昭和二十年のレジャーが始まる

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)290
昭和二十年のレジャーが始まる

 これまで、昭和初期、二十年戦前までのレジャー関連について示してきた。このブログは続いて戦後に入るのですが、昭和20年(1945年)の社会変化は、かつてないものなので、その変化を確認したい。それも一年を通して、一連の繋がりとして一日ごとにもう一度を紹介したい。

 昭和二十年には、戦局の悪化が米軍に対してだけでなく、中国でも始まっていた。しかし、軍部はまだ「本土決戦」に望みを抱いていた。国民のすべてが死ぬまで戦うというスローガン、「一億玉砕」はそれを端的に表している。四月に成立した鈴木内閣は、六月に沖縄が日本軍10万人、一般人15万人もの犠牲を出し占領されても、本土決戦を変えようとしなかった。八月、広島と長崎の原爆を受け、無条件降伏を受諾した。

 東京は、一月から本格的なB29の空襲を受け、二月には130機による空襲で7万人以上が罹災、三月の東京大空襲では9万3千人が死傷、四月には数日おきに10階もの空襲があり、五月の大空襲にはB29が約250機も飛来した。それに対し、市民は竹槍で応戦するどころか、ただ逃げまどうだけである。東京は首都としての機能が麻痺しかけ、市民が辛うじて生活しているだけであった。

 空襲におびえる市民の心を支えていたのは、政府の戦意向上の叱咤激励ではなく、ラジオから流れる娯楽番組や映画・演劇などであった。その日の食べ物にことを欠く毎日、着の身着のままの生活ではあるが、焼け残った映画館には長蛇の列ができ満員。開園している上野動物園にも、市民が大勢出かけている。特に、戦況の悪化がハッキリとしてくると、これまでの娯楽禁止が緩和され、市民のレジャー気運は高まったように見える。

 

 そして八月十五日、戦後が始まる。それは混乱の始まりであるが、国民は、自分たちの手で新しい社会をつくらなければならないのに、人々はそれまでと同様上からの指示を待っていた。もっとも、日本人が終戦時に勝手な行動をしなかったことは、後から思えば、大混乱が起きずにすんだとも言える。

 国内の情況は、敗戦によって大きく変わるが、人の心は急にはかえられない。戦争が終わった解放感というより、安堵感の方が大きかった。突然の終戦宣告に、何をしたら良いかわからない人も多かったのだろう。

一方、政府は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)をうまくあしらって、既存の体制をいかに維持するか、という点に腐心した。国民に対しても、「一億総懺悔」の精神を浸透させ、我慢、辛抱の生活を続けるよう仕向けた。さらに、GHQからの五大改革や憲法改正などの民主化要請をいかになし崩しにするか、様々な抵抗を試みた。これに対し、革命的な民主化を恐れた占領軍は、戦前から続く国体の維持を認め、既存政府の人材や組織に頼らなければならなかった。

 戦後が実質動き出すのは、「大本営」が廃止される九月十三日頃からであろう。社会実態の戦時体制は崩壊しても、形式的な戦時中が残っていた。また、国民にも戦時中の体制は、浸透したままである。新しい動きとして認められるのは、娯楽と闇市くらいであろう。最も際立って戦後らしい動きを見せるのは、闇市である。闇市は戦前の露店をはるかに超え、巨大なマーケットになった。「闇市の氾濫 王座は日用品 放出物資の横流しか」(朝日九月十七日)とのように、政府の統制は効かず、戦後の変化は闇市からという状況である。

 日本の国が軍国主義から民主主義に大変換するのだが、国民の多くは、GHQの意図する民主化など理解できるはずがない、それより目の前の食料確保に追われた。それでも、制限されていた娯楽が開放され、徐々にではあるが戦時中よりは日々の楽しみは増えていった。

 十月には戦後の混乱の縮図ができる。GHQによる政治刷新や財界解体など、旧体制の刷新が掲げられたが、一筋縄では行かないのが当時の状況である。また、「昂進する栄養失調症」(朝日二十九日)と日本の食糧問題は絶望的と、国内の混乱は多難の様相を呈していた。政府は無為無策のまま、戦争が終わって二カ月もたたないうちに、戦後混乱の縮図ができた。

それでも都民は娯楽にも関心を向ける余裕が出てきた。戦後映画の第一号とされる『そよかぜ』(朝日四日)が上映、映画の批評とはよそに主題歌の『リンゴの唄』は、当時の人の心を捕らえ、その後空前の大ヒット(レコードは三ヶ月で七万枚)となる。

 十一月に入っても、東京は、毎日のように餓死者がでる状況。都は、闇市の拡散に何も対応せず、なるがままに放置している。食料事情は確かに深刻だが、それでも戦後の楽しみが始まる。闇市、盛り場の賑わいは、東京は戦中とはまったく違った様子を見せていた。

 十二月になっても、都民の生活は混沌としたまま、それでも誰もが良くなることを願って奮闘している。政府など上からの施策や援助を期待するものの、自ら動かなければならないことに気づいている。都内全域に展開する露店、闇市、否定するのでなく、自分なりの対応を始めている。そして、庶民の適応性はすごいもので、露店や闇市なども楽しみとしているように見える。

 庶民は、この頃の困窮がさらに厳しくなるが、昭和二十年が苦難の序の口であることに気づくはずがない。それでも、戦時中より生き生きとしていたことは確かであろう。