江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)285
オリンピックと万国博覧会の同時開催
さて、昭和十五年は、実は万国博覧会とオリンピックとの二つのビックイベントが東京で同時に開催される予定になっていた。もし同時開催が実現していたら、お祭り好きの日本人のこと、盆と正月がいっしょに来たような賑やかな騒ぎになっていただろう。たぶん、紀元二千六百年記念奉祝よりももっと盛大になったであろうし、大衆が心置きなく楽しめる祭りになったもので、今となっては残念でならない。
昭和の初め、東京で万国博覧会とオリンピックの同時開催が計画され、具体化されつつあった。昭和五年(1930)十二月、「万国オリムピック、昭和十五年に東京で」(時事)という記事が出ている。第十二回オリンピック大会が1940年(昭和十五年)に開かれ、それがちょうど日本の紀元二千六百年にあたることから、首都にふさわしい慶祝行事を行おうとする動きは、東京市の内部から起こった。その翌年(1931)の十月には、東京市会で紀元二千六百年の記念事業としてオリンピック招致の決議が出されている。当初、日本での開催は欧州から遠く、しかも立候補が遅れていたこともあって、困難視されていたが候補地決定の土壇場になって、ナチス・ドイツの支援も功を奏し、東京開催が正式に議決された。
一方、日本で万国博覧会を開催しようとする動きは、明治の末頃からすでに見られ、「日本大博覧会」の名で開催が検討されていた。財政難のためなかなか実現されなかったが、昭和六年(1931)三月、衆議院と東京市会に「万国博覧会開催」が提出され議決された。なお当初、万国博覧会は昭和十年開催という案もあったが、その二年前(1933)にシカゴで開かれ、それからまだ間もないので、外国からの観光客が集まりにくいことや、内外の景気回復を考慮すれば、いま少し後の方が良かろうというようなこともあって、十五年のオリンピックとの同時開催が有力になった。これがハッキリ決まったのは昭和七年で、その後は紀元二千六百年(1940)の奉祝記念事業として開催する方向で進められた。
もっとも、万国博覧会とオリンピックが同時に開催されることはさほど珍しくはなく、第二回オリンピック大会はパリ万国博覧会と同じ1900年に開催されている。このパリ万国には、その後パリの象徴となったエッフェル塔が建てられ、延べ4千8百万人の観客が訪れ大成功をおさめている。もし、東京で同時開催すれば、極東の僻地という地理的に不利な条件を考慮しても、パリに匹敵する観客動員が期待できただろう。
東京での博覧会は、大正時代に8回開催され、昭和になって一回だけ(1928年の御大礼記念博覧会)行われたものの、東京のお祭りらしい博覧会としては大正十一年(1922)の「平和祈念東京博覧会」以来であった。昭和八年(1933)には、市の産業局内に「日本万国博覧会協会創立準備事務局」が設置され、九年には「日本万国博覧会協会」が結成された。開催期日も、昭和十五年三月十五日から八月三十一日までの百七十日間と決められた。開催すれば、東京市民はもとより全国から多くの人々が訪れ、4千5百万人(ちなみに1970年の大阪万博は4千5百万人を目標にして、実績は六千四百万人であった)という史上最高の入場者数を予想していた。そして昭和十三年三月二十五日付の新聞に、「二千円の夢を秘めて 万国博第一回前売入場券 きのふ売出し締切」(東朝)とあるように、まだ二年も先にもかかわらず全国の金融機関などで前売り入場券が売り出された。前年は日中戦争が開始し、戦局は拡大し、国内の景気は沈滞しているなかにあって、なんと百万枚もの入場券が好評のうちに完売した。国民は如何に期待していたかがわかる。このように前売り券の販売状況が極めて良好であった裏には、賞金(一等二千円 100名、二等百円 600名、三等十円4000名)が付いていたことと、一目万国博覧会なるものを見てみたいと思っていた人々が多かったからだろう。
東京朝日新聞を見ると、三月中には「着々進む東京大会準備」「駒沢に決定 オリンピック村とプール」「東京大会・正式に決る」「 “五輪予算" 九百万円、きのふ市会に上程」などとある。その後四月、五月、六月も、オリンピックと万国博は開催に向けて着々と進んでいる報道が続いた。特に、六月十三日付の「世界に叫ぶ “万国博!" 」の見出しの記事を見ると、その秋の九月の第二回の入場券売り出しにそなえてポスター30万枚、リーフレット千数百万部配布、ポスターまで掲載するという。
しかし、昭和十三年六月三十日になって、招待状の発送を明年に延期するという記事がでた。そして、七月三日付の新聞には「資材統制で懇談」と競技場の建設が困難なことが示され、十四日付では「万博延期あす決定」となってしまった。詳細は後述するが、もともと日本の国力からすれば、無理であった。国主導で万博を開催しようとすれば、国内では何とかなるが、海外への働きかけや参加を取り付けられるか。そのような重要な問題に、積極的に働きかけていたかということ、もし外国が建設資金不足であれば、その対応などに考慮がされていなかったようだ。
正式には十五日の商工大臣声明として「・・・所期の成果を挙げ難き慮なしとせぬので政府は慎重考慮の結果、此の際博覧会の開催を延期し、支那事変の見据付きたる際更めて適当な時期に・・・」と延期が通告された。一方、昭和七年に招致が決まっていたオリンピックについては、「・・・現下時局は挙国一致物心両面に亘り総動員を断行し、聖戦の目的達成に邁進しつつある国内情勢に鑑み、之が開催を止むるを適当なり・・・」と、東京大会返上の声明が東京市から出された。オリンピックは返上としたのに、一方の万国博覧会が事実上中止であったにもかかわらず延期と発表されたのは、前売券の発売によって560万円を集め、そのうち60万円をすでに使っていたため、公式に中止を発表することができなかったのだろうと思われる。
なお、オリンピックと万国博覧会の準備は徐々に進んでおり、芝浦自転車競技場は学生運動労働奉仕で着手され、ボートコースはすでに三分の一ができていた。特に、万国博覧会は海外からの参加要請のため東京市が「海外招請使節」の派遣をはじめており、協会事務局庁舎などの建設に着手していた。また、民間においても、七月十五日付の新聞に「銀座・怨めしい空振・三百万円の景気」(東朝)とあるように、拡張や新築したホテルや店もあり、オリンピックや万国博覧会景気をあてにした商売はすべて空振りに終わった。特に、本気になって開催を推進してきた東京市にとっては非常な痛手であった。そして、万国博覧会の前売券を買った人々は、中止ではなく延期という発表を信じて、紙切れとなってしまった入場券をあきらめきれずに持ちつづけたのではなかろうか。
ただ、民間のホテル整備などを除けば、オリンピックと万国博覧会の準備は、紀元二千六百年記念事業にそのまま活用することができた。さらに、オリンピックや万国博覧会の準備を進めていた組織などは、そのまま紀元二千六百年記念奉祝のための組織として転用させられた。特に東京市は、記念奉祝の式典会場を整備させられる、「国の主催する式典に地方自治体が『使用人』のように協力する図は今日では想像することのできないものであろう」と『東京百年史』第五巻に書かれているように、思わぬ負担を背負いこむ結果となった。
オリンピックと並び万国博覧会の中止は、国としても外国からの信頼を失う結果となったが、政府はそれを無視した。それよりも、国内の挙国体制をより強固にすることや紀元二千六百年記念事業の主導権を完全に握ることの方を優先させた。一方、国民は、オリンピックと万国博覧会の中止によって、自分たちの楽しみがなくなることに気づいていなかった。東京市が主催であれば、市のお祭りとして市民が中心となる可能性もあっただろうが、紀元二千六百年記念奉祝となれば、市民はお祝いをする立場になる。したがって、自ら楽しむことはむずかしくなってしまった。奉祝会は参加させてもらう、また参加しなければならないという、事実上の強制になることがまだ分からなかった。つまり、オリンピックや万国博覧会の理念とは根本的に違うことに、大衆はほとんど気づかなかったのではないかと思われる。