を生きた多くの人々は、西欧のオペラやオーケストラ、「オセロ」や「人形の家」などを観賞する心境にまで達していなかったし、大半の大衆には見る必然性がなかった。
そもそも、当時の日本の演劇関係者は、西欧の演劇がどのように興行され、どのような人々によって観賞されているかを理解した上で、演劇の制作にあたったのか。わが国は明治以来、西欧の文化をそのまま受け入れることしかしなかった。西欧の演劇は、西欧社会の上に成立しているのだから、日本の社会が西洋と同じような社会形態にならなければ、同じような演劇を受け入れることはできない。昭和初期の東京がロンドンやパリなどとは全く異なる都市社会であったことは、当時の誰れもが認めている。それなのに、東京にも西欧のような国立劇場をつくることばかり夢見て、演劇の改良運動に取り組むような人が大多数というのでは、日本の演劇が大衆に根付くのは到底不可能であった。
夏目漱石は、イギリス留学中にロンドンの演劇をしっかりと見ている。「英国現今の劇況」(漱石全集第十六巻)に記録されている。それによれば「……倫敦には芝居と名の付くものが五十ばかりあつて、その他にミウジツク、ホールといって歌舞曲の様な物を演る(日本で云う寄席のようなもの)処が、大小合わせて五百ばかりあります」と。また「……ウエスト、エンドには所謂ヴアラエテイと称して、純粋の劇場ではないけれども、曲馬、手品或いは道化芝居といふものを混ぜて興行して居る有名な、パラスとかエンパイヤーとかいうものが四五軒ありまして、これは皆大劇場と匹敵する位な、寧ろそれより内部の構造なぞは立派な建築なのです」と演劇や劇場の実態に関して、日本と英国とでは社会状況が根本的にの異なるということを前提に見ている。事実、ロンドンには常設の劇場が44もあり、総収容人員約5万8千人、その他にミュージック・ホールやバラエティー・シアターなどが153、総収容人員は約13万人という大規模なものであった。
このように多くの劇場が成立し、大衆が演劇を楽しむことのできる都市社会が東京に存在しているかということを考えた演劇関係者がどのくらいいたか。彼らはパリやモスクワなどに出かけて演劇を見て、大いに感動しただろう。そして、これをぜひ東京でやってみたいという気持ちは演劇関係者なら、至極当然のことである。しかし、パリやロンドンが数多くの劇場を必要とする特有な社会状況が存在していたことや、そこで求められる演劇とはどのようなものなのかということを学んでこなかった。ロンドンでは、一日の仕事の終えた夕方から、約19万人もの大勢の人々が出かける劇場が分布していた、さらに言えば、大衆が観劇のできる西欧都市の余暇事情に注目しなければならない。
日本の演劇論や舞台論などの知識の豊かな演劇関係者は、大衆が熱中する、お金のとれる演劇を公演しようという努力をしなかった。彼らの中には大衆から受け入れられていないことを認めようとせず、エノケンよりは自分たちの芝居の方がレベルが高尚だとか、演技もうまいと自惚れていた役者たちが多かったのだ。もし、当時の演劇関係者が結集して、エノケンよりもっと多くの人を引きつける演劇を作っていれば、時代を乗り越えるような新しいタイプの演劇ができたかもしれない。そうすれば、戦時中という時代の制約を逆手に取って、後世にも受け継がれ、楽しまれる演劇が生まれていたのではないか。
それにひきかえ、江戸時代は、多くの町人が楽しんだ演劇、すなわち歌舞伎を産み、現代に引きつがれている。昔は、歌舞伎は、身分の低い河原者のやることとして、武士のなかには軽んじたり、侮蔑するものが多かったことは周知のとおりである。しかし、当時の役者をはじめ関係者は、どうしたら多くの観客を呼び入れられるか、収入を少しでも多くするために試行錯誤していた。そして、自分たちの社会的な地位を向上させるために、演技はもちろん、衣装や劇場のこしらえに至まで、観客のニーズに精一杯応えようとした。そのような努力があって歌舞伎があることを、明治から大正・昭和にかけての演劇関係者は、忘れてしまった。そして、こういった演劇に対する取り組みの違いは、現代でも是正されていないような気がする。しかも、悪いことに、江戸時代の歌舞伎は政府から一銭の援助ももらっていなかったのに対し、現代では、西欧諸国と同じように国の援助によつて劇場経営が行われるようになってしまった。