東京市民の楽しみ(昭和時代)295
幕末の庶民社会・幕末の打ちこわし
幕末の前、天明の打ちこわしを見てみよう。江戸で打ちこわしが発生したのは、主食の米などの食糧不足を抗議して発生したもので、食糧暴動と言えよう。被害を受けたのは、米価が高騰する中で米を高値で売り続けた米屋である。かねてから近隣の貧民に援助を行っていた商家は打ちこわしの標的にはならなかった。
打ちこわしの勢いは、町奉行が鎮圧不可能となるくらいの激しいものであった。なお、襲撃対象となった家への打ちこわしは、放火や暴力による死傷者は一人も出ていないようだった。家屋を倒壊したケースは確認されておらず、打ちこわしに乗じて盗賊行為なども見られなかったようである。ただ、打ちこわされた商家の米や麦、大豆などを路上にぶちまかれるといった事態は頻発した。
また、米屋に乗り込んで打ちこわししたが、代金を支払って、米を持って行くということが行なわれてもいた。さらに、打ちこわしに参加しなかった貧民にも持ち帰って米を分けたとの話もある。現代から見ると、不可思議のような行動が認められる。それは、誠に丁寧、礼儀正しく狼藉を働いていた。そして、打ちこわした人々は、いわゆる物取り、盗人ではなかったとされている。
打ちこわしは、米の買占めを行い、米価高騰を引き起こした商人たちへの社会的制裁を加えることにあったためと考えられる。まず、打ちこわしの始まりには、鳴り物や掛け声の合図があり、ときどき休憩を取りながら打ちこわしを行ったとの話がある。こう見ると打ちこわしは、高度に組織化された規律ある行動を行っていたと見られている
以上のような打ちこわしの状況を鑑みながら、幕末、慶応二年の打ちこわしを詳しく見てみよう。まず、江戸および周辺の打ちこわしの発生する前のいくつかの状況を示す。
慶応二年、江戸市中には、米の高騰や売り惜しみをする者の処刑を宣告する張札が三月に出る。四月、五月にも打ちこわしなどを予告する張札があった。五月十日には、米の安売りを予告する偽の掲示があったが、町役人などが訪れた人々を制して事なきを得た。打ちこわしは、突然起きるものではない。予告があり、察知が可能なものであった。
江戸近郊の村々では、五月十八日、荏原郡八幡塚村の鎮守境内で、困窮人⒋~50人が名主らに金を出させて米の安売りをさせる。二三日、同じく荏原郡堀之内村で名主宅を打ちこわし、米屋に安売りを承諾させる。二四日、大井村御林八幡宮に百人余が打ちこわしのために集まり、「身元よき者」より三三〇両出金させている。多数の人が決起することから、事前の誘いや打ち合わせが不可欠であった。そして、打ちこわしは殺人や危害を目的としていない。困窮人の必死の訴えであった。テレビなどで見る、外国の暴動とは異なり、手当たり次第金品を奪うような行為はしない。と言うのも、うちこわしに入った困窮民の身元はわかっており、誰が何をしたかもわかっているためである。
そしてこの後に、江戸の打ちこわしがはじまった。二十八日、午後八時頃、手拭いで顔を隠した一人の男が南品川宿の御獄町稲荷社に来て、太鼓の借用を頼んだ。断られたが無理矢理持ち出し、馬場町東岳寺境内に運んで打ち鳴らしはじめた。すると、どこからともなく人々が集まり、南品川宿、北品川宿、品川歩行新宿など打ちこわした。また、北品川にもどって、東海寺門前・御殿山で打ちこわした。人数もはじめ20人ぐらいだったのが、おわりには180人ぐらいになっていた。打ちこわしにあったのは、質屋、米屋、酒屋など40余軒であった。
街中の打ちこわしは、首謀者がいて、二十九日の夜十時頃、人集めの太鼓が鳴り、この日は約4~500名が集まり、本芝(現在の港区)の二二ヶ町で67件の打ちこわしが行われた。六月一日には、午前三時頃より、同じ芝で、19軒の打ちこわしがあり、店の商品を散乱させ、六時頃逃げ去った。二日は、牛込、四谷(現在の新宿区)などで25軒、麻布で26軒が打ちこわされた。三日は、堀留町、牛込中里町、早稲田町、馬場下町、鎌倉横町などで打ちこわしがあった。
さらに、四日は本所茅場町四谷伝馬町、五日は本所緑町、六日は赤坂で打ちこわしが続いた。打ちこわされた家は、質屋や米屋、酒屋の他に横浜貿易で利益を得て日頃からよく思われていない唐物渡世業者などの裕福な町家であった。
江戸の打ちこわしがようやくおさまった直後(六月十三日)、武州世直し一揆が秩父郡名栗村からはじまった。穀物を食いつくした村民が、座して死を待つよりは、と蜂起。名打ちこわし場所と対象 栗周辺より農民⒉~300人が飯能川原に結集した。碗箸杓子の絵を描き、「世直し」と記した大文字の幡か、あるいは「平均世直し将軍」と太筆で記した幡を真先に押し立てて、飯能村の4軒の籾屋を打ちこわしたのを機にはじまった。以後、一揆は拡大し、十万人規模になったとされている。
さて、市中の打ちこわしに先立って行われた村々の騒動の実行者は、被害を受けた名主などによって身元がわかっている。それでは、打ちこわしの実行者は、どの程度確認されているのだろうか。最初の品川宿では武家、町人、中間躰の者が入りまじっていたとある。
その他、印半天などを着た職人、または肴屋らしき者、弁慶縞の単物を着た若衆などという記述もあることから、打ちこわしはその日ぐらしの貧民層で職人が多かったようである。それも、遠方の者ではなく、付近に住む難渋者たちらしかった。また、六月二日に捕らえられたとされる三人は、俗に言うごろつきであった。
職業のはっきりしていたのは、六月五日、赤坂の打ちこわしをして召し捕られた、塗師、竜吐水屋、鳶職、八百屋などである。しかし、この日、打ちこわしの見物禁止の町触も出されており、つかまった八人が、果たして見物人か参加者かという疑問は残った。
江戸の打ちこわしは、噂があると大勢の人数が集まってきた。そして打ちこわしを制止することもなく傍観していた。打ちこわしの人数は様々で、10人から120人ぐらいが多かったようだが、なかにはたった2人でこわしたというのもある。六月五日の本所の質屋の打ちこわしは、十二、三歳の子ども7人から始まった。このように、大人に混ざって子どもの参加もあった。なかには、十五、六歳の男子が屋根の上を跳ぶように自在に走り回って指示していたという記録もある。
打ちこわしが具体的にどういうものかというと、昼間町内の者が質屋や米屋にやって来て、施しを乞う。それを断ると、今晩こわしに来ると言って立ち去る。また、朝から何となく人数が集まり、はじめは子どもの中に大人が混じっていて遠巻きに見ていたのが、若衆が長暖簾を引きちぎったのを合図に見物人がどっと声を上げてなだれ込むなど、形は様々であった。ただ、共通するのは、家財を打ちこわす、商品を散乱させるなどが中心で、いわゆる盗みが目的ではなかったこと。また、打ちこわしには、必ずといっていいほど多数の見物人がいて、打ちこわしに声援を送っていることである。
ここで、注目したいのは、江戸の打ちこわし(五月二十八日)より前に行われた近郊農村の実力行使では、米の安売りをさせたり、金を出させるなどしていた。ところが、品川から始まる打ちこわしは、米や金などを取るよりものを壊すことが目的となっていた。そして、庶民は打ちこわしを見物しているだけで、米や金を貰うという実質的な恩恵をなにも得ていない。
一方、武州世直し一揆は、高利貸、外国売買の商人、宿々籾問屋、高利質屋などを対象としたが、人身殺傷はなかった。一揆といっても、下層農民だけでなく職人を含み、村役人の指導もあり統制がとれていた。各村の一揆の要求と目標は共通し、一揆は行く先々でその地の人々と交代し、前の組は自分の村に帰るというように、村同士の連帯が図られていた。
江戸の打ちこわしは、連鎖的に発生しているが、革命を目指すものではなく、日頃のうっぷんを晴らすという感情に支えられていたように見える。打ちこわしに参加した人々は、生活に困窮していたはずだが、なぜか略奪行為はしていない。打ちこわしを行なうのは、近在に住んでいる困窮民だったと言われているが、打ちこわしにあった家の顔見知りの者ではなかった。打ちこわしにあった家の人は、犯人を見ているが以前会ったことがないとしている。もし、近くの住民であれば、見物していた近所の人は、犯人を密告するか白状させられているはずだ。なお、実行者は必ずしも町人だけではなく、首謀者はわかっていないものの、計画的なものもあったとされている。
江戸の庶民は、幕末の騒動を常に見物していたのは確かだが、中心となって行動したのかというとどうもそうではないようだ。江戸の打ちこわしが、庶民の生活苦から自然発生的に起きたという見方には、やはり疑問が残る。打ちこわしの終結は、触れが出されたかというよりは、打ちこわしが庶民の暴動を誘発させるに至らなかったためではなかろうか。