江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)312
江戸下層庶民社会の変化に注目する
『江戸町人の研究 第2巻』「後期江戸下層町人の生活」(吉川弘文館)の「後期下層町人の生活実態」は、「生業と収入」「家族構成」「居住地域」を詳しく解析をしている。さらに「江戸下層町人の増大と幕府の政策」を論じている。表彰者の状況は、当時の江戸下層庶民生活を知る上で非常に参考になる解析である。
ただ、気になるのは、「江戸下層町人の増大と幕府の政策」の見解である。「さらに、寛政二年 (1790)十一月、同三年十二月、同五年四月の再三にわたる旧里帰農令、あるいは人足寄場の設置、さらには天保十四年(1841)の人返し令は、そのねらいなどと考え合わせると、それは単に農村復興政策であったばかりでなく、爆発の危険を内包する下層町人を分散させようとする都市政策であったともいえよう。そして、旧里帰農令が再三出されていることや、さらにきびしい人返し令が出されるにいたったことを考えあわせると、それは貧農の都市流入による江戸下層町人の増大がやまなかったことをものがたるものといえよう」とある。
「爆発の危険を内包する下層町人」を帰農させれば、平穏な農村の秩序は保たれるであろうか。寛政の改革の一環として制定した法令、「旧里帰農令」は、松平定信が正業のない出稼ぎの百姓たちに資金を与え、農村へ帰すこと目論んでいた。しかし、期待した農村の人口回復も、江戸の治安維持も成果を得られなかった。
さらに、水野忠邦の天保の改革で出された「人返し令」も効果がなかった。これらの施策は、旧来の米の生産という農業中心の経済を踏襲しており、貨幣経済が農村に浸透している実情を軽視した時代錯誤な政策だったといえよう。そのため、農村社会の結びつきにも変化が起きており、必ずしも農村の共同体的結合は強固ではなくなっていたようだ。
そこで、『都市江戸に生きる』(岩波新書)の「第四章 品川-―宿村と民衆世界」から、もう少し下層庶民社会を深く考察している例を紹介する。この書では、庶民社会を百姓(江戸近郊農民)と宿場(宿村)とを「宿村の百姓の共同体」としてその実態を分析している。それは、「南北品川宿村は、複雑な支配秩序の下で、相互に異なる多様な社会集団が入りくむ分節的な様相を呈した」ものであるとしている。
品川宿には、農間稼ぎの「街道沿いの食売旅籠屋や水茶屋のほかは、御府内(江戸)と同様に、いろいろと品物を商う店舗が」あった。「また、裏々に居住する者は、前菜物(野菜)売り、駕籠舁、日雇いなどをして稼いで」いた。「女性はこれらの渡世に応じて、縫い針、洗濯、賃仕事などをしてい」た。
宿に関わる主な集団に、旅籠屋とその仲間がある。「旅籠屋は本来、幕府の公用交通や大名の参勤交代などに際して宿泊の御用を担い、また旅行客を対象として宿泊機能を果たす役割を持つ・・略・・当時、品川宿の旅籠屋は百十一軒ある。このうち、『平旅籠屋』は十九軒で、残り九十二軒は『食売旅籠屋』とある。つまり、旅籠屋の八割以上が食売旅籠屋であった」とある。
「食売旅籠屋 は『旅籠屋中』という共同組織を作り、地方百姓、すなわち宿の地主層とともに、品川宿村の社会全体を束ねる有力な存在となり、大きな影響力をもった」。「食売旅籠屋はほぼ地借層で、かれらの支払う地代が、地上である役屋敷所持者の収入となった。宿財政の収人源の大半が、実は食売旅籠屋の経営によって、直接・間接に賄われる構造にあったことが窺い知れるのである。つまり、食売旅籠屋において食売女として悲惨な性労働を強いられた若い女性たちが生み出す莫大な利益の一部によって、品川宿の機能が維持されていたということである」とある。
宿には、「宿駕籠屋の仲間があり、品川宿全体を枠とする仲間を形成していた。・・略・・歩行新宿の宿駕籠屋は六軒で、それぞれ駕籠舁人足を店に抱えて営業した。この人足を抱駕籠舁と呼ぶ。宿駕籠屋にとって、駕籠御用を滞りなく勤めるためにも、抱駕籠舁人足を十分確保しておくことは切実であった。そしてこの時、抱駕籠舁の上限数を宿駕龍屋一軒あたり八名と取りきめ、人足を奪い合うような競争を避けようと試みている。・・略・・駕籠舁らは、『遠来の、身元がよく分からぬ者』が駕籠舁渡世に紛れ込むことのないようにと、仲間を形成した(日懸け銭仲間)。それは、渡世する者を限定し、仲間を定めて規則を作り、また一人月に三十二文ずつ『日懸け銭』を積み立てさせ、仲間内の病人や不幸があった場合に手当ができるように、と申し合わせている」とある。
ここで注目するのは、品川の宿場が「多様でそれぞれが個性的な社会集団が織りなすように形づくられた社会、宿駅や疑似遊廓を軸とするこれらの社会全体を、そこで統合し実質的に支配する百姓=地主の共同組織や食売旅籠屋の仲間、および一部の大店層、などからなる社会的権力、こうした社会的権力の力に依存して初めて可能となる幕府や寺院領主の支配、こうした構造が浮かび上がる。そして、その対極にあるのは民衆世界である。しかもこの民衆世界は単純な構造ではなく、裏店の貧民を中心としながら、同時に流動的な日用層や社会から逸脱しかかった悪党層をも含み込んで成り立つ。これが近世後期から幕末維新期にかけて、巨大城下町江戸の南端に接する南北品川宿村で見られた社会の実像なのである」と考察している。
江戸(都市)近郊では、農民が地主などとして、百姓が共同体を結成し、農業生産だけでは成立していない状況が生まれていた。また、農村には商業活動している百姓身分の商人(在郷商人)もいて、米の生産を主とする社会から変貌しつつあった。それは、米以外の作物の多様化が進み、綿、菜種、藍、桑、煙草、甘藷、麻、紅花などの商品作物の栽培が盛んになった。さらに、糸を紡いだり、布を織るなど、家内工業が農村社会にも貨幣経済が浸透していた。