江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)309
江戸下層庶民の日々の暮らしと境遇
幕末期の江戸庶民は、慶応二年(1866)の窮民調査によれば、貧窮民とされる人々が約29万人いたとされている。その困窮度は、畳や建具もない最窮民が約8万人。次いで、竈に湯釜、破戸棚か箪笥があり、芋粥を二度くらい食べられる窮民、畳や建具に鍋釜等があって三度の食事のうち二度ほど粥にする窮民がいて、これらの窮民が約21万人とされている。
貧窮民とされる人々は、その生活形態から、街中に出歩いている人々の大半を占めていたと思われる。彼らの行動は、否応なく欧米人の目に留まり注目された。安政四年(1857)に訪れ五年間滞在したオランダ海軍の軍医・ポンペは、「男でも女でも素裸になったまま浴場から街路に出て、近いところならばそのまま自宅に帰ることもしばしばある。全身は赤くなって、身体からは玉のような汗が垂れている。けれども誰もそれを見ても気に止めている気配もない」と、呆れて『ポンペ日本滞在見聞記』に記している。
また、カッテンディーケも「下層の日本人は、互いに礼儀というものを全然知らない。・・略・・我々が風呂屋の傍を通ることがあれば、彼らはその風呂からとび出し、戸口に立って眺めている」と、述べている。昼間から風呂に入る下層民が居ることから、時間に縛られない人であるか、定職の無い人の多いことがわかる。下層民の多くは、仕事をしていたとしても何時でも中断できる自由で、気軽な作業をしていたのであろう。
これらの下層庶民がどのような仕事をしていたか、その仕事をするに至った事情や境遇などを探ることにした。それは、『江戸町人の研究 第2巻』「後期江戸下層町人の生活」の別表 後期江戸下層町人生活実態一覧表より紹介する。その史料は『孝義録』『続編孝義録料』『御府内備考』『忠孝誌』で、それらに記載されたものから選んでいる。記された名前は表彰者名で、その表彰理由を含む表彰者の生活実態をもと、下層庶民の生計の立て方、働き方を中心に示す。
・久助(『孝義録』)は、播磨国姫路より新乗物町の石川東雲方に奉公するが、東雲が中風となり、困窮する。そこで、久助に他家へ奉公を勧められても請けず、家主から元手を借り、東雲家伝の木香丸(薬)を売り歩く、もうけが少ないので、朝は樒 (供花) 売もする。裏店なので、暑いときは露地に背負って出て涼ませ、夜も蚊帳がないので、自分は一重の着物をかぶって、扇いでやる。食べるものがないときは豆腐のおからを食べて飢えをしのぐ。
江戸には、地方から奉公などで住み着く人たちが少なからずいた。彼らの生活は、もともと恵まれてはおらず、奉公人になっても、ことがあればその日暮らしになるものであった。そのよう中で久助は、奉公先の主人の世話をし、困窮生活をしながら助けたということで表彰された。
・勘次郎(『孝義録』)は、父の喜八が木綿を商っていたが、利がないと三十二年前に喜左衛門町へ来て、豆腐を作り渡世をして、両親に弟一人、妹二人の六人暮しであった。勘次郎は十二歳より豆腐を担って売り歩き、十四歳からは喜八が家で豆腐作りに専念し、勘次郎は日に三度ずつ売り歩く。天明四年火災にあい、家財焼失。しかたなく裏店に移り、商いがはかばかしくないので、夏は心太(ところてん)を売って足しにする。五年前より父中風。天明の飢饉の時も一日もかかさず商売に出、両親に酒魚を食べさせる。隣町佐兵衛町家主三郎兵衛下女しなと結婚するが、両親の意に叶わないと離別する。
勘次郎は、父の仕事がうまくいかず、商売変えなどをするものの、生活を改善できなかった。納豆や心太の行商し、妻を娶るが両親との不仲で離婚してまでも、親に尽くす善行をしたと表彰された。
・市太郎(『孝義録』)は、父の代から亀嶋町で野菜物問屋•薪炭仲買。父の死後は家業を継ぎ、祖母と母、二人の弟と妹の六人暮し。店の前の河岸に野菜物の売り渡す所、薪炭を置く所を占め置いて、潮の差引によって昼夜を分かたず入って来る荷主の船をさばき、また売子に売り渡し、暇があれば薪を割り、炭を売り、父の代以上に繁昌させた。
市太郎は、家業を継ぎ、家族を養い、父親にも増して働くことで繁盛させたと善行を表彰された。
・次郎兵衛(『続編孝義録料』)は、父も家主役をしていたが、幼いとき両親とも死亡し、祖母はつが次郎兵衛の成長するまで水油乾物商売をしてきた。成長して家主役を勤めるようになったが、親のときからの大借があり、追い追い貧乏になり、建家と商売物を売り払って、裏店へ引込む。祖母はつや懇意の者は妻を迎えるように勧めても断る。次郎兵衛は幼いころから素読を稽古し、今も儒書を読み、時々聖堂へ講釈を聞きに行く。
次郎兵衛は、親が生きている時は家主で、極貧の生活ではなかった。両親が亡くなると零落し、嫁もとらずに働き、家主を務めると共に勉学に励んだと、その善行が表彰された。
・喜八(『続編孝義録料』『御府内備考』)は十五年前、三郎兵衛方へ養子に入り、八年前十九歳のかんを妻とする。十四年前から、養父三郎兵衛は持病の疝気を患い、陰嚢が大きく腫れ、九年前からは中風にもなり、また養母とめも眼病を患って、四年前盲目となる。喜八は割槇渡世に励んだが、元手も少なく、その上病人も多く貧乏。家族が多く、嫁も臨月になったので、貧乏な中で、長屋のうち奥へ五軒目の家を地主に頼んで借りる。地主も店賃を取らず貸してくれる。夫婦が交替で寝泊りし、火に気をつけ、また養父には月に五・六度も行水してやり、養母は嫁が風呂へ連れて行く。
養子の喜八は、養父家族の生活を支え、病の身内の面倒を見て、地主の厚意を受けながら、貧乏にも負けず、孝行に励んだとして表彰された。
・ひさ(『続編孝義録料』『御府内備考』)は、相模国の百姓の娘で、十八才の時に江戸に出て方々で奉公した。鼻紙袋屋新助方へ奉公していたところ、新助は痕で苦しんだが、その時ひさがよく世話をしたので、隣の同職の藤八の世話で、久兵衛と結婚する。しかし、夫は痰殖を患い、たいへん貧乏になり、少々の衣類もみな質に入れ、道具までも売り払ってしまう。それで、ひさは二歳になる娘を背負って、草花類を売り歩き、昼前に帰って今度は焼豆腐 • 油揚を籠に入れて売り歩き、ハツ半ごろ帰ってまた四谷大木戸辺に草花を仕入れに行き、七ツ半ごろ帰って翌日売る花をこしらえる。ひさはボロを身にまとい、女のふりを捨てて、雪や雨でも一日かかさず商いに出る。しかし、夫が眼病に、娘が驚風になり、医者にもみせたが娘は死なせてしまう。今も夫の眼病が癒らないので、昼は商いに出て夜は肴病しながら賃仕事をしている。『続編孝義録料』『御府内備考』
ひさは、地方から奉公に上がった女性で、よく働くことで結婚を世話されるものの、夫の病で極貧に陥る。その上、娘も亡くすという悲運にもめげずに、彼女はできる限りのことをしているので表彰された。ひさがひたむきに活きている姿、決して幸福とはいいがたいが、常に前向きな様子が伺える。前記までの人々についても同様であるが、生きることを投げない社会を感させる。そのように対応できるのは、周囲の見守り、働き方の自由さとゆとりがあること、絶望に陥らない社会が成立していたと思えないだろうか。