欧米人から見る江戸と明治以降(東京)の庶民社会3相互扶助と自由

江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)307

欧米人から見る江戸と明治以降(東京)の庶民社会3相互扶助と自由

・相互扶助

 慶應二年(1866)に訪れた、イタリア海軍中佐ヴィットリオ ・アルミニョンは、庶民の生活について『イタリア使節の幕末見聞記』(大久保昭男訳)に記している。

 「主婦は家事に専念し、雇い人を指図し、夫の世話をするなどして、自分の楽しみは求めない。男は家族を養うのに足りるだけ稼いで、働きすぎて疲れるようなことはないようにする。日本人は、いつも頭を働かせて、あれこれと工夫をし、無駄な労力を省くことのできる装置を考えるのを好む。しかし、同時に。友達付き合いでは気勤勉でもあり、愚痴をこぼさずに進んで自分の義務を果たす前がよく、求められれば喜んで援助をし、節約して蓄えた金は友人と一緒に使う。職人には組合があり、頭として棟梁がいて、世襲的な規約がある。生活は平安に、呑気に過ぎて行く。財布が空になれば、米や茶を分けてくれる友人もあるだろう」と、相互扶助について触れている。

 「馬丁は馬と厩の手入れをする。主人が外出する時には、きまってその供をする。馬が並み足、あるいは速歩であっても、つねにその前を走る。・・略・・いつもほとんど裸である。木綿の沓 (足袋) を二日に一足履き切ってしまう。酒や賭け事が好きだし、喧嘩口論もしょっちゅうする。しかし、よく気がきくし、自分の義務をきちんと果たすので、雇う側からは喜ばれる。横浜の馬丁たちは・・略・・仲間の収入の一部を集め、失職した者には食費と住居費を与える。日本人たちの間では、形はさまざまだが、互助組織のようなものができている。西洋人に雇われている馬丁が病気になると、主人が知らない間に別の馬丁が代わって働いているということも珍しくない」と、下層庶民の相互扶助に触れている。

 またアルミニヨンは、「日本人の暮らしでは、貧困が暗く悲惨な形であらわになることはあまりない。人々は親切で、進んで人を助けるから、飢えに苦しむのは、どんな階層にも属さず、名も知れず、世間の同情にも値しないような人間だけである」と、相互扶助に触れ、「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国はほかにはない」、とまで記している。

 庶民が互いに助け合うという社会、そのような近隣社会が可能であったのは、下層民にそれを許す自由があったからであろう。

・下層庶民の自由

 アンベールは、江戸及び江戸庶民について、「江戸には現に二つの社会が存在していて、一つは武装した特権階級で、広い城塞の中に閉じこめられており、もう一つは、武器は取り上げられ前者に屈服させられているが、自由から得られる利益をすべて受けているらしい」と、庶民が自分たちの社会を保つことが出来たことが、比較的自由な活動できたことを記している。

 安政四年(1857)に訪れたオランダの海軍軍人・海軍伝習所教官となったカッテンディーケは、「ラウッ教授は, 日本の下層階級はあらゆる圧迫に曝されていると言っているが、私の看るところをもってすれば、むしろ世界の何れの国のものよりも大きな個人的自由を享有している。そうして彼等の権利は驚くばかり尊重せられていると思う」と述べている。それは日本では下層民が「全然上層民と関係がないから」で、上層の武士階層は 「地位が高ければ高いほど、人目に触れずに閉じ」ているからである。

 また、「町人は個人的自由を享有している。しかもその自由たるや、ヨー ロッパの国々でも余りその比を見ないほどの自由である」と、カッテンディーケは付け加えている。「この国が幸福であることは、一般に見受けられる繁栄が何よりの証拠である。百姓も日傭い労働者も、皆十分な衣服を纏い、下層民の食物とても、少なくとも長崎では申し分のないものを摂っている」と述べている。

 ツュンベリーが「自由は日本人の生命である。・・・」と、前述したように、江戸時代当時の西欧社会に比べて恵まれていた。庶民の自由、特に農村地域では制約や義務があったものの、大都市より干渉されない社会が成立していた。農村地域では、年貢などを納めれば、農民社会は干渉されず、自由な活動が許されていた。それを証明するのは、現在でも続けられている伝統芸能・行事などである。これらは、幕府や藩主などが資金提供や指導を行なったものではない。現代では補助金、さらには主催して存続しようとしているのに、逆に取締や干渉をされながらも、百姓たちの意志で行なわれてきた。

 例えば農村歌舞伎などは、劇場舞台・配役はもちろん、衣装・小道具まで全て百姓たちが時前で賄っていた。現在でも、文政二年(1819)頃に建設されたと推定される上三原田(群馬県渋川市赤城町)の歌舞伎舞台(回り舞台)が残っている。祭りにしても、寺社を奉ってはいるものの、実質は百姓が楽しむものであり、信心に託つけているのである。

 ただ自由と言っても、現代のような個人の自由を尊重する形態とは異質なもので、農村社会の共同体としての中での自由である。本当の自由とは、このように個人と共同体が相互に対応しながら、得るものであろう。農村地域で自由が成立したのは、複雑な地形と微気象など複雑な立地条件によって、西欧のような広い平坦地で少ない作物種での集約的な農業が出来ないことにある。狭い耕地での農作業は、その場所を知る百姓に全てをまかせて収穫せねばならない。オールコックは、「自分の農地を整然と保っていることにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはないであろう。田畑は、念入りに除草されているばかりか、他の点でも目に見えて整然と手入れされていて、まことに気持ちがよい・・略・・男や女や子供たちが、朝早くから夜遅くまで田畑にいるのを見かける」(『大君の都 幕末日本滞在記』山口光明訳)と観察している。作付け作物の選定から、植付け時期、続く農作業と、百姓の裁量に任され、労働時期や時間も自由なのである

 江戸時代の農業は、例えば『会津農書』によれば、30種以上の作物が記されている。これらを栽培するのを強制されたら、働くことは苦渋になる。百姓は、働いた収穫物の全てが取り上げられるのではなく、年貢以外は自分のものになることが認められていた。そのため、多種多様な作物を自らの意志で栽培しようとし、そのような労働はこの上ない楽しみとなる。オールコックは「封建領主の圧制的な支配や全労働者階紐が苦労し呻吟させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だがこれらのよく耕作された谷間を横切ってひじょうなゆたかさのなかで家庭を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見てみると、これが圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象をいだかざるをえなかった」と述べている。

 百姓の仕事は、天候や気温などの気象、自然に左右され、いかに自然にしたがって働くかという絶対的な宿命がつきまとう。自然との折り合いをつける生活をせざるを得ない。働きたくないとさぼれば、収穫量の減少を招く。欲望にまかせ、収穫物を食べてしまえば後の困窮を招く。自由とは言うものの、個人の好きなように振る舞えば、その代償を負わねばならない。百姓は、日々働く中で自然の摂理を身を以て感じている。宗教とか、思想と言うような形而上学的なものの影響を受けるより、労働から感じるものを信じて生きることになる。そして、自由とは、自分の意志で判断することが出来、それを実際に行なうことの出来ることが自由なのである。