江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)308
欧米人から見る江戸と明治以降(東京)の庶民社会4子供の天国
わが国で最も危惧される少子化、何を差し置いても、子供が増えるような社会にしなければならない。回りに子供が溢れているような社会、そんな社会を取り戻すにはどうしたら良いのだろう。子供の世界を取り戻すことが先ず必要である。子供たちによる子供たちの社会、子供たちの天国とはどのようなものか、欧米人が見た江戸時代の子供を参考にしたい。
いつの間にか、子供と大人の世界の界が無くなってしまった。ゲームなどはその典型で、子供ならではの遊びの世界が、大人世界のビジネスによって奪われてしまった。大人から見れば、幼稚で経済的な価値など無いけれど、子供世界を構築する機会を潰している。確かに商業化したゲームは、子供が考えた楽しみより面白いし魅力がある。しかし、子供の遊びは、痛快・快楽的な面白さにあるのではなく、子供自身が構築するところに価値がある。それを大人の価値観で、子供の遊び世界を亡きものにしてしまった。
そうなると、子供社会など無用と思う人たちが増加し、子供の世界存在などは経済成長に何の価値も無いものとなる。さらには、子供の存在自体が無用となり、子供を育てようとする気にはならない。育児は負担ばかりがのしかかり、何の経済的なメリットが無くなる。そのような目先を優先する現代の社会、効率は上がるであろうが、そのために更なる圧力を増していくだけである。
子供の世界に寄り添う社会、経済効率はよくないが、また現代の物質的な裕福を失うが、再検討する時期にあると思う。大人どころか、子供までが精神疾患を危惧する時代、はたして夢のある未来が展開するであろうか。欧米人が書き残した江戸時代の庶民気質は参考にならないか。
・子供の天国
「日本人の暮しぶりで、一番利益を受けるのは子供たちである。まず子供時代は、誰でも思いのままに過し、父母は、伸び伸びと育つわが子の姿を慈愛に満ちた目で見守り、これを慈しむのが楽しみであり、自分たちの満足でもある。そしてまた、愛情の限りをそそぐ愉しみの対象ともし、それがまた、子供には非常に大きな利益にもなるのである。外国人旅行者は、日本の子供たちは決して泣くことはない、と記述していて、とてもこんなことはあり得ない、と誇張して表現している中しかし私が今、述べたような事情とか、そういう結果を生む外部の種々の条件から、確かにこのことがあり得るのだと理解されるのである」と、アンベールは思っている。そして、「日本の子供は伸び伸びと育ってゆく。まず、両親の家にもましてすべて自然のままに、まったく田園風に過すのである。自然こそは、子供らを守る芝生にほかならない。両親はとりわけ世話もやかず、玩具にも、遊戯にも、祭礼にも干渉しない。ただ子供を教育することにだけ関心をもち、それを唯一の楽しみとしている」とも述べている。
カッテンディーケは、「日本人がその子らに与える最初の教育は、ルッソーがその著『エミール』に書いているところのものと非常によく似ている。多くの点において、その教育は推奨さるべきである。しかし年齢がやや長ずると親たちはその子供たちのことを余り構わない。どうでもよいといった風に見える。だからその結果は遺憾な点が多い。一般に親たちはその幼児を非常に愛撫し、その愛情は身分の高下を問わず、どの家庭生活にもみなぎっている。見様によっては、むしろ溺愛しているともいえよう。子供らはまた、まことに可愛らしいところがある。そうして無邪気な点も幼児にはよく似合っている。これは親の子供の取扱い方によるものと思う。子供らにはよく面倒を見るが、自由に遊ばせ、さほど寒くなければ殆ど素っ裸で路上を駆けずり回らせる。寒くない時というのは、一年中僅か二・三カ月だけである。子供らは、かような工合で直ぐ発育し、体は丈夫かつ敏捷になる。他方精神力も、かように健康上、有難い環境の下に、すこぶる健やかに発達していく。子供らがどんなにヤンチャでも、親たちがその子供を窘めているところなど殆ど見ることがない。ましてや叱ったり懲らしなどしている有様はおよそ見たことがない。日本の子供は恐らく世界中で一番厄介な子供であり、少年は最大の腕白小僧であるが、また彼等ほど愉快な楽しそうな子供たちは他所では見られない。児童は無茶に早期に学校に行くようなことはない。そうして教えを受けねばならぬ時は、緊張する時よりも却って寛ぐ時だと思っているらしい」と、考えている。
オールコックは、「イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつあるひとつの美点を、日本の子供たちはもっているとわたしはいいたい。すなわち日本の子供たちは、自然の子であり、かれらの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ、大人ぶることがない。かれらはひょうきんな猿を背負った旅芸人を追っかけてゆくし、そのような楽しみからえられるような幸福より重亭な幸福は望まない」と、日本の子供は恵まれていることを記している。
・まるで子供のような庶民気質
アンベールは、「日本の庶民階級の人々は、まるで子供のように、物語を聞いたり歌を唄うのを聞いたりすることが非常に好きである。職人の仕事や商品の運送などが終るころ、仕事場の付近や四辻などで、 職業的な辻講釈師の前に、大勢の男女が半円をつくっているのを毎日のように見かける」と、庶民階級の気質を記している。また、アンベールは庶民の気質を、「日本の働く階級の人たちの著しい特徴である陽気なこと、気質がさっぱりとして物に拘泥しないこと、子供のようにいかにも天真爛漫である」と述べている。
庶民生活を目の当たりにしたアンベールは、「みなで集まって飯事(ままごと)遊びをしていて、むしろ食欲を満足させるというよりは、楽しむために食事をしている大きな子供たちを目の当たりに見ているような気がしてくるのである」と。
スイス領事・ルドルフ・リンダウも、「日本人ほど愉快になり易い人種は殆どあるまい。良いにせよ、悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこけるそして子供のように、笑い始めたとなると、理由なく笑い続けるのである」と、庶民の気質を観察している。
・日本の家は生活の中心ではない
「日本人の家は・・略・・ときには休息所だったり、一時の逃避所だったりする。人々はここに、町中の労働や田畑の仕事が終ったのちに安らぎを求めるのである。したがって、咋日のことは忘れ、明日のことは考えず、その日暮しをしている人々について、こういういい方が許されるとすれば、日本の家は生活の中心ではない」と、アンベールは庶民が建物としての家には執着しないことに気づいた。それでいて、隣近所との関係は密であり、共同体、相互扶助を大切にしていたことがわかる。
また、カッテンディーケは、「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純ぎわまるものである」と。また、「日本人の欲望は単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である・・略・・生活第一の必需品は廉い。だから誰も皆その身分に応じた財産を持つことができるのである」とも述べている。
また、タウンゼント・ハリスは、「日本人の部屋には、われわれが家具と呼ぶような物は一切ない」とまで書いている。そして、「蓋しこの土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精いっぱいで、裝飾的なものに目をむける 裕がないからである。それでも人々は楽しく暮しており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。それに、家屋は清潔で、日当たりもよくて気持がよい。世界の如何なる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」と、下層民の生活を具に見て褒めている。
オールコックも、「その日暮らしの生活をしている小売り商人や農民にいたる人びとの、設備の十分ととのった家の全家具を見てみたまえ。・・略・・もっとも貧しい人び・・略・・台所には、若干のバケツ、二、三の銅ないし鉄製の平鍋、日用の米と湯につかうための大鍋とそれをかける移動可能なー、二のストープなどがあり、これらが料理のための道具のすべてである」と。