紀元二千六百年を祝うまで

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)283
紀元二千六百年を祝うまで
 昭和十年(1935)のメーデーについて五月二日付の新聞に「労働運動衰へたり 警備陣の縮小」(東朝)とある。この時点で、警察の弾圧によって労働運動がかなり衰退していたことは、同日より、警視庁が暴力団狩りを開始したことからもわかる。また、労働争議や起訴した件数も昭和十年を境に激減し、大衆はユートピアを描くばかりで、現実味のない労働運動に失望していた。それよりも労働者の生活が少しでも楽になりそうな方向を選び、政府の軍事インフレ策によって軍事産業を勃興させるという「カンフル剤」に期待した。十年一月、丹那トンネルが開通したことにもよるが、生活に余裕のできた東京の人が急激に伊豆や熱海の温泉へでかけた。都市部に一時的な好景気がもたらされ、労働者の生活はそれまでより改善され、つかの間であるが労働者の一部にも薄日の差しかけたことがわかる。
 浅草六区の民衆劇場であった「公園劇場」が、二月に閉館になった。映画の隆盛に追われ営業不振に陥り、電気・水道・家賃等の滞納で供給停止、市川新之助一座と従業員たちは、給料未払いのまま、芝居は開幕不能となってしまった。その一方、三月には、東京発声映画製作所が設立された。そして、アメリカ漫画映画「ポパイ」が上映され人気を呼ぶなど、人々の嗜好の変化が見られた。また、四月に、日比谷公会堂で、ルービンシュタインがピアノの演奏会、十月にもマレシャルのチェロ独奏が開かれたことも新たな動きであった。
 六月には相変わらずの風紀粛清で、ダンスホールとダンス教習所を、警視庁は一斉に取締まった。九月には、芥川賞直木賞の第一回の受賞者が決定。十二月、日劇の地下にニュースと短編映画を専門に上映する、第一地下劇場という新しいスタイルの映画館が開場した。さらに十一年(1936)、一月には、日劇ダンシングチームがジャズとダンスの初公演を行い、東京は、不景気から脱し、落ち着きを取り戻したかのように見えた。
 しかし、二月には二十七日付「帝都に青年将校の襲撃事件(二・二六事件)」(大朝)と、書きたてられ東京に戒厳令が布告された。市内の劇場や映画館は一斉に閉場した。三月、愛国婦人会創立三十周年の記念行事として、東京劇場で上演予定であった戯曲「奥村五百子」が警視庁から上演中止の命令を受けた。阿部定事件が新聞紙面を賑わした五月には、東京の高田塾で、女性塾長の承認のもと、男子を交えて社交ダンスパーティーが開かれ、警察は塾長に厳重な注意を与えた。戒厳令下にあって女性たちは警察からお目玉をいただくほど元気がいいのに対し、六月になって、落語家や講談師など250名が愛国演芸同盟を結成し、カーキ色折襟、戦闘帽の征服を制定ている。世間に笑いを提供するのが使命のはずなのに、戦争のお先棒をかつぐような、笑うに笑えない連中であった。
 八月は、ベルリンオリンピックで盛り上がった。九月、夜店のスピードボールが禁止された。十月にはインテリ層によるゴルフ賭博の撤廃の通達が出された。十一月一日付の新聞には、府の保導協会が「これではならぬ…とレビューの指導へ」(東朝)乗り出したことが書かれている。また、五日付ではダンスホール」(東朝)の一斉営業停止と、まるで、のべつ幕なしに大衆の取締りをしているように見える。十二年(1937)に入ると二月に、軍需景気によって東京株式市場は152万株と取引最高を記録した。また、規制する一方で、興業取締改正により、映画での男女同席の自由と上層ビルの興業を許可した。また、大相撲は夏場所から十三日間に延長が決まった。
 五月には、東京五輪に向にけ、東京市が新しい観光船を建造した。これでこの頃にも観光船が運行していたことがわかる。六月には、浅草に国際劇場が開場。七月には鎌倉で毎年恒例の「海のカーニバル」が開かれ、「二十万人の人出」(二十五日付 東朝)と書かれている。両国の川開きは47万人の人出。八月の避暑は三十一日付で「日支事変の影響のため」(東朝)著しく減少したとある。九月には後楽園球場が開場された。大衆は、絶えずレジャーを求めているなか、円タクの深夜の流しが禁止され、十月には「市内の銭湯で朝風呂が廃止」となる。十二月、各地で南京陥落の祝賀行事が行われものの、帝国ホテルは時局にかんがみ今後一切のクリスマスダンスを中止することを決定した。
 十三年(1938)二月、警視庁は盛り場で「サボ学生狩り」を行い、三日間で3486人を検挙した。その上改悛誓約書を提出させ、宮城遥拝後に釈放するという念の入ったやり方であった。四月に開園した小石川後楽園庭園は、三ヵ月間で7万5千人の入園者を記録。五月の夏場所千秋楽で双葉山は、通算66連勝で五連続優勝を飾った。六月、日劇エノケン一座が初出演、オペラ・パヴォ座は「ホフマン物語」「ボッカチオ」を公演した。七月、警視庁は、ダンスホールの婦人客入場を厳禁とし、男性は入場に際し住所・氏名・職業・年齢を記帳する決まりになった。十月には、武漢三鎮攻略祝賀会が開催され、市民が提灯行列を行った。
 十四年(1939)は正月から銀座通りで戦車による示威行進が、二月には軍馬行進が行われた。また、靖国神社の春季大祭には九段名物であった見世物や露店を、神域の壮厳を守るため、という口実で禁止を決定。五月、二重橋前に全国1800校の学生生徒代表三万余名が執銃帯剣・巻ゲートルで参集し、天皇親閲後、市内を行進する。六月、警視庁は待合・料理屋などに対して、午前0時をもって閉店するように通牒。七月、日比谷公会堂で第二回反英市民大会を開催し、10万人の大行進が行われた。八月には、一般の飲食店も十二時閉店となる。文部省、学生の運動競技は休日以外禁止を通牒。九月には、興亜奉公日(毎月一日実施)、待合・バー・料理屋など酒類不売でほとんど休業、ネオン消灯。防空訓練参加促進のため、ラジオの演芸放送を中止。警視庁は、ロシア・オペラ・バレエ団の上演禁止し、以後外国劇団は上演不可能となる。十二月には、百貨店の御歳暮の大売出しと配達を廃止、門松も全廃となった。
 東京市民の生活に次々と制約が課せられるなか、昭和十五年(1940)は、正月から「紀元二千六百年」を祝う気分にさせようと考えたのか、二日付の新聞に「敬虔の二百万、きのふ市内の賑はひ」(東朝)とまで書かれている。ところが、三月二十三日付では「軍事景気で煽るな 花見に頭痛の種」(東朝)と自粛を訴え、なんと「各家庭で成可く一家揃って外出しないやうに注意を與へること等々」とある。さらに、東京鉄道局では、その年の花見臨時列車は中止と決定し、紀元二千六百年奉祝以外の市民レジャーに対しては冷たい。それでいて二十八日付の新聞からもわかるように「参拝の人々へ 意義深い催し物」と靖国神社の臨時大祭のPRがなされている。そして、六月には紀元二千六百年奉祝行事である「東亜競技東京大会」が開催された。