江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)291
昭和二十年を見るにあたって
1945年は今から約80年前である。その80年前は1865年(慶應元年)、幕末をむかえ、1867年に大政奉還が布告された。翌年は明治元年、日本の大変換が進められた。幕末維新の大きな節目となった。そして、2025年も時代の変革期となるのではなかろうか。
約80年周期で日本の出来事を見ると、160年ほど前は天明の大飢饉、1782年(天明二年)から 1788年 (天明八年)にかけて発生した。日本の近世では最大の飢饉で、各地に多数の餓死者を出した。
その80年ほど前、1707年(宝永四年)に富士山が噴火(宝永大噴火)した。300年以上噴火がないことから、21世紀の噴火が心配されている。
さらに80年ほど前、鎖国が徐々に進められた。1624年(寛永元年)スペインとの国交を断絶し、来航を禁止した。1631年(寛永八年)朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる奉書船制度が始まる。1633年(寛永十年)奉書船以外の渡航を禁じ、奉書船以外の海外渡航を禁止する。1635年(寛永十二年)日本船の海外渡航及び帰国を全面禁止する。1639年(寛永十六年)幕府はポルトガル船の来航を禁止。そして、1641年(寛永18年)オランダ商館を長崎出島に移す。1854年の日米和親条約の締結により鎖国の終焉を迎え、日本は次々と西洋諸国との条約を結び、鎖国政策が終結した。
日本の歴史を通観すると、周期的に局面を迎え、変革している。また、60年ほどごとに発生する御蔭参りがある。御蔭参りとは、江戸時代の初期から伊勢参りが盛んに行われていた。毎年行われる伊勢参りのなかで、特に参詣者の多い年がある。それは、1650年(慶安三年)、1705年(宝永二年)、1771年(明和八年)、1830年(文政十三年)である。この参詣者の多い伊勢参りは、特に「お蔭」がいただけるありがたい年としてお蔭年というようになる。
なお、もともと伊勢神宮への信仰は、江戸時代以前から民衆に広がっており、参詣も年を追うごとに盛んになっていた。江戸時代の「お蔭参り」と呼ばれる集団的な巡礼行動が周期的に繰り返されたのは、単なる偶然ではない。慶安三年正月より始まった慶安のお蔭参りは、前年に遷宮が行われている。そして、明和・文政のお蔭参りも遷宮の直後発生している。つまり、伊勢神宮の遷宮が行われ、伊勢参りをしたいと思う心理が働いている。それも、一生の内に一度は伊勢参りをしなければという願いも計算したものと考えると、60年周期は説明できそうである。
歴史の周期性から、歴史は繰り返されると考えると、必ずしも将来は良くなるとは期待できないことを覚悟しなければならない。そこで、1945年(昭和二十年)の敗戦以後と1865年(慶應元年)から明治維新ころを比べてみたい。この二つは、国が大変革する起点である。
明治維新は、幕藩体制を倒して中央集権国家を形成し、資本主義社会へと進めるものである。歴史的評価としては、近代化と改革を達成するものとして、社会的な発展に寄与したと肯定されている。歴史に「もし」、と言うことは無意味かもしれないが、薩長土肥が実権を握らなくても、社会的な発展は達成されたのではないか。それどころか、旧幕府側によって、政治や法制、軍隊、教育、経済、そして文化や科学なども、明治政府(薩長土肥)が行なった以上の成果が達成されたのではなかろうか。
学校での歴史教育は、明治維新を行なった側の視点で語り続けられてきた。1945年の敗戦後も、この歴史観は全く変わっていない。幕末の戦い(権力闘争)で実権を握った側が全て正しく、支配者として国を治めることを当然としているからである。それも、国とはいうものの国民は、上層の人々に視点が置かれ、大多数を占める大衆の存在など眼中にない。そのような国家体制は、明治・大正・昭和の1945年迄続き、敗戦直前まで、「一億玉砕」を国民に求めた。
敗戦後80年経とうとしているが、様々の課題を科学技術で解決しようとしている。わが国だけでないが、最も重要である温暖化は、もう科学技術で解決できる問題でないことを認めようとしない。自然保護も、自然科学では解決できず、政治、経済問題であることに気づいているものの、対応していない。スギ花粉症にいたっては、花粉の少ないスギを研究し、植栽している。科学技術での可能性を探ることは無意味とは言わないが、限界は見えている。
わが国だけで、温暖化のようなグローバルの問題を取り組んでも、という考えもあるが、やらなければならない。ではどうするか、その端緒として、明治維新前後と太平洋戦争敗戦前後を比較検証することを提言する。