東京市民の楽しみ(昭和時代)297
幕末の庶民社会その実態1
・江戸庶民
江戸の庶民とはどのような人々を言うのだろうか。幕府側から見た町人とは、地主・家持に加えて、地主の土地を差配する家守(家主)層までを指していた。したがって、その日暮らしの人々は、町人ではなく、後述する貧窮民としてしか見ていない。ただ、一般には、江戸市中に住んでいる人々で、町の人別帳に加えられた人々を町人と呼んでいた。また、現代のわれわれがイメージする庶民とは、武士や僧侶、百姓ではない町人で、むろん、豪商などの金持ちではなく、落語にでてくる八さん熊さんのようなどちらかと言えば下層階級の人々をイメージするのである。
なお、当時の江戸には、「椋鳥(むくどり)」といって、農閑期に江戸に出稼ぎにくる人々がいて、そういう人を含めて慶応三年には四万七千人程度の人がいた。また、町の人別帳に載らない無宿人、非人(慶応一年には約一万人)が数多くいて、無宿人には長屋住まいをするものまであった。したがって、江戸の街を歩く庶民は、実はさまざまな種類の人々で構成され、なかには下層武士も含まれていたと思われる。
次に、庶民は江戸のどのあたりに住んでいただろうか。人々の住む場所は、身分や貧富の差などによって異なり、それぞれ独自の生活形態を営んでいた。町民は江戸東部を中心とする低地、すなわち日本橋、京橋、神田、浅草、下谷、深川、本所、向島、佃島などいわゆる下町と呼ばれる地域と、芝、麻布、麹町、四谷、市ヶ谷、牛込、小石川、本郷など台地の谷部にあたる地域に住んでいた。
それでは、庶民と呼ぶ人々はどのくらいいたのだろう。江戸の人口は正確な数はわからないが、百万人以上であったことは間違いない。天保十二年(一八四一)の町奉行調査によれば、最も多い町人は約五六万人で、武士や僧侶などについては町人と同じくらい住んでいたものと推測されている。
町人にも貧富の差があり、天保十二年の町奉行調査では、約二八万人をその日暮らしと見ている。慶応二年の窮民調査によれば、貧窮民にも上中下の三段階があり、畳や建具もない下の貧窮民が約八万人、竈に湯釜、破戸棚か箪笥があり、芋粥を二度くらい食べられる窮民を中、畳や建具に鍋釜等があって三度の食事のうち二度ほど粥にする窮民を上とし、中上の窮民が約二一万人となっている。したがって、貧窮民とされる人々は、約二九万人にいることになり、天保年間より著しい人口増加がなければ半数以上が貧窮民ということになる。
現代では、まだ中流意識を持つ人が庶民に多いが、江戸時代には身分、貧富の差があって、生活形態、行動形態が異なっていた。そのため、裕福な上層町人を名主・地主までは、大名よりも贅沢な生活をしている人が少なくない。そのような人は、約十万人もいるが、この人達を庶民と呼ぶのには抵抗がある。この裕福な層の下に、家守から貧窮民までの間に位置する人々、約十七万人がいる。そして、貧窮民が約二九万人となる。そこで、いわゆる江戸の庶民を、富裕層を除いた町人と最下層の下級武士を加えると五〇~六〇万人程度を想定することができる。
・庶民の困窮とは
幕末の江戸は、食糧事情が悪化し、困窮する貧民がいたことは、『武江年表』等によれば以下の通りである。
慶応元年
○去年より米穀薪炭酒味噌油絹布の類、其餘諸物の價次第に登揚し、菜蔬魚類にいたる迄其價甚貴し
○米價諸色高値に付、同月(七月)より町會所に於て、市中の貧民へ御救の米錢を頒ち與へらる
慶応二年
○近年續て、諸物の價沸騰し、今玆は別て米穀不登にして、其價貴踊し、五六月のころよりは、小賣百文に付て一合五勺にて換えたり、八九月の頃に至りては、一合一勺に及べり、此如く登踊して、賤民の困苦いふばかり
○・・・六月中には、町會所より貧民御救として、 一人分銭貮貫白文宛を領ち與へられ、九月初旬には、百文に付二合五勺の御拂米これあるべしとて、坊間へ張札を以て徇られしが、其公試驗行渡らず、此米賤民の内にもわけて、貧寠窮迫の者にわかちて、飢餓を救ふべしとありしが、此撰に洩たるを羡且憤りて、九月十日の頃よりは、本所大島邊の貧民、急卒に大路に輳り、富商の家又は米屋味噌屋炭薪屋の門邊に彳で、救施を求む、大釜を借受・・・
慶應三年
○去年より、南京米多く入津
これは、幕府は、ついにイギリス公使パークスの勧告を受け、外米の輸入を許可した。ただ、この輸入米、貧民は味が悪いと食傷ぎみであったと伝えられている。そして、江戸には困窮民が溢れていたと思われるものの、餓死者が多数出たとの話はなかったようである。
・江戸の街の平穏
幕末は激動な社会と思われているが、こと、江戸の庶民社会は、平穏であったと思われる。それは、元治・慶應年間の江戸庶民関連事象を見れば、庶民がいかに街中で楽しんでいたかがわかる。困窮民とされる人々でさえ、日々の生活で彼らなりの思いをぶつける場を有していたことからわかる。
「生麦事件」は、文久二年、武蔵国橘樹郡生麦村付近で、薩摩藩主たちの行列に遭遇した、観光のイギリス人騎馬達が下馬せず、藩士に殺傷された。事件は、どちらに非があるかというより、政治的な駆け引きに展開した。外国人との衝突は、安政年間(ロシア人に見物人が殺到し投石をする)から報告されていた。双方の思い違いによるものもあるが、安政六年に、往来で外国人と遭遇したら不作法のないようにとの通達が出された。
江戸庶民にも、武士のように外国人に反感を抱く者がいたようである。慶応二年八月、米国大使ヴァン・ヴァルケンバーグら四名が王子周辺を遊覧し、谷中の団子坂を抜けるとき、貧民の群れに遭い、貧民が馬上の一行にめがけて雨のように石を投げつける事件が起きた。これについては、『武江年表』に次のように記されている。「大勢の貧民が、裕福な家に行って施しを得ようと、紙の幟を立て、破れた服を身につけ、大勢集まって歩いていた。それを見て外国人たちが笑ったところ、群衆のなかでも反抗的な者たちが怒って、口々に罵りの言葉を吐きながら、石を投げつけはじめた。」
つまり、外人としては悪気がなかったものかもしれないが、馬上から見られた貧民にとってそれが屈辱的であったことは間違いないだろう。たしかに、このような非常時に外国人が居合わせたことは、不運ではあるが、彼らに近寄ること自体大きな間違いだったともいえる。ここで、貧民は「我々がこのように苦しんでいるのは、元はといえば、夷人来てから物価が高くなったのだ」という抗議の意味合いより、自分たちを蔑んだその目の色に対し、憤慨して投石したと思えるがどうだろうか。
江戸の貧民とされる人々は、困窮しているものの、精神的に追い詰められていたとは感じない。自らの主張を示す気概のあること、蔑まされたら反撃したのである。そして、その反撃には手心が加えられており、外国人を殺傷することがなかった。295で述べているように、たとえ「打ちこわし」と言えど、人々は庶民社会の秩序を保つことを自認していた。