江戸下層庶民の日々の暮らしと境遇の考察

江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)310

江戸下層庶民の日々の暮らしと境遇の考察

 困窮民とされる人たち、どのようにして食い扶持、仕事を得たのであろうか。前記の「ひさ」は、どのようにして幾つもの仕事を行なえたのであろうか。先ず、草花類を売り歩くが、そのために四谷大木戸辺に草花を仕入れている。現代のような職業安定所の紹介や転職サービスがあるわけではない。彼女には、手に技能・技術も無く、幼い子を抱えた女性が働くことは、現代であっても大変なことである。

 得られた稼ぎは、利幅の少ない草花売り、それだけでは足りず、それが終れば、今度は焼豆腐 • 油揚を籠に入れての売り歩きをする。幾つもの売り物をどのように仕入れるか、仕入れ先を探すことから始まり、販売先など、誰が教えてくれたのであろうか。焼豆腐や油揚が売残れば、自らが食べればよいが、草花となれば仕入れ先に返したか、それとも奇特な人に引き受けてもらうか、どちらにしても容易なことではない。このような事情を解説する史料など無いと思われ、推測するしかないであろう。考えられるのは、近隣の庶民社会に助け合うセーフティーネットがあったのであろう。

 憶測するに、知人や近所の住民が教えてくれたのではなかろうかと、それよりも近隣町内の家主が指示したのではなかろうか。家主は、人別帳や町の運営費用などをとりまとめ、町の情報に詳しく町内活動の中心的な役割を担っていた。裏長屋の人々は、互いの境遇を共有するかのように、生活していたのではなかろうか。下層庶民の社会は、現代のような競争社会ではなく、互いに和して気づかう関係が形成されていたようだ。生活は決して楽ではないが、下層民は、自分の境遇や資質に応じて生きることの出来た、いやその運命に沿って生きなければならなかった

 その生活を支えた仕事、どのようなものがあったかを探るため、生活実態と共に紹介している。なお、表彰された人は、為政者の意に添う者であったであろうが、下層社会の様相を伝える史料として参考になると思われる。

・庄七(『続編孝義録料』『御府内備考』)は、江戸生れ、五歳のとき父は病死、母に育てられ、宇田川町に店借して鉄物職手間取渡世をしていた。同町別店に越したとき妻をなくし、しだいに貧しくなり、芝中門前二丁目に店替して、子供手遊類を商いするが類焼して、その家が普請中、麻布宮村町に店借しまた戻る。母妙覚は、火事以来老衰の上失明し耳も遠くなって、庄七は遠方に出商いに行かれなくなり、そのときから近くの芝神明社内の香具見世物に雇われ、毎日出かけ日割で給金をもらう。

・善太郎(『御府内備考』)は、父の幸八が日雇稼または小肴売渡世。しかしあまり商売が上手ではなく、その上病身。母しげは病死、父幸八は疝癪を患い、その上からだが腫れしびれて働けず、ひどく貧乏になり、祖母と善太郎の二人で漁やむき身の手伝いをして、わずかな賃銭をもらい、ようやく暮しをたてていたが、祖母も五年前死に、それからは弟勇次郎と貝を取って、むき身にしたりして売り歩き、親子三人の暮しを立てる。しかも商いの手すきのときには手習いし、弟にも教える

・金之助(『御府内備考』)は、父馬之助の足が不自由で、居職を家業としてきたが、師匠の宇田川横町店借印判職彦兵衛が病死し、その次男勘之助が相続したが身持ちがよくなく家出して断絶しそうになったので、親類に頼まれその跡を継いで、師匠の孫清次郎と同居して、馬之助の母と金之助との四人暮らし。父馬之助こと彦兵衛は瘡毒になり、便所へも行けないほどになり、祖母も老衰で何もできず生活に困ってしまい、金之助はその年から印判墨や鉢植えの草花を方々売り歩き、何とか暮しをたてる。ところが、勘之助が詫びを入れて戻ってきたので、馬之助は母と金之助を連れて飯倉四丁目の裏店に越す。金之助は祖母と父の看病をしながら、朝六ッ前に起きて、食事を作って食べさせ、それから芝二本擾辺の問屋から水菓子を買い入れ、方々売り歩き、夜も日和のよいときには草花鉢などを飯倉三丁目の四辻の往還に並べて商い、雨の日は第の付焼を自分でこしらえて近所を売り歩く。暑い日には相店の者からたらいを借りて、父・祖母を行水に入れ、また馬之助の同業者から古蚊帳をもらってしのぐ。勘之助と彦兵衛方から店賃程度は送ってくれるが、彦兵衛も貧乏でそれ以上のことはできず、店請人の麻布新網町一丁目店借吉五郎は馬之助の従弟になるが、これもその日稼ぎの捧手振で月々白米五升ずつ送ってくれる程度。それで家主・相店の者が時々味噌汁や菜の物をくれる。祖母も馬之助も死亡し、金之助は西久保同朋町店借兼五郎方に同居して、時の物商いをしている。

・三次郎(『忠孝誌』)は、父留五郎は本芝二丁目に住み、魚売渡世をしていたが、長患いをし稼ぎもできないので、相談のうえ離縁し。三次郎は母さとの方へ引き取られ、留五郎は本芝四丁目に転居。母さとは洗濯物などを渡世にしてようやく生活をたてていたが、留五郎は病気が全快したので、留五郎はさとと掛けあい、三次郎を引き取る。さとはその後方々へ雇奉公して歩く。三次郎は父と小魚類を売り歩いたが、飯倉町二丁目家持雑菓子問屋庄兵衛方へ年季奉公に住込む。父が病死したが、奉公中ゆえ、わずかばかいの衣類などを売って葬式を出す)⑳年季があけ、庄兵衛方で菓子職手間取となる。母は九歳のとき別れたまま消息不明。それで方々たずねたところ、ようやく飯倉五丁目、鳶日雇清次郎方へ再縁し、その後男の子が生れたことがわかり、早速たずね、母や清次郎 ・弟寅吉とあう。それからは主人からもらう毎月の手間賃六貫文を清次郎夫婦に送る。清次郎は身持ちがよくなく、暮しも困って三次郎の衣類を質入れしたりしたため金を才覚して受け出さねばならぬことしばしばだった。清次郎は病死し、それからは母の方へ同居。弟寅吉とも三人ぐらし。母さとは最近は病身で洗濯稼ぎもできないので、主人の所へ通い稼ぎするほか、手すきのときは飴雑菓子などを売りに歩いたり、左官手伝に雇われたりして暮す。弟寅吉は主人庄兵衛のはからいで、庄兵衛の弟麹町六丁目雑菓子問屋六右方へ奉公に出て、今は二人ぐらし。

・重吉(『忠孝誌』)は七歳のとき、父仁兵衛は神田鍋町北横町に店借していたころ病死し、母さくは生活に困り髪結して生活。重吉は一一歳のときから浅草御蔵前片町札差伊勢屋嘉右衛門方へ奉公、二四歳のとき暇を取り、母さくと同居。重吉は簿職を習い覚え、母は髪結して暮していたが、度々類焼、暮しに困る。寒中でも夜九ツ時までは働き、一生懸命働く。母は年取り、髪結をやめ、近所に頼まれ洗濯物をして稼ぐ。なおさくが女髪結稼ぎをしていたのは、御制禁を破ったことで不埒であるが、悴重吉の孝心に免じて御咎の沙汰におよばないと申渡される。

・忠兵衛(『忠孝誌』)は、十年年季の奉公住みし、その主人が死んで、その悴が跡目をつぎ治郎右衛門と名のり、今の高砂町に店借して移り、軽呉服ならびに古着渡世する。その後治郎右衛門は結婚し、子どもも三人でき、奉公人とも十人で暮していたが、神田佐久間町からの出火で、二度とも商品・家財すべて焼失。引きつづき米価高値で商いもしだいに薄くなり、奉公人も追い追い暇をとり、忠兵衛一人年季通り忠実に勤め、その後は一年給金二両ずつに取り決めてあったが、主人が困っているのをみて、十一年間少しも給金は受けとらず、今年まで二十一年間正直につとめる。ふだんは接ぎのあたった着物を着、朝は水汲み掃除から食事の用意をし、すぐに富沢町の古着朝市へ行き、懇意の者から古着呉服類を借りうけ持ち帰り、治郎右衛門の得意先 へ持参して売りさばき、代金は元方滞りなく支払う。主人妻みきが大病し、また五歳になるその娘つなも病気のため、暮らしに困り、毎晩、近ごろは隣町の往還へ古道具瀬戸物類を筵に並べて商い、主人の暮しに入れる。

・小太郎(『忠孝誌』)は、父小兵衛が青物渡世していたので、小太郎は十歳ごろから商売の手伝いをして夜まで働く。父が風疾で働けなくなってからは、暮しが苦しくなり、小太郎は青物類を買出しに行き店で商い。売れ残りの品は近辺へ持っていって売りさばき、ろくろく休息もせず働く。父の病気平癒を祈り、毎度目赤不動へ参詣し、なおってからは、毎日青物類を売りに歩く。兄弟多く暮しかねるので、夏に炭や薪を求めれば、安く手に入ると考え、知人の百姓に頼み、炭八俵代金二分、駄賃二〇〇文をやって求め、その代金は小太郎が儲けを二四文、あるいは三二文と除いておいて溜めた銭で払う。